経済は、数学である。
会計は、集合である。会計は、有限集合である。会計は、零を含む自然数の集合である。会計は、集合族である。会計は、可算集合である。
会計は群である。会計は、特異な構造を持つ群である。会計は、加減乗除に関して群である。
会計という数学。会計とは、一つの数学の分野だと思うべきである。
会計は、自然数の集まりである。原則として負の数字も用いない。会計上の除算の結果には、原則として少数や分数を用いない。割り切れなかった場合は、余りを出すか、端数を切り捨てるのが原則である。それは、会計が最終的に貨幣の受払を前提としているからである。
集合が成り立つ前提は、一つの全体が存在することである。即ち、何等かの全体があるという事である。そして、その全体が幾つかの要素、部分に分割されていることである。
閉ざされた集合というのは、その全体が有限であることを意味する。有限な全体を前提とするから、部分としての比が成り立つのである。
市場を一つの統一された場と見るか、複数の独立した場が複合された場と見なすかが、重要となる。また、統合された場を目指すべきなのか、それとも独立された場を維持すべきなのかが問題となる。
統一的な体系を有する法や規則は一つの場を形成する。
場を構成するのが、場に一様に働く力だとすれば、場に働く力の根源とそれを一様に保つ仕組みが何に依存しているかが鍵を握る。市場が一様な働きを保つためには、貨幣制度、金融制度、会計制度、経済制度が一体である必要がある。
特に、貨幣制度は、他の制度の基盤となる制度であり、一つの貨幣制度は、一つの通貨圏を形成する。故に、通貨制度を基盤として市場は形成されると考えられる。即ち、通貨圏毎に独立した市場が複合されて国際市場全体は形成されていると見るべきである。
この様な市場は、閉ざされた場であり、有限だという事である。即ち、市場には、範囲があり、境界線があるという事を意味する。市場は、際限のない、開かれた場ではない。市場は無制限な場ではないのである。
市場が閉ざされた場だとすれば、境界線を確定し、範囲を特定する必要がある。即ち、市場の働きを明らかにするためには、市場の規模を測定する必要があるのである。そして、市場規模を測定するときの根拠は、人的、物的経済なのである。
会計は、比として表現する事ができる。会計は、閉ざされた空間での事象である。故に、会計内部の構造を要素間の比率として捉えることが可能である。閉ざされた空間内部での事象であるから比の働きが重要になる。
全ての土地を分割することなく特定の個人が所有していたら、土地は、商品としての価値を持たない。逆に、土地が無限にあったとしたら土地は商品としての価値を持たない。
土地は、分割され、尚かつ有限であることが商品化されるための前提である。
ただ、注意しなければならないのは、商品価値と経済的価値は同一ではないという点である。商品価値というのは、市場取引の対象としての価値を意味する。商品化というのは、財に商品価値を持たせるための操作を言う。
また、取引というのは、経済行為の一種に過ぎない。経済行為は、取引以外に、生産、消費、分配等がある。
会計が比を前提とした体系である以上、会計を経済体制下で経済の働きを明らかにするためには、市場の規模を確定する必要がある。規模を確定するためには、範囲を特定する必要がある。
会計では、経済現象を取引の集合として見なす。取引を構成する要素を五つの範疇、即ち、資産、費用、負債、資本、収益に分類する。
先ず取引の認識が重要である。取引は存在したのかの確認が前提となる。
経済現象というのは運動である。会計現象というのは、運動である。取引は、運動である。
会計は、市場取引の集合である。
市場取引の基本は、売買取引である。市場取引には売買取引以外に物々交換がある。
市場取引は、売買取引が基本である。売買取引は、売買という行為を通じて単位量と単価を掛け合わせ、財を貨幣価値に変換する事である。
物々交換が、物と物とを直接交換する取引を言うのに対し、売買取引とは、貨幣を仲介とした財の交換行為を指して言う。
単価とは、価格の元(もと)である。価格と取引は一対一の対応である。
価格は、経済財の経済的価値を貨幣価値に置き換えた値である。価格は、一回一回の取引によって定まる数値である。
価格は、需要と供給、そして費用によって定まる。価格は、需要と供給だけで決まるわけではない。
よく、空気は、無尽蔵にあるから、財、即ち、価格を形成する対象にはならないといわれるが、実際は、無尽蔵にあるからだけではなく。空気を活用するために、費用がかからないと言う前提があるからである。水や、水中の酸素を思い浮かべればいい。いくら無尽蔵にあっても活用するために費用がかかれば、その費用によって、価格が構成されるのである。
そして、ここに価格の本質が隠されている。費用は経済的価値を生み出すのである。
