利益とは、仏教では、仏の教えによって得られる福徳である。利益の本質は、この意味に隠されている。
利益というとお金に纏(まつわる)わる損得の如く我々は捉えがちであるが、本来は、仏の教えによる福徳なのである。利益を損得、欲得だけで捉えていたら利益の持つ本当の意味は理解できない。
資本主義とって利益の持つ意味が一番大切だというのに、利益の持つ意義が蔑(ないがし)ろにされている。それが資本主義を堕落させている最大の理由である。
資本主義においては、利益をあげることが一番大切なのである。ただ、儲けと利益とは違う。儲けというのは、収入から支出を引いたものである。
利益というのは、創り出すもの、生み出すものである。利益は、天然自然になるものではない。会計操作や計算結果によって単純に導き出される所与の値ではない。ただ、利益は、会計制度上の概念でもある。利益は、一意的に決まる値ではない。
利益という概念は、思想なのである。利益という概念は、思想であり、哲学的な概念なのである。そして、利益に対する思想こそが資本主義社会における実体的な哲学的基盤になるのである。
利益は、目的ではなく手段である。この点を取り違えると利益の働きが解らなくなる。利益ばかりを追い求めるのは間違いである。利益が総てではない。利益の内容が大切なのである。又、利益が指し示す事柄が肝心なのであり、その為には、利益の背景や役割を明らかにする必要がある。
利益を単に計算結果としてしか捉えられなければ、利益の持つ意味は理解されないし、利益は有効に機能しなくなる。
もう一つ重要なのは、利益は、資本と同様差額勘定だと言う事である。それは、資本主義の本質を象徴しているとも言える。利益も、資本も、会計的に創られた概念なのである。
差額勘定である資本と利益には、負(マイナス)の値もある。会計上、負(マイナス)の値がある勘定のは、利益勘定と資本勘定だけである。これも資本主義の思想である。
利益をあげることと儲けを上げることとは違う。儲けは、収入から支出を引いた差額であるが、利益は、収益から費用を引いた差額である。
儲けというのは、入金から出金を引いた差額である。収入から支出を引いた儲けの値は一つである。つまり掛け値なしである。しかし、利益は違う。利益というのは、単位期間内における費用対効果の指標である。何を収益とし、何を費用とするかによって利益には差が生じる。つまり、利益は一つではないのである。
利益とを確定するためには、収益と費用を確定する必要がある。その為には、収益は何か、費用とは何かが重要となる。そして、費用とは、分配を意味している。即ち、費用構成こそ思想なのである。何によって収益を上げ、どの様な費用で社会に還元するのかが利益の根源を為すのである。
それでは、利益の大元となる考え方は何か。そこにこそ資本主義の本質が隠されている。そして、その資本主義の本質が明らかにされていないことに、現代の資本主義の病巣がある。資本主義は、ただ金を儲ければ良いという思想ではない。
利益というのは、人の価値と物の価値を貨幣に還元し、それを調和あるものにするための値である。そして、利益は、時間価値でもある。利益が時間価値の一種だと言う事は、人、物、金を調和させる働きは、時間にあることを意味する。
だからこそ利益は思想なのである。利益の本とは何かである。利益の本となる収益や費用は、どの様な要素から構成されているのかである。そして、利益は、どの様な要素から構成されているのかである。又、利益をどの様に分配し、或いは、活用するのかである。適正な利益とは何か。適正な利益をあげるためには、どの様な会計が必要かなのである。
利益は、多ければ多いほどいいというものではない。かといって利益をあげられない、即ち、損失を出すのも困る。だとしたら適正な利益というのはどの程度のことを指すのかである。それを知るためには、利益がどの様な働きをするのかを知る必要がある。
利益は、単位期間内の費用対効果を測定するための指標である。総ての収入と支出は、最終的には、収益と費用に還元される。何を単位期間における収益に還元するのか、何を費用に還元するのかによって利益は定まる。そして、何を単位期間内の収益とし、何を費用とするかが思想なのである。
現代経済の根幹的問題は、人的経済、物的経済、貨幣的経済が一体化されていないことにある。その要因は、財政思想と会計思想、生産思想にある。
