負債は、長期的な資金の量と方向を制御する。
経済は、結局、現金の流れを見ると解りやすい。経済の動きは、色々な要素が錯綜し、入り交じって複雑に見えるが、現金の流れによって見ると意外と分かり易い。
なぜならば、実際に経済を動かしているのは、現金の流れだからである。また、実体的に把握できる事象も現金の流れである。
負債、資産、収益、費用と言っても、現金勘定を除けば、全て現金が流れた痕跡に過ぎない。しかも、表記される数値は、名目的なものである。
実際に、経済を構成する個々の要素、即ち、企業や家計、財政を、動かしているのも、現金の流れである。故に、現金の流れと働きが理解できれば、経済の絡繰り(からくり)も解明できる。
貨幣の流れを生み出しているのも、作り出しているのも借入、即ち、負債である。大体、貨幣を実体化した物である現金は、借用書を元として成立した物である。
実際に経済を動かしている原動力は、資金の流れである。それは、企業経営が典型である。企業経営は、資金繰りがつかなくなったとき破綻するのである。資金が廻っていれば、赤字でも経営は成り立つ。だから、多くの公益法人は、大赤字なのに、成り立ってきたのである。
経済を動かしているのは、貨幣の流れである。その貨幣の流れに方向性を持たせているのが長期的資金であり、負債の働きなのである。
貨幣が滞留し、偏ることが問題なのである。貨幣は、流通することによって効力を発揮する。貨幣を不必要に溜め込んでしまう者がいれば、貨幣は滞留してしまう。預金や貯金が悪いと言っているのではない。貨幣の流れに澱みが生じ、循環しなくなることが悪いのである。
ただ貨幣は貨幣である。実際の経済は、人と物とによって成り立っている事を忘れてはならない。
経済の規模や働きを決定付けるのは、人の数と物の数である。特に、食料と資源の量である。貨幣は、物を人に分配するための手段である。しかし、貨幣経済においては、貨幣は決定的な働きをしている。故に、貨幣は重要なのである。しかし、貨幣が全てではない。
食料の生産可能量,或いは、調達可能量が経済の上限、即ち、人口の上限を制約する。人間は、生き残るために、食料を生産し、保存する技術を発展させてきた。それは、調達できる食料の量によって養える人口が決まるからである。それが経済の根本である。
物を人々に万遍なく分配するために、貨幣は、必要とされる。貨幣は、分配のための手段である。
つまり、経済政策というのは、人の欲求に基づいて物を適正、適時に分配できる環境を整えることである。
石油を例にとれば、石油の生産や流通に障害が発生した場合、石油価格の高騰に備えて備蓄を放出すると同時に、価格の変動によって被害が生じる事が予測される産業や消費者に対して資金的、或いは会計的支援策を講じることが大切なのである。その場合、時機(タイミング)よく即時的な対応する必要がある。
いくら石油を備蓄しても経済の変動やエネルギー危機を防げなければ何の意味もない。その為には適時、適正な処置を講じることが求められるのである。
景気がなぜ悪いのかといえば、企業収益が悪いからであり、企業収益が上がらないのは、経済の仕組みが企業収益が上がらないようにしている事に原因しているところが多分にある。むろん、経営者の資質に追うところが大きいとはいえ、一つの産業における大部分の企業が赤字だとなると、それは産業の構造的問題だといえる。
今日の税制度は、企業は内部留保を積むことに対し、否定的である。とにかく、企業が儲かったら、全てを吐き出すような仕組みになっている。
企業が利益を蓄積することで何か悪い事があるのか、困ったことが生じるのか。企業というのは本来公器なのである。公器である企業が投資する資産は、私的な財産、資産とはわけが違う。基本的に生産手段に使われるのである。
企業利益が私利私欲のために蓄積されるのであれば別である。しかし、それは企業の在り方の問題であり、企業本来の働きとは別の問題である。
何でもかんでも競わせればいいと言うものではない。何を、なぜ競わせるかが問題なのである。企業収益に対する施策は、何でもかんでも大企業優先だとするのは、間違った認識である。その様な主張をする者の多くは、反体制、革命主義者である。彼等の多くは企業を目の仇にし、収益をあげることを搾取だと勘違いをしている。
