大量生産、大量販売、大量消費型経済においては、経営者は常に、価格を維持するか数量を多く販売するかの選択に迫られている。それは、収益に操業度が重要な鍵を握っているからである。
もし、特定の業者が安売り販売、即ち、絶対量の確保に走れば、価格を維持することは困難になる。それは、装置産業においては、大量に販売すればそれだけ固定費の負担が減少するからである。また、減価償却費を調整すれば、見せかけの利益を確保することも容易い。世論も安売りに対して寛容であり、価格を維持しようとする業者に対しては厳しい。
故に、結局、価格を下げて数量を吐こうとする業者に軍配が上がる。シェア争いが激化し、乱売合戦になる。当然に利益率は減少し、薄利多売に陥る。
この様な市場は、広域販売をしている業者に有利に働く。狭い地域で高品質の商品を販売する業者には、不利に働く。その結果、広域販売をしている企業が独占体制をとるようになる。
そして、広域な市場を求めて国家を巻き込み大企業は鎬を削る事になる。やがて、巨大な多国籍業が形成され、無政府的な経済環境が形成されていく。
利益は、商業簿記か工業簿記かによっても違いが生じる。また、工業簿記も、総合原価主義が、個別原価主義かで違いが生じる。全部原価か部分原価、直接原価でも違いが生じる。更に、償却費の基準や在庫の評価を変えても利益には、大きな差が生じる。
ただ言えることは、これらの会計的操作は、大企業主義、又、大量生産主義に有利に働くと言う事である。規制がなくなり、放置されれば、大企業、大量生産型企業に市場は席巻されてしまう。
会計は、期間損益を計測するための手段だったはずである。ところがいつの間にか、会計によって利益が生み出されるようになった。そして、会計制度は、利益に従属するように変質してしまったのである。
そこから、会計は、社会の貢献する目的を見失ってしまった。そして、会計の本質が狂いはじめたのである。会計制度は、大企業の利益に奉仕するだけの制度に成り下がったのである。それに、各国の思惑や力関係と言った政治が入り込み益々、国際市場を複雑怪奇にしてしまっている。しかし、それは、大企業にとっても国家にとっても換えって不利益なのである。
忘れてはならないのは、損益上の価値は均衡しているという事である。即ち、費用も均一、均質な値に向かう性格があると言う事である。この性格は、熱力学のエントロピーの概念に類似している。費用が均一化するという事は、生産も又均一化に向かう。即ち、市場を放置すれば、費用も生産物も均一の方向に向かうと言う事である。均一化を防ぐためには、市場の仕組みが肝心なのである。
競争は原理だとし、規制は、悪だとして市場の仕組みを認めない思想は、結局、市場の均衡化を促し、市場の働きを殺してしまう。また、制御機能を喪失させる。規制を否定する事は、市場の仕組みそのものを否定する事である。
現代の市場は、制御棒のない原子炉のようなものである。
市場は一種のボイラーのような場である。市場内部の取引が相互に作用し、あって、市場の活力を維持している。放置すれば、臨界点に達してやがて制御ができなくなる。
市場は、相互牽制と均衡によって成り立っている。市場は均衡に向かおうとする力が絶えず働いている。そして、結局、人件費、即ち、所得を基礎にして経済水準は収斂する。
競争を絶対的原理なのか、或いは、競争は、絶対に悪いというのかと言うのではない。競争の是々非々を決定するのは、市場を成り立たせている前提や市場の状況、環境に依るのである。
会計や税制自身が規制なのである。
産業や国内取引、国際取引を行う市場は、単一の市場ではなく、幾つかの市場が集まって形成されている。個々の市場には、個々の市場固有の仕組みや制度、性格がある。
個々の市場の仕組みや制度、性格は、市場の規模、市場の範囲、市場の歴史や文化、市場を形成する経営主体や財の性質などの制約によって決まる。
例えば、これから成長発展していこうとする新興の市場と成熟した市場とを一律に扱うことはできない。又、為替の影響を受ける市場と為替の影響が小さい市場も一律に扱うことはできない。
製造業の市場の多くは国際的な規模や範囲を持っており、国家間の人件費の差の影響を受けやすいのに対し、小売り、流通業は、影響を受けにくい。故に、採るべき施策は違ったものになる。
市場には、開放された市場と閉鎖された市場がある。開放された市場での競争と閉鎖された市場での競争では、競争の質が違う。市場を開放するか、閉鎖するかは、制度的な問題であり、最終的には、政治的な判断による。
