経済が生きる為の活動だと言う事を忘れれば、人間は、国に見捨てられ、職場から見捨てられ、家族から見捨てられ、自分の人生からも見捨てられてしまう。
経済で重要なのは、生産効率と分配効率と消費効率の均衡である。現代の経済体制の問題点は、生産効率ばかりに重点を置いて、他の効率、分配効率や消費効率を軽視していることである。その結果、社会全体があたかも工場のようになってしまった。大量生産、大量消費を突き詰めた結果、分配や消費までが標準化され、平準化されてしまったのである。
経済の基礎は、労働と分配である。労働と分配を通じて生産効率と分配効率、消費効率を均衡させるのが経済制度である。
そして、公平な分配こそ、効率的な分配なのである。なぜならば、偏りや分断、階級は、分配を阻害する要素だからである。
経済は、人、物、金の循環である。故に、流動性を保たなければならない。流動性は、物の過不足、仕事の軽重、貨幣価値の高低などの何等かの高低差によって成立する。差がありすぎれば流動性は失われる。かといって画一的、均一的でも流動性は失われるのである。
効率的な国家、社会を実現するとは、公平な分配をどの様に実現するかであり、その為には何を以て公平とするかが重要な意味を持ってくるのである。
能力や働きに応じて生産財を分配する仕組みこそ経済体制の根幹なのである。
日本の人口を百人と仮定した場合、遊園地に一人の人間が毎日行くのと、百人の人間が平均して四回行くことが良いのかの問題である。又、土地であれば、一人の人間が九十パーセントの土地を占有し、後の九十九人で一%の土地を分け合うのが分配において効率的かの問題である。それは、一家族が生活するために、必要最小限の空間をどれくらいに設定するかにも依る。
土地には限りがあるから、縦方向、高層ビル化、即ち、二次元から三次元に拡げることに依ってある程度解消してきたのである。
極端なのは、全てを国家や個人の所有に帰すことであり、或いは、全てを一律同等に分配してしまうことである。
国家や一人の人間が全ての土地を占有することが効率的かというと効率的でないことは、明確である。なぜならば、土地が生み出す物を再度分配する必要があるからである。
では、土地を同じ広さで全ての人間に同等に分配したら、平等が確立するかというと物事は相単純に割り切れるものではない。土地には、立地条件があるからである。
何を基準にして分配するかが経済の一番の課題である。そして、分配の基準には、人々の生活習慣が深く関わっているのである。
経済基盤とは、生活習慣である。
国家、社会というのは、国民の生活の場である。国家というのは、いかに国民生活を実現するかがその最大の役割である。そして、国民生活というのは、国家体制に左右されるのである。
かつては、国家理念を明確にすれば、国家体制や社会体制は自ずと明らかになった。貨幣経済が確立される以前は、経済は、政治の従属物に過ぎなかったからである。しかし、今や経済は、政治の従属物ではなくなりつつある。いくら、政治体制を明らかにしても国民生活は、それだけでは定まらなくなりつつある。
重要なのは、経済の仕組みをどの様にするかである。そして、その経済体制の基盤にあるのが、貨幣制度と会計制度である。それらは決済制度に結びついていく。
生病老死。経済は、生きる為の活動である。人は、生まれて育ち、結婚をして子を育て、年をとってやがて臨終を迎える。その間に病にもなる。人生をいかに生きていくかが経済である。
かつては、人生五十年と言われたが、今の日本人の平均寿命は、男が八十才に少し足りないくらいで女は、大凡八十六才だとされる。
平均寿命が五十才なのと八十過ぎるのとでは、当たり前に、経済の有り様も違ってくる。経済体制というのは、国民一人一人の生き様が集約された状態なのである。経済を決めるのは、人間の生き方である。だからこそ、人生観や恋愛観、国家観、道徳、価値観が経済に決定的な働きをするのである。特に、労働や仕事に対する考え方は、経済を決する要素である。
仕事や労働に対する考え方を左右するのは、仕事を固定的なものとして捉えるか、変動的、流動的なものとして捉えるかである。