経済の本質は、労働と分配である。人的経済は、所得の問題に還元できる。物的経済は、生産の問題である。貨幣的経済は、貨幣の流通量の問題である。そして、これらは会計上の問題、即ち、利益によって調節される。
重要なのは、利益に対する思想である。利益は何のためにあるのかである。その点が曖昧なのが、最大の問題なのである。
貨幣経済は実物経済の蔭(かげ)、利益は指標、バロメーターである。又、利益は時間価値を現す指標の一つでもある。
時間価値を現す指標には、利益以外に金利、地代、物価上昇率がある。ただ利益は指標であって利益が時間価値を形成するわけではない。
時間価値を形成するのは、金利である。利益は、結果である。利益は、金利と違って予め決められているわけではない。損失、即ち、マイナスの利益もあるのである。
なぜ、何のために利益をあげる必要なのかが明らかにされていない。ただ、利益を上げない事は悪い事だとされている。その理由は、専ら利益をあげなければ、企業経営が継続できないからだとされる。しかし、企業経営を継続するだけならば、資金が廻りさえすればいいのである。その証拠に公共事業は赤字でも継続しているし、経営者は経営責任を問われることはない。
反対に、民間企業では、利益が上がらないと経営者は責任を問われる。
民間企業で経営が成り立たなくなった際、利益をあげないのは、経営者の経営の仕方が悪いという事になる。
利益をあげられないのは、環境が悪いとは誰も言わないし、経営者が、それを言えば言い訳と捉えられる。
営利団体が利益をあげるのは、私的欲求に基づいているとみなされているからである。
だから。公共団体が損失を出しても事業の多くは継続され責任を問われることはないが、私的企業が損失を出すと潰される上に、経営者は経営責任を問われるのである。
公共事業は、現実的な損益計算に基づいて事業計画がされているわけではない。元々利益という概念が欠落しているのである。それは、公共事業は元から営利事業ではないという理由でである。それでは営利事業とは何かと言う事になる。営利事業は、私欲による事業だから赤字にならないと言うのであろうか。
利益が出せない原因で一番多いのは、利益を出せない社会構造、経済構造、或いは、経済状況にある。それは、公共事業も営利事業も変わりはない。公共事業と営利事業とを差別すること自体おかしいのである。
資本主義経済は、曲がり角に立たされていると言われている。その最大の要因は、利益の意味が明らかにされていないことにある。
一番重要なのは、利益という概念が必要性に基づいていないことである。つまり、利益を追求すればするほど、社会や国民、国家が必要とする結果からかけ離れていくといった現象が起きる可能性があるのである。
利益は、本来、国家、社会、国民の必要性から生じる概念であるべきなのである。
例えば、不況になって企業が経費や雇用を削減することによって所得が減少し、不況を更に深化させるといった事態を引き起こすことである。
又、大量生産というのは、生産の効率化を促進する反面、所得を減少するという働きがあることを忘れてはならない。
つまり、ごく少数の人間が大量に製品を生産すると言う事は、製品の価格を下落すると同時に、雇用の減少を招くと言う事である。この事は、労働と分配という観点からすると逆行している。
豊かであるはずの国に、大量に安価に商品が氾濫し、高級な商品が閉め出されるという矛盾した現象が起こるのである。豊かになれば、量から質への転換がはかられるはずなのにである。
つまり、人、物、金、各々の働きが一つの方向に向かっていないのである。
利益の目的は、分配の調整にある。
利益は、会計上の概念である。つまり、利益の問題は会計思想の問題でもあるのである。
日本の会計基準に従って算出すると黒字になるのに、他国の会計基準や国際会計基準に従うと大赤字になると言ったことが問題となった。しかし、日本の会計基準に従って算出したことが違法だというわけではない。基準が違えば、利益に違いがでると言うだけの話なのである。つまり、会計基準とは任意の合意に基づく基準なのである。