開放された市場だけを前提とするのは間違いである。閉鎖された市場というのは、新規参入が制限されていたり、また、外部勢力から保護されている市場を言う。急激な為替変動や内外価格差から保護する必要のある市場もある。又、公正な市場を実現するために、市場を閉鎖する場合もあるのである。閉鎖された市場の典型は、プロ野球やプロフットポールに代表されるプロスポーツの市場である。
競争では、結局、人件費が決めてとなる。同一の地域において、同一の条件の競争ならば、人件費の差にも一定の限界がある。ところが、国際市場の様に広域の市場を舞台としたら話は別である。為替の関係や相対的に人件費の低い地域や国の競争力が高まるのは必然的帰結である。
運送費の占める割合と人件費が占める割合に大きな差がある場合、多少の運送費がかかったとしても人件費が安い地域や国に生産拠点を移転するのが妥当な判断である。
先進国という考え方には、結局、人種差別的偏見が根底にある様に思えてならない。何も、先進国と言われる国の人間だけが優秀なのではない。条件や前提が整えば、経済や産業は成長を始める。そして、一定の生活水準、それに見合う所得の水準に落ち着いていく。それが自然な考え方である気がする。
発展途上国の経済が活性化し、先進国の経済が衰退するのは、先進国から発展途上国への富の転移である。
高きから低きに水が流れるのように、ある意味で歴史的必然である。
成熟した市場から発展段階の市場へと生産手段が移転するのは主として人件費の格差の問題である。そして、その過程で成熟した市場は収縮し、発展段階の市場は拡大する。
発展段階の市場は、発展に伴って所得も資産価値も上昇する。また、負債による負担は相対的に低下する。
問題なのは、収縮圧力がかかっている市場の方なのである。
市場は収縮してもコストは下方硬直的である。
債務が梃子になりながら債権を押し上げてきたのが、債権の上昇が止まる事で債務の圧力が投資の頭を抑えている。
その様な国ほど政治的、軍事的強国だと言う事である。つまりは、これから発展しようと言う国々に政治的、軍事的圧力を加えようとする傾向が強いのである。
もし格差を維持したいと思えば、何等かの階級制度や差別制度を導入する以外にない。階級や差別を認めないと言うのならば、現実を受け容れてそれに適した制度を模索する以外にないのである。
国家は一様ではない。
その国、その地方の固有の資源を生かすような市場構造や産業政策が必要なのである。
結局、無原則な競争が市場を荒廃させてしまうのである。
生産性と効率性とを同義語として捉える傾向が現代人は高い。しかし、経済効率は、生産と分配と消費の均衡から求められるべきなのである。経済性という言葉には、節約、倹約という言葉が含まれるように、消費の意味合いも強い。
そして、生産の効率は、製造業で図られるべきであり、分配の効率は、流通業、消費の効率は、家計とサービス業の分野で図られるべきなのである。効率の基準を一様に設定されるべきではなく、それぞれの局面における働きを考慮して設定されるべきものである。
流通業は、流通の効率化を計るべきなのである。そして、流通の効率には、物流の効率化だけでなく、所得の効率的配分と雇用の促進が含まれている。
その意味で、無原則な競争は、流通の効率を阻害する。分配の効率は、分配の手段としての雇用、労働に対する効率的な評価が含まれていることを念頭に置いておく必要がある。
又、市場の形態や市場を構成する取引の形式、形態、規則、手段も違う。市場を一様に捉えるのは間違いである。市場は、地域性や歴史性を色濃く反映する。市場の仕組みは、地域住民の思想や社会の風俗、文化、宗教、価値観を基盤としている。経済とは、文化活動の一種なのである。経済の仕組みを変えることは、文化を変える事なのである。
重要なのは市場の規律である。市場の規律は、市場を形成する地域の住民によって統制されなければならない。それが経済的民主主義である。
個々の市場の地域性や歴史性、商品特性と言った特殊性を前提として市場の仕組みは設計されるべきなのである。
実業家が新規事業や新たな地域や国に進出したり、投資をしようとするときに行う分析こそ経済学の本質なのである。ところが、経済学においては、その様な研究や実業家の意見は不当に低く評価されている。その為に、経済学が、経済の実態から乖離してしまっている。