近代というのは、仕事を一定な事象として標準化することによって成立してきた。つまり、定職、固定給というように、仕事を一定に決める事によって所得を一定化にし、所得を一定化することによって借金の技術を充実させ、長期的資金の働きを発展させてきたのである。
仕事に対する考え方が国家体制の礎にもなってきた。
資本主義経済は、株式会社という機関を基準とする。株式会社を基準として考えると、成人して就職し、定年を迎えて退職金をもらって退職をするまでの期間は大凡四十年である。その間毎年、一人一人を採用していけば四十人で一巡することになる。
故に、四十年と言う単位が経済では重要な意味を持つ。
人間は、働ける間は、生活の糧は、労働によって得る。では人間はいつからいつまで働けるのか。働く必要があるのか。それが経済を考える上で基礎的要件となるのである。
成人するまでは保護者の庇護の下で成長し、退職したら、子供の世話になる。それが暗黙の社会的合意事項である。
貨幣経済では、生活に必要な資源は、一旦貨幣所得を受け取った上で市場から得ることを原則としている。
また、国家体制を定める上で決定的な働きをするのは、私的所有権、生産手段に対する所有権の考え方である。
市場経済や貨幣経済を下地にした自由主義経済が成立する以前は、社会や共同体に経済は従属していたのである。ところが、貨幣経済が浸透するにつれて共同体は崩壊し、国家という単位に吸収されていく。その国家という共同体も崩壊し、世界は、個人の集まりとなる。なぜならば、共同体というのは、非貨幣的空間だからである。貨幣的空間が拡大するにつれて、非貨幣的空間は、侵蝕されることになる。つまり、人間関係が非貨幣的な繋がりから、貨幣的繋がりへと変貌していくのである。
その結果、共同体が崩壊するにつれて、人間の幸せは、貨幣によって測られる傾向が強くなってきた。
職業というものに対してプロとアマとの差は、その技能によるのではなく。金銭の授受によって判断する。上手下手ではなく。金を受け取れば、プロであり、金を受け取らなければ素人である。
だから、金銭を受けとらない専業主婦はプロとしては認められない。そして、職業として認められると報酬を得るかわり、名誉は認められない。つまり、金儲けのためだと割り切られる。だから、アマにしろ、プロにしろ仕事によって人間の尊厳が認められるわけではなくなる。報酬に応じた働きが求められるだけである。結果、職業倫理観は失われる。プライド、誇りがなくなるのである。
専業主婦と売春婦では、売春婦はプロで主婦は素人という差しか認められない。それが共同体が崩壊した社会である。金儲け以外の目的は、仕事に見出せなくなるのである。
最近の証券会社のテレビコマーシャルで「大切な事はお金だけじゃないんだ。」と叫んび、自分の胸に手を当てた後で「あっ俺、綺麗事をいっている。」というのがあった。これなどは典型的である。
「世の中綺麗事をいっても所詮金なんだ。お金しかない。」そう言いたいのだろう。そう言う考え方が静かに人々の間に浸透している。金以外に生きる価値が見出せなくなっているのである。
しかし、人間関係において個人が最小単位の社会は、人間関係が希薄であり、相互の結びつきは弱くなる。つまりは、孤独に支配された社会である。人間は、一人では、生きられない。適度の範囲の共同体を形成し、一定の人間関係を築くことが安定した生活をおくるためには必要になるのである。
重要なのは、人と人との結びつきであり、帰属感なのである。帰る所のない、寄る辺ない生活ほど味気なく、切ないものはない。それは、自分の存在意義どころか、存在感すら喪失させてしまうのである。人間は感情の生き物であり、一人では生きられないのである。
共同体というのは何等かの縁によって結ばれた社会である。
人間関係は、金銭、即ち、数値に置き換えられない部分を多く含んでいる。縁とは、人間としての存在が生み出す関係を言う。共同体の崩壊は、縁が断ち切られた社会、金銭関係以外の人間関係が失われた社会を現出させる。それが無縁社会である。
無縁社会というのは、非人間的な世界である。2030年には、男性の三人に一人、女性の四人に一人が生涯未婚になるという予測もある。
30代の若い女性が私は、きっと無縁死すると決め込んでいる社会は異常な社会である。その異常さにも気がつかなくなってきた。