利益を経営目的だと思い込んでいる経営者が多い。彼等の多くは、利益をあげるためならば何でもする。又、何でも許されていると錯覚している事が多い。しかし、利益は、経営目的にはならない。利益は、経営の指標の一つである。その証拠に利益が上がらないからと言って経営が行き詰まるわけではない。経営が立ちいかなくなるのは、資金が不足した時である。
ではなぜ、利益が問題となるのかと言えば、利益が資金調達に直結しているからである。
昨今、安売り業者をやたらと美化する傾向がある。確かに、より安く、よりよい品を、より早くというのは一つの見識である。しかし、安ければいいと言うだけでは話は違ってくる。あくまでも適正な利潤の追求が前提なのであり、法外に安いのは、安いなりの理由があるのである。その理由いかんによっては、例えばおとり商法の理由や市場独占の目的によって原価を割った値段で販売することは、適正な価格体系を破壊してしまう。無茶な安売りは、市場の規律を乱し、市場を荒廃させてしまう原因となる。
生産性や経営効率のみを利益を算出するための根拠にしてしまうと、ただ、安ければいいという事があたかも経済的合理性であるかのように錯覚されてしまう。
それは、費用の持つ役割を真っ向から否定しているからである。費用は、裏返せば、所得であり、消費である。費用を削減することは、所得や消費を減らすことにもなるのである。何事にも、程々(ほどほど)、限度がある。経済においては、適正という思想、基準が重要なのである。だから、規制が必要なのである。
経済というのは、生きる為の活動である。生きる為の活動の基盤は、何も、生産性にのみあるわけではない。
かつては、いい品を親子何代にもわたって修理をしては使い続けてものである。資源の有効活用も経済的合理性の一つである。
しかし、単に大量生産を前提とすれば、大量消費の方が経済目的と合致していることになる。そうなると物を大切にすることより使い捨てした方がいいことになる。
現代は、使い捨て時代で、何でもかんでも使い捨てしてしまう。人間でも使い捨て時代に入ろうとしている。その好例が派遣問題である。
実は、利益というのは、経済理念を実現するための指針なのである。大量生産、大量消費のみを念頭に置いて利益を算出する為の前提条件や規則を定めれば、生産性を高めることが経営の至上目的となるのである。それは結果であって原因ではない。
利益というのは思想なのである。
利益とは、何か。利益とは何かの答えは、利益の働きから求められるべきものである。そして、利益の働きは、利益処分を見るとその鍵が隠されている。利益処分の項目と相手である。また、利益の働きは、現金の働きと深い関わりがある事が解る。
利益処分の目的は、第一に、株主配当である。第二に、経営者への報酬である。第三に、納税である。即ち、利益処分の相手は、全て会計主体の外部に位置する。かろうじて経営者が会計主体の内部に関わっているが、会計上は、外部に位置する。
一番重要なのは、利益処分の相手が会計主体の外部にあるという事である。それは、利益に対する思想の現れである。利益処分の相手が外部にあると言うことは、会計主体の主体性が外部に依存していることを意味するからである。
会計上は、賃金は、費用に過ぎないのである。つまり、現行の会計上においては、給与所得者は、会計主体に関わってはいない。故に、会計主体は、共同体ではなく、機関である。つまり、会計主体自体が主体的意志を持ち得ないという事である。
そして、利益が、利益処分に還元されるという事によって、利益は分配目的によって計算されることが明らかになる。これも会計主体に対する思想の現れである。
利益は、与えられた条件によって違ってくる。つまり、前提条件と規則によって利益は算出されるのである。故に、前提条件と規則が変われば、必然的に利益は、違ってくるのである。
ではなぜ、利益は必要なのかである。
利益の目的というのは、会計主体の経営実績を計るための指標である事ともう一つは利益が上がるような仕組みや経営をするための指針をつくる事である。
利益は、目的と言うよりも一種の信号である。そして、その信号から、利益をあげられない原因を明らかにし、対策を立てるべきなのである。
利益があげられない理由にはいくつかある。むろん、その中には、経営者の資質、経営判断の間違いなどと言った経営責任も含まれる。しかし、経営者だけが利益に対して責任を負っているわけではない。利益が上がらない原因の多くは、例えば、為替の変動、戦争や災害による被害、景気の変動、原材料の高騰、原油価格の高騰、気候変動、飢饉、金利の上昇、相場の変動、地価の高騰や下落といった経営者にとって予測不可能な、不可抗力な事象である。