費用は、経済的価値の核になる。費用を賄えるかどうか、何を費用として認識するかが、経済的価値を形成する要因となる。
需要と供給だけで経済状態を判断するのは危険である。経済的価値は、本来、需要と供給だけで決まるものではない。
売買取引とは、財を貨幣価値に還元する操作である。財が貨幣価値に還元される事によって経済や市場、翻って言えば会計を、一つの集合とすることができるのである。
会計は、群である。会計で重要なのは、貨幣の働きである。貨幣の働きによって会計は、集合となるからである。即ち、財を市場価値に還元する貨幣による操作が、会計を成立さているのである。故に、会計は群である。
会計は、全体集合や部分集合に対する加減乗除が可能である。例えば、為替の変動に対する演算として加減乗除の演算が可能である。
売買取引とは、財の受払と貨幣の受払が一組となって構成される交換行為である。
複式簿記を基盤とした会計制度では、取引を反対方向の働きを持つ、同量の二つの事象として認識する。二つの事象は、独立した働きを持つ事象であり、各々、固有の性格を持つ事象である。
会計上では、取引を構成する事象を、勘定とし、勘定科目に分類して取引毎に表記する。
故に、会計は、勘定科目を元とした集合である。
会計は、三層の構造を持っている。最下層には、貸方と借方の二つの領域からなる。中層は、資産、費用、負債、資本、収益の五つの領域からなる。最上層は、貸借、損益の二つの領域からなる。
会計を構成する各層は、会計の部分集合である。
各階層は、会計手続き、操作によって連結されている。取引は、仕訳によって下層の二つの領域に振り分けられる。そして、転記よって中層の五つの領域に集計される。そして、決算仕訳と締め処理によって損益と貸借に分類され、期間損益が算出される。
会計の結果は、一つの全体集合、即ち、決算書として表現することが可能である。
借方、貸方、二つの部分集合は、お互いに独立している。貸方、借方を、各々、集計した値は、常に均衡している。
更に、借方は、資産と費用の二つの部分集合からなる。貸方は、負債、資本、収益からなる。
借方、貸方を構成する五つの部分集合は、相互に独立していて共通部分を持たない。
会計上の取引には、内部取引と外部取引がある。内部取引によって個々の勘定は消化され、外部取引によって決済、清算される。
取引は、相殺取引によって内部勘定を解消し、最終的に外部取引によって現金化して取引を決済、清算する。
会計は、会計主体が取引を認識する事によって会計行為を認識した時点から始まる。故に、会計は、認識の問題なのである。
取引とは、財の交換と貨幣の交換が並行する行為である。つまり、取引には、財の交換と貨幣の交換という二つの事象が同時に進行していることを意味している。
現金主義は、貨幣の受払が実現した時点を取引の開始と見なし、貨幣の受払が完了した時点で終了したと見なす。即ち、現金主義は、取引が成立した時点で取引は終了したと見なす思想である。
現金主義では、取引とは、財と貨幣の一対一の交換行為を意味する。財の受払は、貨幣の受払と同時に行われることを原則としている。つまり、財と貨幣との交換された時点で取引は、完了したと見なすのである。
純粋の現金主義においては、貨幣その物が、財としての価値を持つことを意味している。
現金とは、貨幣価値が実現した事象、貨幣価値を実現する物を意味する。貨幣価値を実現する物とは、貨幣その物を言う。
それに対し、期間損益では、貨幣の交換と財の交換を別の事象とし、二つに分けて認識する。その上で、財の交換と現金の受払を前提とした合意が成立した時点を取引の開始として見なし、現金の受払が成立した時点を取引の終了と見なす。
現金の受払によって取引を完了する行為を決済とする。
会計情報は、取引の集合である。
会計上の取引は、財と貨幣の移動を伴う行為を言う。
財か、貨幣かのいずれかの移動が認識された時を取引の開始とし、財と貨幣の双方の移動が確認した時点で取引は完了する。
取引が発生したと見なされる事象を認識した時点から取引が開始されたとする思想を発生主義といい。取引が実現したと見なされる事象を認識した時点から取引の開始された見なす思想を実現主義という。
現金は、取引が成立した時点での貨幣の運動量を示している。取引よって生じる貨幣の運動は、同量の債権と債務を生じさせる。
単位期間内で清算される債権が収益であり、次の単位期間まで繰り越されるする債権が資産である。単位期間内で清算される債務が費用であり、次の単位期間まで繰り越される債務がが負債である。
取引は、発生した時点で、借方、貸方、二つ方向の要素に分解される。取引が発生した時点での貸方、借方の集計数値の差は零である。取引は、貸方、借方双方に、同量の貨幣価値を生み出す。