企業は、分配のための機関であることを忘れてはならない。企業が市場で競うことは、値段だけではない。デザインや性能、品質、味覚や内容と多岐にわたる。むろん最終的には、価格に還元される。価格に還元されるからこそ、無意味な乱売合戦は、避けるべきなのである。大切なのは、企業が収益をあげなければならない事情である。
乱売合戦は、市場を荒廃させ、収益を悪化させる。会計が、正常な働きをしなくなれば、会計を操作して見せ掛け上の利益をあげることができる。それは、大企業であればあるほど有利である。大切なのは、適正な費用を確保できることなのである。競争は原理ではなく。手段である。
会計が規律を失えば、適正な収益があげられなくなる。適正な収益があげられなくなれば、健全な企業から淘汰されていく。企業の健全さを維持しているのは費用だからである。
経済を動かしているのは、現金収支である。しかし、だからといって期間損益は、無意味だと言っているわけではない。
期間損益は、長期資金と短期資金を区分することによって、長期的資金の働きと短期的資金の費用対効果の関係を測定することを可能とし、それを以て資金の流れをつくりだしているからである。
経済を決定付けているのは、資金の流れであり、資金の流れる方向は、負債と収益の在り方によって決まる。負債と収益を裏返すと投資と費用の問題だとも言える。また、翻って言えば、、会計や税制の在り方が資金の流れを決定付けているとも言えるのである。
資金の流れを会計制度や税制によって制御しているのである。
負債は、長期的資金の流れを制御する。収益が悪いからと言って、長期的資金を引き揚げれば、産業は土台から崩壊してしまう。
収益が悪い時は、収益が悪化した原因こそ正すべきなのである。収益を悪化させている原因が経営者の資質に関わる問題なのか、原油の高騰や為替の変動、一時的な問題なのか、人件費の高騰と言った、長期的、構造的問題なのかを見極めるべきなのである。
長期的資金の流れと短期的資金の流れを区分することによって費用対効果を明らかにすることが期間損益の役割である。
期間損益の意味を正しく知らないと会計は、かえって障害となるのである。
重要なのは、現金がどの方向に、どれだけ流れているかである。現金の流れる方向には、市場側と、回収側とがある。また、市場に流れるにしても設備投資のような長期的な資金として流れと人件費や経費と言った消費、短期的資金の側に流れがある。
景気の動向を占うためには、付加価値、中でも、償却費、及び、金利が占める割合と人件費が占める割合の構成比率が鍵を握る。償却費、及び、金利は、回収側に流れる名目的費用を表し、人件費は、所得、即ち、消費側に流れる名目的費用だからである。
また、付加価値の構成比率は、相対的な割合であり、国家間や地域間、また、通貨圏間、産業間を比較しないと真の意味が理解できない。付加価値は、為替の変動、物価や所得水準の変化、原材料価格の動向、ライフスタイルの変化によって変わる。その変動に対応できなければ、経済状態は不安定になり、産業は衰退するのである。
経済の基本を変化に求めるべきではない。変化は、不確実性、不安定性を原動力とするからである。それに対し、生活の根本は確実性であり、安定性である。人々の生活を安定するためには、所得を定収入化することである。
人々の収入が安定し、先に対する見通しが立っている上で社会は変化を受け容れられるのである。
変化ばかりを追い求めることは、世の中を動乱状態に、混乱状態に陥らせてしまう。競争というのは、ルールがあって成り立つ、ルールのない競争は、闘争である。ルールとは、法であり、規制である。
付加価値の構成比率の背景にある事情を明らかにした上で、極力、公正な競争が実現できるように市場を設計する必要がある。単に保護主義的観点からだけで規制を掛けると自国の産業をかえって脆弱にする危険性がある。要は、何のために競わせるのか、その目的を明確にすることなのである。
また、付加価値と収益の比率、原価に占める付加価値と分配をどうするのかが、問題となる。