企業経営は、貨幣的空間、物的空間、人的空間からなる。そして、それらを統制しているのが会計制度である。気をつけなければならないのは、会計的空間というのは、事業を会計上に写像することによって成立する空間である。いわば影であり、実像は、物的、人的空間にある。
物的空間を構成する要素は、設備機械、土地、建物、備品、在庫などである。などによって構成されている。又、事業的には生産量、販売量、在庫量等が重要となる。
人的空間で問題となるのは、基本給や手当、雇用条件、労働分配率や社員数、平均年齢、年齢分布、直間比率等である。
貨幣的空間で問題となるのは、収支であり、資金繰り、借入額などである。
会計は、期間損益を計算するために設定されたものである。必ずしも経営の実体を反映した者とは言えない。むしろ、その時その時の政治的判断や経済情勢に歪められている可能性がある。
大体、為政者や経済政策を立案する者の多くは、会計のことや会計が及ぼす影響に関して無知である場合が多い。
景気の下降期にキャッシュフローを重視した融資をしろといった馬鹿げた通達を出したりもする。資金繰りが悪化しているときに資金繰りの悪化を理由に資金の回収に金融機関が走ればどうなるか、結果は明らかである。
会計というのは、会計の仕組みや働きを理解していれば、有益であるが、指標や数値だけで判断されたらかえって有害である。又、意味もなく基準を変えるのは、スポーツのルールを自分の都合の良いように変えるのに似て、無用に混乱を引き起こし、禍根を残すだけである。
重要なことは、事業目的であり、社会に対する事業の影響である。
会計は、事業を映す影に過ぎず。実体は、事業そのものにある。
貨幣経済が発達する以前の経済は、自給自足が原則であり、自給自足できない物を物々交換したのが始まりである。それは、つい最近まで名残が残っていた。
現代社会は、何でもかんでも貨幣に置き換える悪癖があるが、実際は、物が中心なのである。
そして、無意識に、無自覚に会計的な基準で判断してしまっている。つまり、知らず知らずのうちに、損益が価値観の基準になっている。
本来、金を儲ける目的のためにだけ生産するというのはおかしい現象なのである。人々に有用な物を作ることこそが本来の目的でなければならない。その根源が失われつつあるのが、経済の根本的な問題なのである。
財とは、必要な物であって、金になる物ではない。何に必要なのかと言えば、生きる為、生活するためである。結局、金儲けのために、不必要な物まで大量に生産するから資源や環境問題が引き起こされるのである。それでいて、必要な物が浪費され、失われつつある。
何をもって効率的とするのか。その根本的な理念が蔑(ないがしろ)ろにされている。
十人で一億円の利益をあげる事と、千人で一億円の利益を上げることを考えたらどちらが効率的と言えるであろうか。
現代ビジネスでは、圧倒的に前者である。しかし、人的経済、雇用から考えると、後者は、千人の所得を賄った上で尚かつ一億円の利益を上げていると言えるのである。その意味でずっと効率的である。
単に会計的利益のみを追求すれば、費用を限りなくゼロにすることが要求される。しかし、費用を裏返すと他者の所得であり、利益である。この様な体制は、自分の利益ばかりを追求すると他者の所得や利益を限りなく小さくするような体制である。部分が栄えれば栄えるほど、全体は貧しくなる。
結局、労働集約的な産業は、人件費のやすい方に転移し、装置産業だけが生き残ることになる。それは、その国や地域の雇用、ひいては、所得や消費を限りなく小さくする。それは市場の収縮を意味する。
技術革新が人々の生活を豊かにするどころか、貧しくしてしまうのである。まったく技術革新が人類の進歩に寄与していない。
自分の子供の頃には、物を大切にし、何度も何度も修繕しては使えなくなるまで使ったものである。尚かつ、使える物に使える物に転用した。今は使い捨てが美徳であり、それは貨幣的論理によるのである。
物の経済性というのは、物を無駄なく使い切ることにある。故に、物質的な意味での効率性というのは、いかに、物を使い切るかによって求められる。
ちなみに、人の経済性とは、いかに、効率よく、必要としている人に必要な物を分配するかによって求められる。
本来、経済は、数値化できない部分を多分に含んでいる。その点を充分考慮する必要がある。
お金の効率性は、節約と倹約に求められる。
会計的な意味での分配は、人件費であり、単価×時間、或いは、単価×成果物によって計算される。人件費は費用に過ぎず。利益を生み出すためには単純に抑制すべき値である。