さらに取引は、仕訳によって五つの部分集合に振り分けられる。
即ち、取引を構成する要素は独立した要素、即ち、勘定科目に仕訳される。
勘定科目は、要件によって定義される。勘定科目は定義されることによって要件を満たすことが可能となる。故に、勘定科目は、合意に基づいて任意に設定される命題であり、所与の命題ではない。合意に基づいて任意に設定されるとは、手続を前提としている。つまり、勘定科目は、手続によって設定される集合である。この様に会計は、手続を必要とした、前提とした集合である。
取引は、取引の内容によって予め定められた基準に従って勘定科目に振り分けられる。取引を構成する勘定科目は各々独立した動きをする。
この勘定科目間の取引を内部取引という。
仕訳上は、同じ勘定科目間でしか加減計算はできない。そして、個々の勘定科目の結果は原則的に正でなければならない。即ち、残高が問題となる。負の残高は、資本勘定以外、前提とされない。故に、会計は残高主義である。
会計運動は、勘定科目の増減として現れる。売掛金は、売掛金とのみ、現金は、現金とのみ、売上は、売上とのみ加減ができる。そして、個々の勘定科目の総和は、常に正の零を含む自然数である。つまり、残高は正である。
会計は借方、貸方の二つの部分集合からなり、二つの部分集合は各々の合計の差は零である。会計は、日々行列演算を業務として繰り返している。
会計を加減乗除に関して群だとすると、借方、貸方は、会計に対して部分群である。資産と費用は、借方の部分群であり、負債、資本、収益は、貸方の部分群である。
個々の勘定科目は、会計空間上に、固有の正の位置と、負の位置がある。勘定科目は、正の領域にあるときは、正の働きをし、それ以外の領域にある時は、負の働きをする。
勘定科目のこの様な働きを成立させる領域には、資産、費用、負債、資本、収益の五つの領域がある。
資産とは、資産領域を正の位置とする勘定科目を指して言う。費用とは、費用領域を正の位置とする勘定科目を言う。負債とは、負債の領域を正の位置とする勘定科目を言う。資本とは、資本領域を正の位置とする勘定科目を言う。収益とは、収益の領域を正の位置とする勘定科目を言う。例えば、表記上、負として表記される勘定科目があるが、負とした表記される位置が本来の科目ではない。勘定科目は、正の位置の領域が本来の位置である。
資産、費用、負債、資本、収益は、会計に対して真部分集合である。資産、費用、負債、資本、収益は、相互に独立しており、共通部分はない。
勘定は、正の領域の内側にある場合は、正の働きをし、正の領域の外にあれば負の働きをする。
即ち、取引による勘定が正の領域の外で発生したり、移動した場合、その勘定に対し負の働きをする。
又、一つの勘定が他の領域に移動する場合は、同量の反対勘定が生じる。
ただし、個々の勘定の残高が負(マイナス)になることはない。又、負(マイナス)にならない様に制御される仕組みになっている。
この事から、取引には、勘定の働きに対して順な方向の働きと逆の方向の働きの取引がある。
会計内部における資産、費用、負債、収益の勘定の総和は、常に正であり、負の残高はない。
資産上の問題なのか、収益上の問題なのか、負債上の問題なのか、費用上の問題なのか、何に属する科目かが重要である。属する科目によって取引の性格と位置付けが決まる。
決算とは、一定期間内の取引残高を集計し、その期間内で完了したと認められる取引を損益に表すと同時、未了の取引を貸借に残高として表すことである。決算書とは、損益と貸借の一覧表である。
決算を構成する要素と取引とは、一対一の関係にある。故に、決算の結果に従って辿れば、決算の元となった取引にたどり着くことができる。それが追跡可能性である。原則として、会計の仕組みは追跡が可能であることを原則としている。つまり、記録を前提としているのである。
決算という操作は、単位期間内での最終損益を確定する操作、作業である。
仕訳という操作には、通常の仕訳と決算仕訳の二種類がある。通常の仕訳は、日常業務において発生する取引を勘定科目に振り分ける操作であるのに対し、決算仕訳とは、期間損益の原則に従って単位期間内の実績を表すための仕訳を言う。
決算仕訳というのは、内部取引である。
会計の内部取引は、仮想的取引、仮想的運動であり、必ずしも現金の動きを伴うとは限らない。
会計主体は、利益を目的とした存在ではなく。均衡を前提とした存在であることが解る。つまり、利益が上がらなくても会計主体は存続できるが、貸方、借方の均衡が失われた時、つまり、何等かの負の残高が生じた時、破綻するのである。