恐慌や金融危機など予測しえた経営者がどれ程いたか、また、いたとしてもどれだけの手筈ができたであろうか。この様な事態に対しては、国家や社会、業界も協力して利益があげられるようにする必要があるのである。
その為に、利益を明らかにする必要がある。利益というのは、本来、合目的的な基準なのである。そして、利益は、社会的基準でもある。
会計主体というのは、社会的機関の一つである。故に社会的目的が優先されるのである。そして、利益概念は、社会的機能から導き出される命題である。
会計主体の社会的機能とは、財の生産と所得の分配にある。財の生産性ばかりを追求しても又、所得の分配ばかりを追求しても成り立たない。重要なのは、生産と分配の均衡なのである。そして、生産と分配の均衡を保つのが労働である。
経営目的が個人の欲望を充たす動機に限定され、公の目的が見失われていることにある。経営目的とは、利益の根源である。
それは経営目的が経済の本来の目的に根ざしていないからである。利益の追求は、経済の目的を実現するための手段である。経済、本来の目的は、労働と分配にある。会計主体は、経済の目的を実現するための手段であり、労働と分配を実現するための仕組みである。会計主体は、利益をあげるために存在しているわけではない。利益を目的としたら、会計主体は、利益をあげると言う目的の為に利益をあげることになる。
利益をあげても当然その利益の配分に与(あずか)るべき人に渡るような仕組みになっていないのである。
又、注意しなければならないのは、長期資金の取り扱いである。
経営者が利益処分において当惑するのは、期間損益の原則に従うと、利益が上がってきた当初、長期借入金の返済が終わっていないのに、或いは、償却が終わっていないのに、利益処分によって新たな資金を調達せざるを得なくなることである。
その為に、会計主体は、常に、慢性的な資金不足の状態に置かれているのである。
税は利益処分である。費用ではない。即ち、利益は社会的分配の原資でもある。その様な税の働きをも加味して利益は設定されるべきものなのである。
重大な問題は、利益という計算上の数値が税や配当、報酬という資金流出を伴う行為の根拠とされている点である。しかも、利益が長期借入金の元本の返済原資だと言う事も見落としてはならない。
所得を課税対象にするのは、間違いとは言わない。しかし、その場合、所得の持つ性格を前提として制度は考案されなければならない。
長期的な資金の働きとそれに与える影響を見極めないと所得への課税は、経済に長期的な悪影響を与える。
利益とは、会計主体の期間損益を計るための指標、手段である。利益は、経営目的ではない。利益は、目的ではなく、一種の信号のような情報である。
いわば設定された目標のようなもので、前提条件と方程式によって定まる値である。故に、前提条件や方程式を変えれば、結果にも差が生じる。しかも、前提条件や方程式は、一定の制約上の下に任意に選択できる。つまり、自然現象のように客観的基準によって定められた方程式によって決まる絶対値ではない。
利益の算出方法によってその国の自由主義経済の根本思想は明らかになる。第一に言えるのは、会計主体に対する基本的認識である。会計主体を有機的結合に基づく共同体として捉えるのか、機械的結合に基づく機関として捉えるのかの違いである。機関として捉えればあくまでも収益性や生産性を目的とした追求することになる。それに対し、共同体として位置付けた場合は、雇用の確保や社会的責任を果たせるような利益構造にすることが第一義となる。
近代経済体制以前は、建てた家、まだ、使用価値がある財産を経済的理由によって壊したり、放置することはしなかった。つまり、必要な財は、活用したのである。使用価値や必要性がなくなったことが家を壊したり、放棄する理由である。家を必要とする者がいて、家があるのに、家を壊すなどと言う反社会的な行為は禁じられていた。だいたい、家を建てるのは、共同体の重要な仕事の一つであった。
労働が不足している一方で、仕事がなくて困っている者がいて、それが会計主体の収益の悪化によるとしたら、その原因は、会計制度の欠陥に求められるべきなのである。