しかし、人件費は、反面において所得であり、生活費の原資でもある。所得は、属人的なものであり、社会的分配も意味している。それは、人権にも深く結びついている。
結局、人件費の水準がその国の産業の有り様を制約するのである。それを無視しては、経済は語れない。
大量生産、大量販売、大量消費は、会計的な意味での効率性であり、物的、人的、貨幣的経済から見て必ずしも効率的とは言えない。
貨幣単位は分離量であるのに対し、物理的単位は、基本的に連続量である。貨幣単位は自然数の集合で無限であるが、物質は、有限である。無限な物で有限な物を測るのであるから、有限な物に合わせる必要がある。
ところが貨幣の産物を貨幣によって測ろうとするから際限がなくなるのである。
物は具象的な事象であるが、貨幣や会計は抽象の事象である。つまり、物は見えるが貨幣的現象や会計的事象は、目に見えない世界の出来事である。
物は、実体的対象だが、金や会計は、観念的対象である。
それが経済を解りにくくしている。見にくくしている。だから、経済的事象は目に見える形に置き換えことが肝心なのである。その為には、図形の活用が重要になってくる。
実際の物の動きはむしろ管理会計に現れる。ただ、管理会計は、財務会計と違って法的な取り決めがあるわけではない。
会計と貨幣の動きとは、必ずしも一致しているとは限らない。会計は期間損益に則り、貨幣の動きは、現金収支に現れるからである。
現金収支では、資金の働きが解りにくいから期間損益として会計が発達したのである。
しかし、重要なのは、資金の流れである。それが現物的経済である。なぜならば、資金が事業体の存亡を決するからである。いくら業績がよくても資金が断たれれば事業は継続できない。逆に資金さえ続けば事業は継続されるのである。非効率な公共事業が継続される絡繰りもそこにある。
期間損益上では、貸借と損益に区分して収益状況を判断する。しかし、実際は、貸方、借方の総量が問題となる。それは、実際の資金の収支は、貸方、借方の総量に現れるからである。故に、実体は、残高試算表の方が反映していると言える。
その上で、資産、負債、資本、収益、費用の比率が重要となるのである。
期間損益というのは、単位期間によって長期的働きと短期的働きを区分したものである。そして、長期的な働きと短期的働きを見極めることが重要となるのである。長期的働きは、事業計画と事業目的に依拠し、短期的働きは、損益計算書に表される。
長期的短期的資金の流れや働きを理解していないと実際の経営実体は理解できない。
不況だからと言って長期的資金の回収に金融機関が廻れば、企業経営は忽ち破綻してしまう。第一、長期的資金の動きは、損益に反映されていないのである。
経営比率、経営指標には、産業一般に共通している数値と個々の企業固有の比率がある。産業一般といっても、個々の国柄、地域性、産業によっても違いが生じる。産業構造と言った内的な要因によるのか、国の経済制度、経済政策の違い、為替の変動、環境、状況等の要因によるのかの見極めが重要となる。
生産的部分は、経済の根幹である。貨幣経済において経済が停滞する原因の最大の原因は、生産的な部分に貨幣が循環しなくなることである。貨幣が行き渡らなくなることで生産的部分が衰弱し、最悪の場合、壊死してしまうのである。
経済には、分配の局面と交換の局面、消費の局面、生産の局面がある。分配と交換の局面を担っているのが貨幣である。
生産と分配の局面では、それぞれ違う力が働いている。生産では、極力、費用を削減し要とする力が働く。分配では、極力、公平な分配をしようとする。この働きは必ずしも一致しない。
生産と分配と消費の均衡が破れると経済は不安定となり、極端な場合、破綻する。
人と金は消費、金と物は、分配、物と人は生産にかかわる。
生産の効率と分配の効率と消費の効率は、基準が違う。それは、生産が目指すところと分配が目指すところ、消費が目指すところが違うからである。目指すところが違えば、必然的に基盤も違ってくる。生産的な効率のみを追求すれば、分配や消費の基盤が歪んでしまう。
分配の効率は、分配の仕組みに求められる。
分配の仕組みは、所得の配分の仕組みと成果の分配の仕組みから成る。所得の配分と成果の配分は、労働に関わる事象である。
更に分配の手段には、組織的手段と市場的手段がある。組織的手段とは、例えば、企業の給与体系、賃金制度等がある。