複式簿記上において、資産は反対勘定において相殺され価値は均衡、即ち、零である。企業は、非常に繊細な均衡の上に成り立っている。利益と言っても総資産や収益、費用から見れば微々たるものなのである。ちょっとした景気の変動によって吹っ飛んでしまう。
適正な付加価値を維持するために、会計基準は設定されるべき尺度なのである。その目安が利益である。利益は、分配を設定するための指標である。
経済が乱れれば、風紀も乱れ、道徳も失われる。変化は、経済活動を活性化するが、同時に、景気の変動を招く。人々は、生活に安定を求める。経済が、変化ばかりを追い求めれば、人々は刹那的になり、厭世的になる。結局、経済は安定と変化が程良く混在した状態がいいのである。競争は、原理でも、全てでもない。
地道に努力する正直者が報れる事のない社会は、やはり、どこかおかしい。土台から狂っているのである。
経済に、勝者も敗者もない。あるのは、人々の生活だけである。
競い合うことが悪い事だと私は思わない。働きや能力に優劣を付ける事を否定もしない。ただ、経済の本質が生活にあることを忘れてはならない。人々の生活が成り立たなくなるような偏りや独占、差別は、許してはならない。
会計上の価値とは、つまり、負債や資産は、名目的な価値であることを忘れてはならない。即ち、会計上の均衡とは、名目的均衡である。しかし、経済の実相は、実質価値に重きを置いている。その為に、名目的価値と実質的価値との乖離が、常に、問題となるのである。
名目的価値は、デジタル、不連続な事象であり、実質的価値は、アナログ、連続な事象である。
資本に、負債によってレパレッジを利かせた場合、資金が流通せず。むしろ、決算をする時、実質的価値との乖離が障害を引き起こす場合すらある。負債にレバレッジ効果を利かせる取引は、名目的、仮想的な取引であり、実際に現金の移動を伴う取引ではないからである。
国家財政も又然りである。国家財政に占める付加価値をどう位置付け、処理するかが重要なのである。
財政収入は、税収、借入金 、事業収入、事業収入には、投資収入も含まれる。今現在は、事業収益の比率が低い。それは、国家事業に損益の基準を持ち込むことに少なからず抵抗があるからだと思われる。しかし、効率がよい事業は、期間損益の測定を可能とすべきである。例えば、初期投資が巨額にのぼる事業は、初期投資の部分を税金によって賄い、後は、期間損益によって費用対効果を測定すればいいのである。
公共事業は、独占事業、反対給付のない事業、初期投資が巨額で償却が大きい事業が含まれている。
費用対効果が測定しにくいかできない事業なのである。その為に、公務員の所得が相対的に決まらない。期間損益の測定が難しいからである。
公共事業でも費用対効果が測定可能な事業は、単に民営化すべきだというのではないが、それでも、期間損益に委せるべきだと私は考える。なぜならば、期間損益に置き換えないと費用対効果の測定が困難であり、費用を制御することが技術的に難しいからである。
いずれにしても安易に収入を借入金に頼るべきではない。
財政は、もっと事業所得を重視し、その基盤を事業所得に置くべきなのである。なぜならば、事業所得は、期間損益を基本とし、費用対効果の測定を可能としているからである。事業というのは、本来合目的的な事象である。目的から費用の効果が計れない、又、所得に反映されない事業は、事業目的によって事業を制御する事ができない。費用対効果を測定することによって事業の必要性は計られるべきなのである。
軍事、外交、防災といった数値化できない事業を除いて、可能な限り、事業を期間損益化するべきなのである。
税というのは、現金の流れに沿って課せられるものを主とすべきである。それは、税の役割は、所得の偏りを補正し、貨幣の流れを円滑にするため、また、貨幣を社会全体に循環するために行われる事象だからである。
例えば、ある地域の所得を特定の家族や個人が独占した場合、その地域の市場に出回る貨幣を量を不当に抑制してしまうからである。使い切れないほどの貨幣を所有することは、貨幣経済においては、弊害でしかない。貨幣の流通の偏りや歪みを是正するために税制は機能させるべき仕組みなのである。
