経済で重要なのは、環境である。
環境というのは、自然環境や生活環境のみを指すわけではない。経済を取り囲む仕組みや制度、状況を全て引っくるめて環境は形成されるのである。つまり、環境というのは空間であり、場を指して言うのである。
現代の日本人一般の生活水準は、昔の王侯貴族、江戸時代の大名、殿様に匹敵する。それだけの生活水準を維持しようと思ったらそれなりの資源を費やさなければならないのである。
現代、問われている環境問題の多くは、人間の無駄や浪費が原因なのである。無駄や浪費を止めれば、環境問題の大部分は改善される。ところが、その無駄や浪費が止められない。なぜならば、現代の経済は、無駄や浪費を経済の仕組みに組み込むことによって成り立っているからである。
故に、環境をよくしようとしたら、経済の仕組みそのものを変える必要がある。少なくとも、大量生産、大量消費型の経済体制は、環境に対してよくない体制であることは間違いない。
現代人は、大量生産や大量消費を促す事象を効率的だと錯覚している。しかし、生産性や、消費力を高めることのみを効率的というわけではない。少量生産でも生産物の効能を最小の費用で最大限に発揮できるようにすれば効率的だといえるのである。
例えば少ないエネルギーの消費で必要な効果を発揮できたら、それは充分に効率的なのである。そして、当然、経済的でもある。
大量の石油を消費して不必要な速度を出すことが可能だとしてもそれを効率的とは言わない。
温暖化問題や資源問題と言った自然保護や環境保護、資源保護が叫ばれているが、一向に改善される兆しがない。
大体、温暖化とか資源とか、環境とかいっても何が問題なのか、明確にされているわけではない。ただ、観念や心証ばかりが先行し、必要以上に危機感や恐怖感ばかりを煽っているようにも見える。
先ず環境や資源とは何か。そして、何が問題なのか。何が原因なのか。今何をしなければならないのかを明らかにすることである。
経済というのは、人為的な現象であり、合目的的な行為であることを忘れてはならない。環境や状態を悪くしているのは、人間であって、神でも、自然でもない。そして、環境を解決し、改善するのは、他でもない人間なのである。
闇雲に、何が何でも自然保護や環境保護をすればいいと言うのは乱暴な話である。自然保護や環境保護と言っても何をもって自然と言い、何をもって環境と言っているのかは明白にされているわけではない。
我々が自然だと思っている環境でも、実際は、人為的な環境であることも多い。反対に一見人為的に見える環境でも自然な状態である場合もある。大体、そこに人間が存在すれば、人間が加わらない状態は、想定できない。つまり、状態が認識された段階で人為的な環境になってしまうのである。
仮に、自然というのを人間の力や働きが及んでいない状態と仮定したとして、それでも自然に全てを帰せと言うのは、人間の存在そのもを否定する事を意味し、かえって不自然である。
一番重要なのは、人間が生存に適した環境を維持する事であり、その意味からすると自然保護という思想そのものが傲慢だとも言える。環境保護と言った場合の環境とは、人間が生存に適した状態を言うのであって、環境汚染というのは、単に人間が、自分達の手で自分達の住みにくい環境を作っていると言うだけなのである。
自然の美しさとか、あるがままの自然と言ってもそれを情緒的に表現しているのに過ぎない。何が美しくて、何があるがままで、何が大切なのかは、結局主観的問題なのである。自然保護や環境保護がいきすぎると一種の信仰になるのは、自然や環境に対する基準が不明瞭だからである。
環境とは、条件によって変わる相対的状態である。
そして、位置と働きと関係が状態を形成する。つまり、環境とは、位置と働き関係が作り出す状態とも言える。
又、環境とは、状態を言うのであるから、空間的な概念である。
重要なのは、条件が関わることによってどの様に空間的状態、即ち、環境が変化するかである。又は、変化してきたかである。
環境の変化は、状態の変化である。変化には、様々な数学的接近方法がある。
一つの均衡した状態から違う次元の均衡した状態へ移行する、又は、移行させる事を遷移という。遷移した状態を環境変化という。
変化とは、時間的、空間的な位置の差として現れる。
環境には、物的環境、人的環境、貨幣的環境がある。
物的環境には、自然環境と人工環境の二つがある。人的環境は、人口や労働環境などを言う。貨幣的環境とは、金融環境や市場環境等を言う。
何が何でも、人工的な物は悪であり、人工的な構造物は全てこの世から排除せよというのでは話にならない。人工によって作られた環境でも、環境は環境である。第一に、人間は、人為的空間でしか生きられないのである。
経済の目的は、人的環境、物的環境、貨幣的環境の調和を保つことによって適正な労働と分配を実現する事にある。