カジノ経済は、人、物、金の三つの要素から物の要素が欠けていると言っていい。或いは、物が金に置き換わっているとも言える。つまり、消費だけの経済である。分配と生産が欠落していると言える。また、人と金、金と金の経済だと言える。
カジノというのは、現代経済、即ち、貨幣経済の一面を象徴している。
貨幣経済において、最も効率の良いのは賭け事である。賭け事は、貨幣を激しく循環させる。貨幣を循環させるという機能だけから見るとカジノは極めて有効な仕組みである。その証拠にカジノはどこも潤っている。しかし、カジノは非生産的な部分である。カジノがどんなに潤っても生産性は上がらず、物質的には何も貢献しない。
この事実は、貨幣経済の行く末を暗示している。
結局、生産的部分が衰退すれば、経済は、カジノ化せざるをえなくなる。生産的な部分を持たない経済は、貨幣に依存せざるを得ないからである。
経済は、実の部分だけで成り立っているわけではない。生産性が向上すれば虚の部分が増殖する。虚の部分が重要な役割を担っていることは確かである。問題は、虚の部分が増殖するに連れて実の部分を侵蝕し、実の部分が成り立たなくなることなのである。
虚とは、虚業、実とは実業である。実業が成り立つからこそ虚業も機能するのである。
経済が実効力を持つためには、最低限の実業を維持し続けることが求められる。虚の部分が実の部分を圧迫するような事態が生じたら、政策的に虚の部分を圧縮し、実が占める部分を増大させる必要があるのである。
費用というのは、社会全体で捉える必要がある。そして、費用の根底にある基準は必要性であることを覚えておかなければならない。
問題なのは、必要な物を生産するのに必要な費用だけでは、労働者、全員の所得を賄えないのである。だから余計な仕事を作らなければならない。当然余計な支出が生じるのである。しかし、その支出は必要な支出なのである。問題はその比率である。
期間損益の働きを構成するのは、基本的に資産、費用、負債、収益である。
資本、及び利益というのはあくまでも結果を表した数値である。総括的な結果を知るための指標として重要なのであり、経済に対する働きを知るためには、資産、費用、負債、収益の変化が重要なのである。
そして、資金の流れを方向付ける根幹は、負債と費用である。負債は、長期的資金を流れを費用は、短期的資金、即ち、消費を表している。資産は、長期的資金である負債を裏付け、収益は、短期的資金の流れである費用の原資となる。
資金の流れる方向のうち長期的資金の流れを左右するのが負債であり、短期的資金の流れる方向を左右するのは、費用である。長期的資金とは、長期的な分配を短期的資金は、短期的分配を意味しているのである。
収益や利益が問題となるのは、費用や長期負債の返済資金を確保するという目的においてである。一定の収益が確保されなければ、費用にかかる資金が収益によって賄えなくなり、結果的に長期負債に負担が累積されていくことになるからである。そして、その負担が高じると負債の増殖に歯止めがかからなくなる。
この問題は、財政でも同様である。財政の問題は、借入を除いた収入と支出の不均衡以外の何ものでもない。
資産というのは、とらえどころのない科目なのである。資産は名目的価値と実質的価値がの二つの価値があることがそれを証明している。資産価値というのは、変動的な価値であり、原価であろうと、時価であろうと、いずれにしても会計上に現れている数値はある時点を捉えて計測された数値だからである。
資産価値はとらえどころがない。それでいて資金の流れに対して潜在的な影響力を及ぼしている科目なのである。それは、資金調達の際、資産が担保されからである。しかも、収益が悪化し、借入資金を担保しなければならない状態に置いては、資産価値が劣化している場合が多い。
収益にしろ、資産にしろ変動的な部分が大きい。それに対して費用や負債は、は固定的な部分が大きいのである。なぜならば、費用や負債の根底にあるのが必要性だからである。
結局、負債と費用こそ経済に対して重要な働きをしているのである。
だからこそ、収益、費用、負債の動きや変化が決定的な意味を持つのである。
基本的には、試算表が再現できればいいのである。試算表の中で、資産や費用、負債、収益がどの程度占め、或いは、変動したかを解明すればいい。
経済情勢を検討する時、重要なのは、経済を維持できるだけの費用が確保されるか、否かである。どれだけ儲けるかではない。それを決定付けるのは、一つの国家、社会を維持するためにどれだけの費用がかかるかなのである。儲けというのは、結果である。儲けすぎても社会的機能からするとかえって障害になることがある。