貨幣は、使うことによって効用を発揮する物であり、貨幣は、使うためにある物なのである。
なぜ、財政も、企業会計も、家計も負債を切り離して考えなければならないのか。それは、長期的資金と短期的資金を区分して認識する必要があるからである。
長期的資金は、ストックの問題と言い換えることができる。また、短期的資金は、フローの問題と言い換えることもできる。経済の問題を考える場合、ストックの問題なのか、フローの問題なのかを見極める必要がある。その上でストックとフローの均衡のとれた対策が必要なのである。
フローの問題を安易にストックで解消しようとすることに現代の政策の間違いがある。フローの問題は、フロー上で解決しないかぎり、抜本的な解決にはならないのである。ストックは、ストックの働きと意味を知らずに融資したり、返済を迫れば産業は成り立たなくなる。
金利は、フローの問題であり、借入金の返済は、ストックの問題である。金利が払われないからと言って安直に借入金の返済を求めれば、経営の基盤が崩壊する。今は、金利が支払われていても担保価値が下がっているという理由で返済を迫る。その為に不良債権が増殖するのである。
所得が借金の返済ばかり向けられたら景気は回復しない。
この様なことを続けていくと、ストック、即ち、負債が積み上がり、国も、企業も、個人も借金に押し潰されてしまう。
負債、即ち、借入は、両刃の剣であることを忘れてはならない。
不良債権、不良債権と言うが不良債権の問題は、不良債務の問題でもある事を見落としてはならない。不良債権だからと言って安易に債権を処理すると不良債務だけが残ることになる。当然、降りよう債権の問題は、不良債務の処理と合わせて検討されなければならない問題なのである。
現在の景気の低迷は、バブル時の相続税対策が不良債権の一因なのである。
土地のような固定資産は、資産計上されれば借入金の担保となり、課税対象となる。
資本主義も、社会主義同様、生産手段の私的所有を原則認めていない。
現金主義では、借入をしただけでは、帳簿上、負の値として記載されるわけではない。負の値として表面化するのは、資金が外部に流出した時だけである。それに対して、期間損益主義に則る会計は、借入を行った時に帳簿上債務、即ち、負の値として記載され、債権と帳簿上均衡させることが求められる。つまり、帳簿上、借金がなければ、マイナスにはならないのである。
例えば、借金をしていなければ、土地の借り手がなければ、地代が入らないだけであるが、借金をして貸家を建てれば入居者がなければ借金の返済に追われる事になる。又、土地も資産として計上しなければならなくなる。その時から、土地の所有権の価値は、借金の担保と等価になり、個人の手から放れるのである。
それなのに、国も、企業も、家計も、皆、借金をしている。それは、会計制度が確立されて以降、負の部分が経済に加わったからである。そして、負の部分こそが近代経済では重要な機能を果たしている。
例えば、財産と資産とは違う。資産の対極には、負債や資本があるのに対し、財産の対極には借金はない。
自由経済だろうと、社会主義であろうと、基本的に、所有物というのは借り物に過ぎない。所有権は、賃借権である。その表れが、相続税である。
現代は、ゼロ金利時代である。ところが、不思議なことに、金利がなくなったら利益が消えた。それは、金利と期間利益との間に密接な関係があることを示唆している。
時間的価値をどう考えるか。利益や金利を否定する事は、時間価値を否定する事なのである。
金利や利益は、時間によって附加された価値である。又、金利や利益は、時間の付加価値の素である。
経済主体の行動は、将来の支出に備えて貯蓄するか、今、消費するか、将来の収入をあてにして借金をするかの三つの形として現れる。いずれも、正と負の作用を併せ持っている。
貨幣は、属性を持たない、無次元の量である。
貨幣は、貨幣単体で価値を形成する物ではない。貨幣価値は、取引によって生じる。取引とは、財と貨幣、貨幣と財、財と財、貨幣と貨幣を交換する行為である。
この様な、財と貨幣、貨幣と財、財と財、貨幣と貨幣から生じる権利や責務、即ち、債権と債務が貨幣価値を構成するである。