孤独死した人の留守電に、弟の死を知らない郷里の姉から安否を問い掛ける伝言が何度も何度も録音されている。何とも情けない風景である。
父親が死んだというのに、書類にサインしただけで遺品を取りに来ようともしない息子の心の風景は荒涼としている。救いようがない。
年老いた婦人が、私が死んだら白骨になるまで誰も気がついてくれないのではないのかと心配をしている。
縁者が居ない高齢者が共同で墓を設置する計画が進んでいる。その共同墓に子供が居るのに、子供の世話になりたくないと申し込む者までいる。
本当に我々は豊かになったのだろうか。一体豊かさとは何なのだろうか。人間はどこに向かっていこうとしているのであろうか。豊かさというのは人間の心の有り様によって決まる。足らざるは貧なり。充ち足ることを知らぬ者は常に貧しい。
行政も高級な老人ホームを造ればいいと思い込んでいるのではないのか。
いくら金があって、高級な建物に住めたとしても、誰一人尋ねてくる人もいないとしたら、それを幸せというのであろうか。
又、政治と金のが問題となっている。賄賂は、貨幣経済が成立した直後から政治や行政の影の部分としてつきまとうことになる。
最初から政治家や官僚は、金のために、政治や行政を志したわけではあるまい。しかし、日々の生活の中でいつの間にか、志を置き忘れ、金のために堕落していってしまう。
仕事というのは、金のためだけにあるわけではない。
政治家は、金を目当てに政治家になったわけではないだろう。政治家が問われるのは、金儲けに長けていることではなく。何をもって政治に志すかである。
経済とは金儲けを言うのではない。経済とは、生きる為の活動を言う。
経済の目的は、金儲けにあるわけではない。世の中に有用な物や用役を生産して提供し、人を養う事にある。
仕事には、数値、即ち、貨幣価値に置き換えられない部分が必ずある。良い例が、育児や介護である。出産や夫婦関係を金銭に換算することはできない。妻は、売春婦ではないのである。
いきすぎた貨幣主義、市場主義が何もかも貨幣価値に換算してしまおうと試みている。しかし、それが人間の幸せの根底を突き崩しているのである。
国民国家が目指すのは、最大多数の最大幸福だと言われている。
最大多数の幸せと言っても幸せとは何かが判然としないならば意味がない。幸せとは、量より質の問題である。良質な人生を送れるかどうかが重要なのである。
民主主義は、数の論理とよく言われる。それは最大公約数の発想に繋がる。しかし、数の論理を押し通しならば、何を分子とし、何を分母とするのかを明確にする必要がある。
つまり、幸せの基とは何かが重要となるのである。そして、それは、お金ではない。豊かさの根源は金ではなく。人であり、物である。
お金がいくらあっても生活を支える人や物がなければ何の価値もないのである。
良い例が、第一次大戦後のドイツに見られるようなハイパーインフレである。何億円という金があってもパン一つ買えなくなるのである。
かつて飢饉の時、大金を首に下げながら餓死した商人の話が記録されていた。金がいくらあっても飢饉では食料を手に入れることができなかったのである。
自由主義経済における国家、最大の役割は通貨の管理である。通貨を管理する為には、通貨の流通量をどう規制するかが重大の課題である。それは、貨幣の発行量をどう規制するかが重要なのである。
財政が立ちいかなくなる背後には、構造的問題が潜んでいる場合が多い。つまり、貨幣制度の仕組みが肝心なのである。
経済の本義は、労働と分配にある。つまり、いかに、効率よく必要な物を必要な人に公平に分配するかにある。そして、その手段として貨幣があるのである。
つまり、働きに応じて貨幣を適正に分配すると同時に市場の規律をいかに保つかが、国家、社会の役割なのである。その為にこそ貨幣制度はある。
又、いかに偏りなく公正に所得の分配ができる社会を実現するかが国家の目的となる。貨幣は目的できなく。手段なのである。
貨幣制度は、第一に貨幣。第二に、貨幣の発券機関。第三に、貨幣は何を担保するのか。貨幣の量を制約する物、或いは、基準。国債。第四に、貨幣の供給機関と手段。第五に、貨幣の回収機関と手段である。
貨幣の持つ基本的性格に対する認識が重要となる。
貨幣の発行量を制約する事と、貨幣の供給、回収は、財政、及び経済政策の問題。