対象に対する科学的な接近方法には様々な方法がある。
科学的接近方法には、仮説に基づいた実験による方法と観察から仮説を導き出す方法がある。
環境や自然を問題とする場合、観察による接近方法を採ることが妥当である。なぜならば、環境は、今ある状態の有様が前提となるからである。
その為には、統計確率的手法が有効である。
確率統計資料は、客観的に集計されても、主観的に分析されるものであることを忘れてはならない。
統計資料、科学的資料では、客観性が重要だと言うが、観察、調査というのは、前提によって違がでる。なぜならば、観察や調査は合目的的行為だからである。最初から立ち位置や立場によって観察や調査する視点が違うのである。客観的というのは、あくまでも、作業的な部分でしかない。
統計とは、外延量によって変化の傾向、様相を明らかにする手段である。
しかし、現象は、外見ばかりに囚われていたら解明することはできない。現象の背後に隠された内因、法則を明らかにすることが、重要なのである。それを導き出すところに、統計の目的はある。
結果ばかりが問題にされて、原因が等閑視されている。
現象には、内因と外因がある。
環境というと、ついつい環境破壊とか、温暖化と言った問題にばかり目がいってしまう。しかし、基礎となるのは不変的環境である。当たり前で、日常的、平凡な環境でも安定的な環境をいかに維持するかが、環境問題の基本なのである。
環境で一番の問題は、急激な環境の変化にある。知りたいのは、急激な変化の根底にある原因である。
自然破壊や環境汚染を問題とするとき、現象や結果ばかりが取り上げられることが多い。そして、すぐに犯人探しが始まる。しかし、根本にあるのは、環境の変化の原因である。何がどの様に変わり、それが自分達の生活にどの様に関わっているかである。
結果ばかりが問題とされるが、本来、原因も重要なのである。環境や自然を扱うとき、結果ばかりを重視すると問題の本質が見失われてしまう。
そして、環境を悪くする原因の多くは、構造的、空間的な要因が多いのである。
環境問題は、資源の問題でもある。現代人は、平然と資源の無駄遣いをしている。それで環境も悪くしているのである。全て金のためである。そして、それが経済的行為だと誤解している。資源は、天から人間に授けられた大切な賜物である。資源を有効に使うことこそ環境をよくすることに繋がるのである。そして、それが本当の意味で経済的なのである。
資源とは何か。何を資源とするか。
京都には、素晴らしい観光資源がある。それは観光と言う産業のための資源である。観光という観点に立てば、過去の遺跡も重要な資源の一つである。海や山といった自然環境も又資源である。
資源というのは、経済活動の本となる要素である。水や空気、土地や人間だって資源と言えば資源である。単に、石油や貴金属という製造のための原材料のみを言うのではない。要は、自分達が何を元にして所得の為の原資とするかによって資源は決まるのである。
ただ、狭い意味で言うと製造業の原材料を指して資源という場合がある。その場合は、石油や金属と言った鉱物資源や魚といった海洋資源等を指して言う。
留意すべきは、石油にせよ、希少金属にせよ、海洋資源にせよ、多くの製造のための資源は有限な物資だと言う事である。
限られた資源をいかに維持し、最大限に活用するのは、経済の問題である。
大量生産、大量消費社会の病巣は、それを資源の問題として認識できないことである。何が何でも、大量に生産し、大量に消費することが経済性だと錯覚している。
環境を維持し、なをかつ、経済を無駄なく活用することが効率性の第一義なのに、生産性を高めることばかりを効率性だと思い込んでいる。その為に、社会も産業も市場もそして、個人の生活まで荒廃している。それでありながら、その荒廃していることにすら気がつかない。
それこそが環境の問題なのである。
大量生産、大量消費型経済では、生産や消費だけが経済だと錯覚しやすい。しかし、経済を労働と分配という観点から見ると、経済において重要なのは労働環境だと言う事が解る。 そう言う意味では、生産性を高めるだけでは、雇用の機会は縮小するのである。 問題は、仕事を必要な量だけ創出することなのである。その為の資源である。 そして、必要な仕事を維持できる環境整備が求められるのである。 市場経済では市場競争は必要だが、市場競争が市場の働きの全てではない。なぜ、市場では、競争が必要なのかである。
消費という観点からも、ただ交換手段である貨幣をばらまけば事足りるわけではない。必要性の問題が見失われていることである。
貨幣という交換手段だけでは需要は創出できないのである。動機が必要なのである。金をばらまいただけでは景気は良くならないのである。動機が重要なのである。そして、動機の根源は必要性である。いくらお金があって、美味しい料理を作っても、誰もお腹が空いていなければ、売れないのである。