利益というのは、社会が経済目的を実現するために設定されるべきものなのである。社会的理念や国家観、経済観なしに決められる基準ではない。あくまでも任意な基準なのである。
故に、利益を経営目的とするのは誤りである。それ以前に利益を設定するための思想が問われるべきなのである。利益の意味は、利益の働きから求められるべき概念である。いかに利益をあげるか以前に、利益によってどの様な社会を実現すべきかが重要なのである。
単に、会計上の利益を追求するだけでは、道徳は、経済において無力となる。
どんな事をしてでも、利益を得た者が正しいことになるからである。その顕著な例が、テレビの視聴率競争であり、映画の倫理観の問題である。
兎に角、視聴率が高ければ、売れれば、ヒットすれば、正しいことになる。
利益は、設定された前提条件と会計規則によって算出される値である。問題は、利益をどの様に設定するかである。それが会計上の規則(ルール)を構成する。利益は、経営目的と言うよりも会計上の目的であり、会計所の目的は、社会的目的に準ずるのである。
社会的目的は、会計主体の社会的機能から導き出されるものである。社会的機能とは、社会的分配機能にある。即ち、労働者、経営者、投資家、国家、社会、取引先に対し、適正な所得を分配することである。その為に、利益は会計的に設定されている。
現代の日本人は、企業は、利潤を追求とする事を目的とした機関だと、無条件に受け容れる傾向がある。その上で、企業の是非を論じる。
しかし、利潤とは、利益という思想を根底とした概念であり、利益をどの様に定義するかによって変わってしまう。 利益とは、自由経済という思想を基にして会計の論理の上に構築された思想である。
収益から金利や賃金、税金が支払える状態を維持できるように利益を設定するのが会計である。つまり、会計の目的とは期間損益を維持することにある。
くれぐれも言うが、利益そのものが目的なのではない。
例えば、経営効率のみを目的として利益の基準を設定すれば、生産性を上げればあげるほど一方で雇用は失われ、市場は過飽和な状態になり物が売れなくなる。しかし、個別の企業や国からすれば生産性を上げなければ競争力を失い、商品が売れなくなり競争に負けてしまい、産業が成り立たなくなることになる。これは矛盾している。明らかに利益の設定の仕方を間違っているのである。
利益という勘定に実体はないのである。利益というのは、あくまでも計算結果、差額である。利益は、収益から費用を引いた結果、或いは、当期総資本(当期総資産)の期末残高から前期総資本(前期総資産)の期末残高を引いた値である。故に利益という勘定はないのである。
費用は、平準化できても収益は平準化できない。その為に、一定の利益を恒常的にあげつつけるのは困難なことである。
製造者は、商品を製造して売らなければ報酬は得られない。売り上げが落ちれば忽ち報酬が得られなくなるのである。そして、報酬は、消費を前提としており、消費は、固定的な支出を生み出すのである。製造、販売、報酬、消費というのは、一定の循環を保っている。収益は、この循環を制御する役割を果たしている。収益が上がらなくなると円滑な循環ができなくなるのである。そして、利益は、この循環が円滑に働いているかどうかを計る指標なのである。
利益は、収益と費用とを均衡させるための指針でもある。
利益の帰属先が会計主体の外部にあるとすれば、利益は会計主体の内部に蓄積することはできなくなる。つまり、会計主体は、資金の供給が断たれればば直ちに、破綻してしまう。そして、資金の供給は、借入と増資と収益しかないのである。そして、収益は利益に反映され、利益は、増資と借入に反映される。そこに利益に機能がある。利益が上がらなくなれば、資金の供給がおぼつかなくなるのである。だからこそ、会計主体は利益をあげようと努めるのである。しかし、それは結果であって、原因、即ち目的ではない。
ただ利益の帰属先が外部にあることによって利益を内部で主体的に活用することが困難なのである。
株主にとって利益は、自分が配当を得るための原資に過ぎない。配当を得てしまえば会計主体を継続させようと言う動機が、株主には、薄いのである。