この事は、会計主体本来の役割を示唆している。会計主体は、生産や消費、労働と言った経済行為を組織的に行うことを通じて、財や貨幣を社会に循環させることなのである。利益のみを目的化してしまうとこの肝心な部分を見落としてしまう。そして、会計主体で最も重要なのは、社会的役割を継続的に果たしていくことなのである。一時的に莫大な利益をあげたとしてもその収益は、企業活動の中で消化されてしまう。又、利益をあげる事だけに汲々として雇用や価格を破壊し、安全や環境を忘れてしまえば、企業としての社会的役割が果たせなくなるのである。
この様な会計主体が正常な働きをするための決定的な要素は時間である。
均衡を前提とした会計主体が資金繰りを円滑に行うために、決定的な働きをするのが時間だからである。
会計とは、資金が会計主体の内部を循環することによって機能を発揮する仕組みである。会計の機能とは、財と貨幣の分配にある。
資金が会計主体の内部を循環するためには、内部の財が流動化されている必要がある。
流動化とは、現金化である。現金化とは、貨幣価値の実現を意味する。
流動性とは、単位期間内での現金化の可能性を言う。
資産、費用、負債、資本、収益の領域の範囲を画定する基準は、単位時間である。又、利益は、時間価値の一種である。
取引で決定的な役割を果たすのは時間である。
時間価値は、正と負の境界線上に生じる。
貸借対照表と損益計算書は、残高の集合である。つまり、貸借対照表は、ある一定時点の資産と負債と資本の残高を集計したものであり、損益計算書は、ある一定期間の収益と費用を集計し、収益と費用の差を計算した数値である。
利益というのは、一つの指標である。利益が出ない、損失が出たからと言って企業経営が、即、破綻するとは限らない。しかし、資金が尽きたら企業経営は、破綻する。即ち、負の残高が生じることが問題なのである。いくら過去の蓄積があったとしても資金繰りかつかなくなったらお終いなのである。
多くの人間は、企業の目的を利益に置いている。それが企業の役割の本質を見失わせているのである。なぜ、過去、好業績だった企業が、突然に業績を悪化させ、清算されてしまうのか。それは、企業本来の役割と時間の働きに対する無理解が原因である場合が多い。つまり、現代企業は継続を前提としながら、継続可能な体制におかれていないからである。
企業経営にとって、会計にとって時間は決定的な働きをしている。即ち、時間をどの様に捉えるかが、現代経済の鍵を握っているのである。
会計というのは、貨幣によって動かされる仕組みである。会計という仕組みを実際に動かしているのは、貨幣である。ただ、貨幣価値で示されているからと言ってそこに、貨幣としての現金があるわけではない。決済上に表示される貨幣価値は、現金を除いて潜在的貨幣価値を現したものにすぎない。貨幣価値が示されるからと言って現金の存在を意味するのではない。そして、それが、現行の貨幣経済の本質である。
資金には、流れる方向がある。流れには、投資の側への流れと回収の側への流れがある。流れに方向付ける要素は、債権と債務、及び、費用と収益である。債権や費用は、投資の側への流れを促し、債務や収益は、回収の側への流れをつくる。
貨幣は、貨幣が過剰なところから、貨幣が不足したところへ流れることによって物流を起こし、機能を発揮する。貨幣は、循環することで機能を発揮するのであり、貨幣の流れが滞留するといろいろな弊害、障害が発生する。
表面に現れる貨幣価値の総量よりも、問題になるのは、資金の流量なのである。そして、この貨幣の流れが市場の貨幣や財の流れを生み出し、労働と分配の働きを結び付ける。それが市場を形成し、経済全体の状況を形作る。
市場取引の内容は、貨幣の流れる方向を定める。資金の流れる方向には、投資の方向と回収の方向の二方向がある。投資の方向に資金が流れれば、市場は拡大し、回収の方向に資金が流れれば市場は縮小する。
資金の動きや方向、財の動きや方向、取引の働きに順な働きをする規制や政策と、逆の働きをする規制や政策がある。
規制を闇雲に強化したり緩和するのは、市場や経済をやたらに混乱させるだけである。規制が是か否かの問題ではなく。個々の規制や政策が、資金の動き、財の動き、取引の働きにどの様に作用するか、しかも、時間的、空間的要素も加味しながら、個々の市場や産業の状況に合わせて考えるべき問題なのである。
会計を数学の問題として扱ってこなかったことは、数学者の怠慢以外の何ものでもない。数学者の怠慢によって人類がどれ程の災難、損失を受けたか計り知れない。これは、人類に対する犯罪行為に等しい。
数学が役に立たない学問などと考えるのは、とんでもない話してである。ただ役に立たない研究ばかりに数学者が精力を費やしたと言うだけである。
純粋数学を無意味なものだとは言わない。しかし、実用を重んじない学は、道楽に過ぎないのである。
数学と会計、経済が融合し、統合された時、経済は科学となるのである。
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