経済は、労働と分配からなる。ならば、経済にとって重要なのは、労働環境である。
労働環境の下地は、人口や民度、物価などである。
これらは統計的問題である。
労働環境の前提は、労働条件である。
収益や生産性ばかりを追求すると雇用環境や労働条件は悪化する。又、生活環境や自然も犠牲にしなければならない場合が多い。
問題となるのは、自分達の国や地域をどの様な国や地域にするかの青写真である。何を生活の糧として生きていくかである。その為には、自分達がおかれている環境が重要となるのである。
自分達がどの様な資源を持っているかである。そして、その資源を自分達が生活する上で、どの様に、役立てていくかである。観光もその意味では、立派な資源である。そして、全ての資源の根本は、労働資源である。
例えば観光という資源があれば、その資源をどの様に活用するかである。又、その資源によってどの様な労働、仕事を生み出すのかである。
それは環境の問題であると同時に、経済の問題でもある。
貨幣環境は貨幣空間に形成される。貨幣空間は貨幣制度によって作り出される。故に、貨幣環境は、制度的環境といえる。制度とは仕組みである。
環境は、維持する状態なのである。
それも、人間の力、自分達の力で維持する状態なのである。自分達が生存できない環境、或いは、住み難い環境に自分達でしてしまったら、それは自業自得である。天や神を怨むのは筋違いである。
人間が生存するのに適した環境というのは、極めて限られた範囲にしかない。ただでさえ、この宇宙は、人間にとって住みにくい空間なのである。
その住み難い宇宙空間にあって地球こそ人間を暖かく護ってくれている空間なのである。その環境を維持するしか、人間は、存在できない。そのことを肝に銘じておかなければならないのである。
現代人は、人里離れたところにでも平気で家をかまえるようになってきた。どんな環境でも一人だけでも生きていける事が可能になった。その延長線上にひきこもりの問題もある。つまり、現代人は、一人でも生きていけると思い込んでいる。
しかし、太古においては、一軒家など考えられなかった。古代では、人間は一人では生きられないと言うことは切実な問題だったのである。
人間は、人口、食料、資源という環境的制約の中で生きてきたのである。
お金が全てなのではない。お金がなければ生きていけないと言うわけではない。お金がなくても生きていくことはできるのである。
生活があって生活に必要な物があり、生活に必要な物を市場から調達するための手段として貨幣が活用されている。
生産量と貨幣の流量、そして、所得の量と分散によって経済の実態は、左右される。お金というのは、全体ではなく部分である。貨幣を全体だと錯覚したら、経済の実態は見失われる。
親兄弟、隣近所との相互互助、助け合い関係が前提となって金銭関係が成り立っていたのである。
親孝行という徳目があって福利施設は機能する。地域社会や身寄りのない子供や年寄りの面倒をみる。老いた親の面倒を子供が見るのは当然であり、自分の子供の面倒を親が見るのは当たり前なこと、病人の世話は、家族が見る、それが人間関係の基本である。人間関係を外形的、物理的にしかとらえられない。人間をただの物としか認識できないことに問題がある。人間関係の基本には、内面的、人間的な働き、つまり、情的な関係が基本にある。それが道徳として確立されていることが前提となって福利厚生は成り立つのである。
収穫物や捕ってきた獲物を分け与えるところに経済の原点がある。分け与えることなく独占してしまったら経済は生まれないのである。
あればあるで、使ってしまうのも人間の性である。儲かると思えば儲かる側に偏るのが自然の理である。勝たなければ生き残れなければ、勝つための手段を講ずるのが必然的結果である。
損得勘定というのは、損得の基準が明確だからできるのである。そして、損得の基準は、経済的動機に根ざしているのである。
明らかに経営上不利益だと思われる手段は、何等かの法的な制約がないかぎり守られない。公害が好例である。明らかに環境に悪いと解っている事象も、法的な制約がなく、費用対効果から見て有利ならば、その手段を選択するのが経済的合理性である。なぜならば、その手段を選択しなければ、市場から淘汰されてしまうからである。規制を排除施与というのがどれ程暴論であるかは、この事例を見ても明らかである。環境を破壊せざるを得ない状況を作っておいて、環境を破壊したと責めるのは公正さに欠く。責められるべきは、環境を破壊しなければならないような仕組みにしてしまった者である。
完全競争を成立させるための前提条件が全て満たされていない。この様な前提によって市場の仕組みを作ること自体が不誠実なのである。
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