故に、貨幣の流量が問題なのではなく。貨幣が生み出す貨幣価値の総量が問題なのである。貨幣価値を生み出すのは取引である。つまり、取引は媒介する物として貨幣には、重大な役割があるのである。
貨幣は、財と結びつくことによって量を持つ。貨幣は、財と一体となっる事によって貨幣価値を持つ。
この様な貨幣の運動は、債権と債務を生み出す。
この関係は、長期資金の仕組み、構造を見るとよく解る。
貨幣は、経済的資源となったとき資金となる。資金には、働きによって長期資金と短期資金の別がある。
負債は、期限によって性格に違いがある。超長期が資本である。
現在の会計の仕組みは、成熟した市場を根拠地とする企業にとって資金的に甚だ不利であるという事を認識しておく必要がある。なぜならば、長期資金の扱いに問題があるからである。
長期資金というのは、企業では長期借入金であり、銀行では預金に相当する。
預金の取り付け騒ぎや貸し渋りというのはこの長期資金に対する働きなのである。
長期資金というのは、家計で言えば、住宅ローンに相当する。この様な資金の危険性は、短期の負担が目に見えないという事にある。それでも、住宅ローンのような場合は、収支によって把握できる。
しかし、長期資金は、期間損益主義では表に現れない仕組みになっている。つまり、目に見えない負担が恒常的に累積すると言う事である。又、長期資金の元本の返済は、会計上、償却資産を除いてどこにも計上されない。どこにも計上されないためその原資は確保されない。
長期資金は、借り換えを前提としなければ成り立たないのである。
決算書類上に計上されている長期資金というのは、支払後、即ち、支出後の痕跡に過ぎない。つまり、借入があった、返済義務があるという事を表記したものである。
長期資金の負担は、物価、特に、不動産市場が上昇している市場では物価の上昇によって解消されるが、成熟した市場では、消化できなくなる。その為に成熟した市場では、徐々に収益を圧迫するようになる。また、平常時においては、問題とならないが、収益が悪化すると命取りになる。
収益が悪化したら、資金を回収するというのは、失業したら住宅ローンの返済を迫られるというのと同じ事象である。ただ違うのは、企業収益は期間損益に基づく概念であり、住宅ローンとの返済は現金主義に基づく概念だという点である。しかし、どちらも泣き面に蜂、弱り目に祟り目という事には変わりはない。
返済というのは固定的、かつ、一定金額を定期的に支払う契約によって成り立っている。それに対して、収入というのは必ずしも一定していない。更に、現代の会計では、長期借入金の返済が費用として表面化しない仕組みになっている。しかも、収入に余裕があっても返済を早めると言う事ができない。期間損益の場合、返済を早めても損益上は、計上されずに、かえって資金繰りを窮屈にしてしまうという事になりかねない。
不況期において企業が倒産するのは、収益が悪化した時、不良債権を問題として、長期資金を一斉に引き揚げようとすることが原因なのである。不良債権というのは、本来は長期資金の問題である。不況期で問題とすべきなのは、収益構造なのである。
財政が破綻する原因の一つは、長期資金の増減が直接財政収支に影響を与えるからである。民営化が効果的に見えるのは、長期資金が直接、財政に影響を与えなくなるからである。
貨幣は、経済的価値を数字に置換するための手段、道具である。貨幣は、基本的に物を使用する。故に、貨幣は、物としての制約を受ける。表象貨幣は、急速に、情報化、即ち、記号化、電気信号化している。即ち、無形化している。その為に、物としての制約から開放されつつある。しかし、それでも本質的な部分でまだ物としての制約を受けている。
表象貨幣を構成する要素は、量と数、数字、貨幣である。数量は、数と量によって構成されている。量とは、長さとか、体積、面積、質量、温度、時間と言った何等かの実体を持つ全体からなる。量は比である。数というのは、他と明確に区別できる部分の集合である。数字は、数を表象した記号である。数量は、数字化されることによって演算が可能となる。
表象貨幣を構成する要素は、各々、固有の制約がある。即ち、量には、量の制約があり、数には、数の制約があり、数字には数字の制約があり、貨幣には貨幣の制約がある。