利益は、信号である。赤字が個々の企業固有の原因なのか、業界全体の問題なのか、国家的な原因なのかによってとるべき対策は違ってくる。又、一時的現象的なものなのか、恒常的構造的問題なのかによっても違ってくるのである。それを見極めた上で対策は立てられるべきなのである。
金利は費用から差し引かれる。長期借入金の原資は、減価償却費と利益処分を引いた後の利益である。この点をよく理解しておく必要がある。
利益は、単純に収益から費用は差し引いた値であると考えるのは浅薄である。
利益を数値的な操作の結果だと勘違いすると利益は限りなく零に近づく。なぜならば、複式簿記の原則は均衡にあるからである。つまり、貸方と借方が等しくなるように働くからである。
収益から費用を差し引くという考え方の背後には、費用は、悪い物という思想が隠されているように思える。兎に角費用を削減することが経営目的の一つであるように考えられているように思える。しかし、費用こそが、経済の源泉であることを忘れてはならない。費用の裏側にあるのは所得なのである。つまり、費用と所得は、一体なのである。もう一つ重要なのは、費用は消費に直結しているという点である。
利益というのは、基準に従って導き出された値にすぎない。問題は基準にある。要するに、収益構造と、赤字の原因である。収益構造と赤字の原因の妥当性を計るための基準尺度が利益なのである。
利益は、収益から金利や賃金が支払える状態を維持できるように会計上設定されるべきものである。会計の目的とは期間損益を維持することにあるのである。
競争を促すために、規制を緩和すべきだという議論そのものが矛盾している。競争に対して順、即ち、競争を促す働きをする規制と競争に対して逆な作用をする規制があるという事である。競争を促すために規制を撤廃してしまうというのは、狂気の沙汰である。競争を促すにせよ、抑制するにせよ規制によって競争は保たれているのである。
利益を実現するのは、社会的規制である。
利益を維持しているのも規制なのである。
利益は、合目的的基準であり、そして、利益の意義は、その社会的規制によって求められるべきなのである。
数学的合理性のみを追求すると利益は限りなく零に近づく。なぜならば複式簿記は、貸借一致の原則が働いているからである。貸借は一致するのではなく。一致させるのである。それが原則である。つまり、費用と収益が一致する方向に会計の原則は働いているのである。
故に、利益を生み出すのは、規制であり、規制を成立させている目的、即ち、利益に対する社会的合意や社会理念、思想なのである。
利益がなくなるという事は、収益も費用も平準化されることを意味し、人件費も平準化されることを意味する。つまり、熱力学のエントロピーと同じ原理が働くのである。
会計に求められるのは、適正な利益の設定である。適正な利益というのは、適正な収益と適正な費用によって求められる。適正な収益は、適正な価格に依ってもたらされる。適正な費用とは、適正な所得と消費によって形成される。これらの均衡がとれた時、経済は円滑に機能するのである。
利益というのは、経済思想である。又、経済思想を具現化したものである。会計技術上の問題だけで利益を考えるのは、最も危険な行為の一つである。
利益とは何か。企業が利益をあげることで企業に関わる者が負(マイナス)の影響を受けることがあってはならないのである。企業が利益をあげるために、大量に人員が解雇されたり、又、下請けが潰れてしまうような事態になったら、社会的利益が損なわれることになる。それは、真の利益ではない。
経済は、競争ではない。経済とは、人々を豊かにする為の活動なのである。
利益をあげることによって人々を養うのである。つまり、人々を養うために利益はあるのである。競争力をつけるために、利益をあげるのではない。
よくよく考えて欲しい。資本主義社会では、企業は、利益を内部に蓄積することが許されないのである。利益は、株主や経営者、そして、税として外部に還元されてしまう。しかも、利益処分をした後の部分は、借入金の返済資金にあたられるのである。つまり、利益をあげる目的というのは、内部にはないという事になる。
会計主体内部にある動機は、費用の中にこそある。つまり、費用対効果を計るためにこそ利益はあるといえる。その点を忘れてはならない。