貨幣価値には、残存価値、潜在価値、そして、現在的価値がある。残存価値は債務を構成し、潜在的価値は、債権を構成する。現在的価値は、現金として実現する。
現在的価値は、貨幣の運動によって生じる直接的価値である。
現金は、短期的な貨幣価値を実現し、債権と債務は長期的貨幣価値を構成する。
現金は、取引が成立した時点での貨幣の運動量を示している。取引よって生じる貨幣の運動は、同量の債権と債務を生じさせる。
単位期間内で清算される債権が収益であり、次の単位期間まで繰り越されるする債権が資産である。単位期間内で清算される債務が費用であり、次の単位期間まで繰り越される債務がが負債である。
貨幣制度を構築するためには、貨幣制度を構成する要素を明らかにする必要がある。貨幣制度を構成する要素は、第一に貨幣。第二に、貨幣の発券機関。第三に、貨幣は何を担保するのか。貨幣の量を制約する物、或いは、基準。国債。第四に、貨幣の供給機関と手段。第五に、貨幣の回収機関と手段であ
その上で、貨幣の持つ基本的性格に対する認識が重要となる。
貨幣政策の実際は、貨幣の発行量を制約する事と、貨幣の供給、回収、そして、財政、及び経済政策の問題である。
国民国家は、経済的自立を前提とし、経済的自立は、私的所有権と自由主義経済によって成り立っている。
自由主義経済は、市場経済を基盤としている。
市場は取引の集合である。市場は、取引によって成り立っている。
取引には、売り買い、貸し借り、収支、受払、送受、受け渡し、裏表と言うように対称性がある。また対称性がある故に、自己相似的でもある。
取引は、フラクタルな事象である。取引がフラクタルならば、市場もフラクタルである。市場がフラクタルならば、自由経済もフラクタルである。
人間関係は、フラクタルな事象である。歴史的事件も日常的な出来事も自己相似的な事象である。歴史は、日常生活の延長線上にある。日常的な諍いも国際紛争、戦争も結局は相似している。相似してはいるが、前提、条件、環境によって結果は一様ではない。同じ人間でありながら、人それぞれ違いがあるように、国も又個性がある。
無限の連鎖反応によって市場も歴史も形成されてきた。そして、これからも無限の連鎖反応が続くのである。
無限に連鎖する事象の中で何が、変わり、何が変わらないのかを明らかにすることが、国民経済を成立するためには不可欠な要件なのである。
国家とは、歴史の産物である。
国家を成立させている要件は一様ではない。
一律に国家の在り方を規定することはできないのである。
経済を一律に捉えることは愚かである。状況は絶え間なく変化し、おかれている場所の形は、どこも違う。
その国、その地域の地理的要件、文化的要件、歴史的要件に併せて経済の仕組みは構築されるべきなのである。
国家は、経済単位である。
国民経済の基礎は、人口である。人口数、人口の増減、人口の分布である。経済の基本は、労働と分配である。国民が生存するために一人あたり必要な絶対数、人間らしい生き方ができるために必要な物資、そして、文化的な生活が営めるために必要な物資の確保。それから、災害や外的、犯罪から国民の生命、財産を護るために必要な事象の確保が国民国家に課せられた責務である。
そして、それを実現するために必要な一人あたりの生産、所得、消費の平均水準と上限、下限の調整、それが国民国家の役割である。しかし、その基準は多分に思想的なものである。
国民生活の水準を維持するために必要な物資を調達するための資源をいかに生産し、確保、維持するかが、国民経済最大の課題である。それが維持できなくなれば国民の生存が危うくなる。
特に、自給率の低い日本にとっては、国民の死活問題に直結している。
第二次世界大戦後の日本は、恵まれていたのである。だから、今日、特殊な例を除いて餓死者は出ていない。しかし、終戦直後には、裁判所の判事にまでが死者が出たのである。その事実を忘れてはならない。
又、労働と分配という観点からすると産業を育成し、雇用を創出することは、国民国家の使命とまで言える。
また、一定所得の水準を維持する事、格差を是正することは、国民経済の活力を維持するために欠かせない責務である。
所得の年齢的、地域的、職業的格差は、分配の効率を著しく阻害し、国民生活を不安定なものにする。かといって何もかも一律にしてしまえば、自己実現という観点から反することになる。