量には、一つは、長さや面積、質量、時間といった物理的な制約がある。もう一つの制約は、量は、同じ種類の単位を共有する対象間でしか、演算ができないという事である。例えば、労働量と生産物を足したり引いたりはできないという事である。
数の制約とは抽象化による制約である。対象を抽象化するために、対象の持つ属性が削がれてしまう。
数字化による制約は、記号による制約である。記号化されることで、数字によって数が具現化され、固有の属性を持つ事が可能となる事である。
数字は、際限がない、物理的制約を受けないという事である。理論的に言えば天文学的な価格をつけることも可能である。
貨幣は、経済的価値を数字に置き換えた物である。数値的価値を物に置き換えることによって交換が可能となった。
反面、物に置き換えた事で貨幣は、物としての制約を受ける。即ち、貨幣は、物であることによって貨幣が表象する価値は、自然数と言う制約を受けることになる。そして、貨幣を基礎とした会計は、結果的に残高計算が基本とならざるをえなくなる。それが複式簿記会計の成立要件となるのである。
負の貨幣価値というのは、いわば、虚数である。
借金がいいとか、悪いとか言う短絡的な議論が横行している。解くに、財政赤字を問題にする際において会計上の赤字と財政上の赤字を混同して議論している場合がある。
負債を考える時に、表象貨幣は、正と負の価値を生み出しているこの点を忘れてはならない。表象貨幣の流通は、同量の正と負の価値を生み出しているのである。
ここの取引が均衡し、尚かつ、貸し借りの総和が均衡するためには、正の部分と負の部分が同量存在しなければならないことを意味しているのである。
それは、誰かが得をして、その分誰かが、損をしていることを意味しているのではない。正は得で、負は損という発想を切り替える必要がある。そうではなくて、正の働きをしている部分と負の働きをしている部分の働きの総和が均衡していることを意味するのである。
経常収支が負ならば、資本収支は正となると言うようにである。また、財政と家計が負であれば、それに相当する企業収益が正となる。故に、ただ個別の値が正であるか、負であるかを問題にしても意味がない。問題は、正の値を示す部分と負の値を示す部分の働きの相関関係が重要なのである。
会計上、貨幣価値が均衡しているという事は、貨幣価値に正と負の価値が均等に存在すると言う事を意味している。そして、負の価値を補う形で財が存在するのである。
国債をどの様に考えるべきなのか。国債というのは、有害なものでしかないのであろうか。国債は、ひたすら似なくしてしまえばいいのであろうか。
現代社会を支えている反面は、負債である。つまり、借金によって現代の経済は成り立っていることを忘れるべきではない。もう一つ言えるのは、負債や国債をただ、借金だと受け止めて良いのかということである。
負債や国債を悪者扱いにすることは、負債や国債の積極的な働きに目を瞑ることになる。企業においても負債は不可欠な要素である。又、負債があるから金融業は成り立っているのである。つまり、必然的に、負債がなくなることは、金融業が成り立たなくなることも意味しているのである。
神に挑むことは良い。しかし、神に勝とうとするのは驕慢である。財政危機や金融危機の背景にあるのは、権力者や金融機関の人間の驕慢さである。
神は人間を試したりはしない。その必要がないからである。神に挑むのは、人間である。それは、人間の力が有限であるからである。
神に挑むのは人間の本性。しかし、神に勝とうとするのは人間の愚かさの証である。
人間の経済は神の恵みの上に成り立っているのである。
このホームページはリンク・フリーです
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures
belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout
permission of the author.Thanks.
Copyright(C) 2009.12.20 Keiichirou Koyano