適正な利益は、適正な収益と適正な費用があって成り立つのである。そして、適正な収益は、極大な収益を指すのでも、極小の費用を指すのでもない。
収益も、費用も、社会的な責務を果たす事が本来の働きなのである。なぜならば、収益は費用によって導き出され、費用は、所得や消費と表裏をなすものだからである。
経済を争い事と捉えるのは、あまりいい考えではない。経済とは、生きるか死ぬか、勝つか負けるか、一か八かの勝負事ではなく、切磋琢磨すべき事柄なのである。自ずと節度が求められるべき事なのである。
利益とは何か。利益がなくても、赤字でも、資金繰りがつけば、経営を継続することは、可能である。利益は、指標に過ぎない。ただ、資金を供給するか、否かを決定するために決定的な働きをするから利益は、重要なのである。
なぜ、収支よりも利益を重視するようになったかというと、収支というのは、結果であり、期間損益は、原因だと見なされるからである。
肝心なのは、資金を管理することである。利益は、一つの指針、意見である。利益を過大視、するのは危険である。つまり、利益を全てであるように思い込むのは危険なことである。
利益を無視すれば、市場原理が働かなくなる。市場原理というのは、適正な配分を決めるための働きである。
重要なことは、利益は、生み出される事象、作り出される事象、だと言うことである。利益を生み出すのは、企業努力だけでなく。会計制度や法制度、規制、といった社会の仕組み全体だと言う事である。そして、利益を生み出す仕組みとは、社会理念に基づくものだと言う事である。故に、社会制度の中でも特に、労働制度や福祉制度が重要となる。
景気変動の源泉は、儲けの絡繰り(カラクリ)にある。本来は、人件費の比率を高める事に合理化の目的がある。ところが不当な競争が合理化本来の目的を失わせている。
国家は、貨幣を発行し、その貨幣を、銀行は、投資家に貸して株や国債、土地を買わせ貨幣を循環させた。だから、株や国債、土地が暴落すると貸した方も借りた方も破綻したのである。元々資産家が自前の資金だけで投資をしているだけならば、投資家が損するだけで銀行も国家も損はしないのである。
財政収支は、資金が循環する過程で均衡する。故に、財政を健全に保つのは、資金を循環させる仕組みなのである。
だからこそ利益が必要とされるのである。つまり、期間損益の重要性が生じる。
利益とは何か。利益の役割をよく理解することが経済をしる上で重要となる。
儲けのカラクリを知る上では、総額主義に依るか純額主義に依るかが重要となる。総額主義に依る粗利益率は、売上に占める原価の割合を知るためには、重要な指標となる。付加価値に占める人件費率を知るためには、純額主義に依る労働分配率を検討する必要がある。
期間損益というのは、単位期間の収益と費用を対応させ、長期的資金と短期的資金の関係を明らかにすることにその意義がある。
つまり、単位期間に費用をどう按分するかによって利益の在り方が違ってくる。そうなると償却をどうするかが重要な意味を持ってくる。
財政赤字、財政赤字と騒いでいるが、財政のどこが悪いかを明らかにしないで、ただ赤字だから悪い。借金が悪いと言っているようにしか見えない。それでは国民を説得することはできない。
財政収支で問題なのは、収支の落ち込みを借金で補い続けている状態が悪いのである。
国も投資家も借金を元としているから財政も金融も裏付けとなる資産、例えば、地価が重要な役割を果たしている。
貨幣というのは、決済の道具、手段なのである。貨幣は、決済のための道具であり、支払のための準備である。そして、貨幣は、支払準備だからこそ価値を持つ。支払のための準備であるから、支払のための保証が必要である。即ち、貨幣は何を担保としているかである。
金を担保としているのが金本位制である。また、不兌換紙幣の発行とは、国家の信用、支払い能力を担保して発行されるのである。国家の信用を裏付けているのが土地と言った国の資産や徴税権、或いは、次の年の収穫、そして、国が発行する債券、国債である。
又、通貨圏間の決済は、外貨準備に依って為される。通貨圏の取引に用いられる基軸通貨も貨幣の信用を裏付ける重要な要素である。
金本位のように実物貨幣の場合は、金をもって通貨間の決済に使用する事が可能である。
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