故に、税制や福祉政策などによって所得の再分配を行うのである。
この国家目的を見失うと財政は均衡を失い、破綻することになる。
財政赤字をもたらすものは、国家体制である。国家体制が赤字を生み出すというのは、財政赤字は構造的な問題だという事を意味する。いくら、政策を講じても根本的経済構造に歪みがあれば、赤字は解消できない。
国家体制の問題とは、根本的には、国家理念である。
経済理念とは、経済、即ち、生活をどの様な状態に維持したいのかという事であり、その為に、経済体制をどの様な仕組みにするかの問題なのである。財政というのは、その為の経済政策や施策の結果にすぎないという事である。
故に、財政の根本は何か。財政の根本は、国家理念である。国家理念は、建国の理念である。それは、国家事業とは何か収斂するのである。
国家事業の第一は、国家建設である。国家建設とは、社会資本の建設を言う。社会資本には、ハードな部分とソフトな部分がある。ソフトな部分には教育が含まれる。
第二は、国防と治安である。国防というのは、軍事的意味だけでなく、あらゆる災害や犯罪から国民を護ることである。
第三は、国民生活の保護である。国民生活とは、国民福利である。
国家経済の機構と市場経済の機構とは、不連続である。なぜ、不連続かというと根本思想が違うからである。国家経済、即ち、財政は、現金主義であるのに対し、市場経済は、損益主義に基づいている。故に、赤字と言っても財政赤字と民間企業の赤字を一律には語れない。
市場経済の原則に財政を従わせたいと思うのならば、現金収支を期間損益に変換する必要がある。
期間損益と現金収支の違いは何か。例えば、民間企業で言う赤字は、期間損益上の赤字であり、財政や家計で言う赤字は、現金収支上の赤字である。
また、現金収支における借入金は、期間損益では負債になる。現金収支上、借入金は、収入になるが、期間損益上では、債務となるのである。そして、何等かの貸方の相手勘定を持つ。
現金収支上の収入を構成するのは、収益と負債と資本である。また、支出は、資産と費用である。
収益と負債や資本の違いは何かが問題なのである。一つは資金の働く時間の差である。
収益も負債も資本も資金調達の形態である。ただ収益は、調達した資金を単位期間内に清算してしまうのに対し、負債は一定期間かけて清算し、資本は、解散時に清算するという違いがあるのである。この違いが重要なのである。
通常、事業を興す時には、大量の資金がいる。その時、調達した資金は、借入と投資による。そこで得た資金は、初期投資として設備投資や開店資金として使用される。故に、資金は、短い期間に支出される。残されるのは、返済と配当の責務である。責務は債務残高として計上される。
支出は、資産と費用からなる。支出も単位期間内に清算する部分を費用とし、長期的に清算する部分を資産に区分するのである。
長期借入金の返済は、費用として計上されない。負債の返済原資にあてられるのは、償却費と税引き後利益である。償却費と税引き後利益で不足する部分は新たな借入によって充当される。問題はこの部分である。
自由経済か、統制経済かを論じるだけで、どの様な経済や産業にするのかについて語られていない。
儲かっている企業ばかりが脚光を浴びるが、実は、儲かっていない企業の方が問題なのである。
なぜ、儲からないのか。
戦後赤字企業は、増加の一途を辿っている。それは、何を意味しているのか。金融機関は、それを理解しようとしていない。長期資金と短期資金との見境がなく、長期資金に手をつけてはいけない時に、長期資金を回収しようとする。経済政策も何を目的としているのかを理解していない。現在の経済で重要なのは、継続だと言う事である。継続を支えているのは、資金だと言う事を忘れてはならない。
資金を調達する上で、収入と収益の関係が重要となるのである。資金繰りの上では、支出と費用の関係が鍵を握っている。又、現金主義と損益主義の関わりも収入と支出、収益と費用との関係から明らかにされるのである。
現金収支上では、借入金は収入になり、損益上は、収益と同じ要素とされるが、借入金の返済は、支出となるが、損益上の費用とはされない。