又、投資は、会計上長期的な費用に転化される。つまり、社会的にどれだけの費用が必要とされるのか、それに見合った収益をどの様に市場から捻出するのかが経済上の最終的課題なのである。
競争力や生産性ばかりを追求してもこの答えは得られない。
費用を賄えるだけの貨幣の流量が確保される必要がある。
長期的資金が問題なのかと短期的資金が問題なのかを取り違えてはならない。フロー、即ち、短期資金の勘定が合わなくなってきた時に、ストック、即ち、長期資金を引き揚げれば経営が成り立たなくなるのは必然である。それは計画的に倒産させたと言われてもおかしくない。
財政の問題は、財政が現金主義で、尚かつ、単年度決算を原則としているため、長期資金の流れと短期資金の流れが未分化にだと言う事が最大の問題なのである。いずれにしても、短期的資金の問題を長期的資金の問題と取り違えると本来継続できる事業を潰してしまうことになる。それは経済や産業に致命的な傷跡を残すこととなる。
費用は、貨幣が流れることによって生じる。貨幣経済は、貨幣の流通によって成り立っている経済であることを忘れてはならない。
雇用を創出するのは、貨幣が流れる領域である。
景気対策の問題は、貨幣をどこに、どれだけ、どの様に流すかの問題なのである。
結局、重要なのは、通貨の流れる範囲と量である。
損益と貸借を合算したものなのである。その点を十分に理解すれば産業界で何が起こっているかの予測をつける事は可能である。
もう一つ重要なのはキャッシュフローである。
損益と貸借を合算するだけでは通貨の流れた量を特定することはできない。しかし、キャッシュフロー計算書を照合すればかなり正確な数字が計算できる。
その後は、統計の出番である。統計資料は、単に経営上の資料として活用できるだけでなく。経済政策や財政政策を確定する上でも重要な資料となる。むしろ、現在これらの資料が有効に活用されていない事が問題なのである。
公共事業の効果や金利政策、規制緩和、報復的処置、為替の動向、戦争や災害が及ぼす影響、賃金の上昇率、原油価格や農産物の作柄の動向、株式相場の変動、地価の変動、気温の変化(温暖化という意味だけでなく)、人や牧畜の疫病による被害等を資産、費用、収益、負債と結び付けて解析するためのデータはふんだんにある。それも産業別や地域別に分類することも可能なのである。
それなのに、情報量も情報処理能力も低かった時代の古典的手法に拘って会計情報や統計情報を有効に使おうとしない。
経済政策に直接、会計情報を結び付けられるようにすべきなのである。
企業は、生産手段である。企業が経済における生産的な部分を担っているのである。
法人税は、極力、少なくすべきである。なぜならば、法人は公的機関であり、本来、私的所有物ではないからである。また、法人は、現金を貯蓄することが困難な構造となっている。結局、過剰な税は長期的資金に蓄積されてしまうのである。
法人税は、期間損益を課税対象としている。貨幣の現金出納を課税対象としているわけではない。その為に、法人税は、通貨の流れや量を捕捉するのに適していない。
問題なのは、公と私が曖昧な部分である。公的機関としての企業の性格から見ても私的な所得と見なされる部分は課税されるべきである。
法人税は、損益計算、即ち、費用対効果の基準を現金収支の基準に無理矢理嵌め込もうとしている。
企業は、最終消費者ではない。企業は、生産主体と消費主体とを中継する機関なのである。故に、企業は、現金を貯め込める仕組みにはなっていない。現金は、企業を通過していくのであり、現金と物とを通過させることによって企業の働きは発揮されるのである。
大多数の産業は儲からない仕組みになっている。それが問題なのである。故に、新興産業や新興市場に経済の主軸を特化せざるを得ない。その為に、新興産業や新興市場も競争が激化し、投資した資金が回収できなくなり、長期負債に債務が蓄積されていくのである。
又、長期負債への返済原資は、利益から捻出されている。この事実を認めないで利益を基にして税を計算すれば、必然的に長期負債は返済されずに蓄積されてしまう。企業は。分配のための中継的機関なのである。
税の問題は、税が、反対給付のない国家所得だという点である。貨幣の流れに反対方向の物の流れが結びつかない。貨幣の流れが一方通行になりやすい。その為に、フィードバック効果、情報の交換効果、学習効果が働かない。結果、費用対効果の判定が直接的に結びつかないという事である。だから収支の調節が付かなくなるのである。