この事が利益の働きに重大な意味をもたらしているのである。それは、財政赤字と企業の赤字の差にも現れている。
国家収入は、国債と税収と事業収益、金融収益からなる。金融収益とは、金利と配当である。
国家収入の中で国家収益に該当するのは、税収と事業収益、金融収益である。
財政を期間損益に変換しようとしたら、財政上の収益とは何かを明らかにすることが重要となる。
企業収益と税収は同じ性格のものだと言えるかである。収益は、何等かの対価として得られる所得である。しかし、税収には、税を対価とする対象がない。
又、支出に際しては、税収を何に対応しているかを結び付けていく事で、税の性格を明らかにすることが出きる。つまり、税収に対応する費用は何かである。つまり、費用対効果とは、費やされた値は、何に対する効果なのかを意味するからである。
税収の性格は、収益よりも資本に近いものである。税を徴収するための費用は、対価としての性格が薄い。つまり、税は、何等かの費用と対応する収入と言うよりも社会資本に対する投資に近い、或いは所得の再分配の原資だとも言える。
極論すると究極的資本主義というのは、国民が国家に投資しているような体制を言うのかもしれない。
国家支出は、公共投資と費用とに分類される。しかし、国家支出には、単に費用として位置付けるのが困難な費用がある。それは、所得の再分配に関わる費用である。
財政上費用に分類されるのは、支出の効果が単位期間内に現れる支出である。それは、第一に、国防、治安を維持するため必要とされる費用である。第二に、公共事業に関わる費用である。第三に、行政費用である。
資産にそうとするのは、公共投資であり、公共投資には、第一に、国防に対する投資である。第二に、社会資本に対する投資である。第三に、国民生活、福利に関する投資である。
所得の再配分に関わる費用は、行政支出に関わる費用とは異質である。
所得の再配分をどうするかは、税思想の問題である。つまり、国家理念の問題である。それが課税対象の選択にも関わってくる。
市場経済において極端な格差は、市場の構造を歪める。故に、経済の仕組みで重要なのは、格差の是正であり、その為に所得の再分配がある。
即ち、所得の再分配をどうするかは、格差の幅をどの程度にするのかの問題でもある。それは国家理念に関わる問題である。故に、所得の再分配をどうするかが、税制を設計する上での要となる。
これらの問題は、国家、体制をどの様な形にするのか、国家の設計思想、即ち、国家理念、国家構想の問題である。
税制は、国家観の上に築かれるべきものである。財政上の都合や政治的理由で財政を経営すれば、財政が歪む(ひずむ・ゆがむ)のは当然の帰結である。
何をどの様な税収に基づき、国家支出を何に対応させるべきなのか。それが課税対象や課税手段の課題でもある。そして、この問題は、国家理念に関わる問題である。
収益に費用が適正に対応し、収益に費用が見合っているか。費用対効果が肝心なのであり、その費用対効果を計る基準は、利益であり、利益を規定するのは国家理念である。
この点が財政理念には欠如している。即ち、財政理念には、利益という概念が欠落しているのである。
だから、公共事業においても利益という概念がない。利益という概念がないから報酬という概念も成り立たない。費用対効果という関係が成り立たないからである。公共事業においては、所得は、報酬、即ち、労働の対価ではなく。単に、所得なのである。
自由主義経済では、事業収益を見直すべきなのである。なぜ、国家は利益をあげてはならないのか。
自由主義経済において国家だけを特別視しているかぎり、財政の抜本的解決はできない。国家も共通の原理に従うべきなのである。
自由主義経済の原則に従うのならば、国家も国営事業の利益を重視すべきなのである。そして、国家事業にかかる費用の多くを、国家事業から上げられる収益に依って賄う事を考えるべきなのである。
所得の再分配を重視するか否かは、国家理念に関わる問題である。再分配を重視するのならば高税率にならざるをえないし、市場効率を尊重すれば福祉の費用を削減しなければならない。どちらを選択するかは、国民国家においては、国民の意志に委ねられる。文化の問題である。
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