カジノ的経済というのは、生産的部分を持たない経済である。生産と結びつかない分配、消費が意味することは、生活に必要な物資の全てを他の地域や国から調達しなければならないことを意味する。つまり、寄生的な経済体制である。
労働が生産的な部分を持たなければ、その成果は実体的な部分に反映されなくなる。労働が実体的な部分に結びつかないのは虚しい。全てが金にしか結びつかない虚しさである。自分の労働を金でしか測れなくなれば、精神の堕落や文化の退廃を招く原因となる。
真面目に働いてる者が報われない社会は退廃化する。真面目な労働というのは、生産的な労働である。
カジノやリゾート、リクレーション、エンターテイメントは、経済の一面を象徴している。カジノもリゾートもそれ自体が社会に絶対必要とされる物資を生産していないと言う点で共通している。つまり、貨幣に依存した経済だと言える。貨幣による自家中毒症状を呈しているのがカジノ化した経済である。
経済は、効率ばかりを追求すればいいと言うものではない。経済には、非効率な部分が必要なのである。ある意味で、生産性が向上すればするほど、非効率な部分が要求されると言っても良い。なぜならば、生産性の向上というのは、生産的部分の効率性を意味しているからである。
生産的部分の効率化を促すことは、人手を省く意味あいがある。言い換えると生産的部分の雇用の減少を招くことになるの。当然、生産的部分で減少した雇用を非生産的部分で吸収せざるを得なくなるのである。非生産的な部分で雇用を吸収しようとしたら、非生産的分分は非効率な部分を含まざるをえない。その典型が、エンターテイメントやリゾートである。
生産的部分が縮小し、非生産的部分が拡大するのは経済のカジノ化を招く原因となる。一度、経済がカジノ化すると実体経済は、発展しにくくなる。生産的部分は、構造的だからである。
市場の競争ばかりを高めると生産上の効率は高まるかもしれないが、分配上の効率は低下する。過剰な競争は、過剰な経費削減を招き、労働条件の悪化を招くのである。
貨幣は、交換手段であると同時に分配の手段でもある。
分配の効率とは、いかに効率よく貨幣を万遍なく、公平に配分するかを意味するのである。
生産の効率と分配の効率をいかに均衡させるかが、経済の問題なのである。また、インフレーションやデフレーションの対策なのである。
成長期を抜け成熟期に入った市場は、量から質の転換が求められているのである。
生産にも、消費にも質がある。そして、労働にも、人生にも質がある。
ただ、同じ物を大量に生産し、使い捨てしていくだけでは経済は維持できないのである。なぜなら、生産の対極に労働があるからである。労働の質を高めないかぎり、人生の質が向上しないからである。
充実した人生を送りたいならば、高品質の仕事をすることなのである。なぜならば、労働こそが自己実現の手段だからである。
そして、自分が気に入った良い品を大切に、大切に使いこなしていくことが消費の質を向上させることなのである。
その為には、良い品を手間暇掛け、時間を掛けて作り出すことが前提となるのである。
それから見ると現代の現代の経済の在り方は、逆行している。だから、市場が活力を失うのである。価格による競争から質による競争に転化することが大事なのである。不必要に価格競争を煽り、市場を荒廃させることは、成熟した市場では、かえって逆効果である。
成熟し、飽和状態に陥った市場では、大量生産、大量販売、大量消費から多品種少量生産へと転換する必要がある。さもないと経営主体は収益力を保てなくなる。市場が成熟し、商品が行き渡ると単一的な欲求から多様な欲求へと消費者の欲求は変質をする。それを受け止められなければ、市場は品質を保てなくなるのである。成熟し、飽和状態の市場であればあるほど過当競争に曝されると脆く崩れ去るのである。市場が商品を吸収しきれなくなるからである。
高価格でも時間を掛けて手作り高品質で自分にあった物を作り、それを何世代にも渡って修理しながら大切に使っていく。スイスの時計市場が好例である。それが雇用の質、技術の質を保つことにも繋がるのである。
安ければいい時代は終わらせる必要があるのである。
また、自動車も自分にあった車に改造をしていく。それが重要なのである。世界に一つしかない自分だけの物を大切にする時代なのである。それこそが真の付加価値なのである。
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