全ては、愛から始まる。
関係は形態的なものである。家族は、二を核とした関係である。二が始まりだから増減が生じる。二から一が生じ、その一が又新たな二を組成する。
二は三となり、四となる。ねずみ算的に家族は拡がっていく。
現代社会は、なぜか、家族という単位を認めたがらない。家族に対し否定的か、良くても無視を決め込んでいる。あたかも、家族という単位は、悪の根源のようだとでも言わんばかりの見方をしている者までいる。しかし。人間関係の原点は家族の絆である。
現代人は、誰の世話にもならないで生きていきたいと思い込んでいるように見える。他人の世話どころか、家族の世話にもなりたくないと頑迷に言い張る人が多い。しかし、それは傲慢なことだ。
お世話をさせていただく。そして、お世話になる。かつての日本人は、お世話様ですとお互いに声を掛け合い感謝したものである。
従前の経済は、家族を中心とした体制であった。ところが家族中心の体制を封建的として否定しているのが、現代経済である。注意しなければならないのは、家族を中心とした経済体制を資本主義も自由主義も否定していないという事である。家族中心主義を否定しているのは、社会思想であって経済思想とは無縁である。
家族というのは、一種の共同体であり、共同体の内的経済を前提としている。内的経済というのは、非貨幣的経済であり、家族主義を否定する事によってこの内的経済が危機に瀕している。それが、資本主義や自由主義にも決定的な働きを及ぼしているのである。
少子高齢化を問題とするが、少子高齢化は、子供を産んで育てるという事に価値を見出せる社会の仕組みでなくなったことに起因するといえる。
適齢期を迎えている男女は、経済的に結婚することは、独身でいるときに比べて、圧倒的に不利なのである。
男女が同じ所得を稼げるのならば、各々が経済的に自立していた方が実入りは良い。今結婚をすれば、所得は減少する上に、支出は増えるのである。それでは結婚しない方が良い。要するに結婚することによって生じる経済的メリットがないのである。この点を改善しないかぎり独身者を減らすことは困難である。
この事は、出産や育児においても同じである。出産や育児は、経済的な負担を増加させるだけなのである。それでは、保育園や幼稚園を増やせばいいのかと言うと、それは、物事の本質を見誤っているだけである。
なんでも、金や物で解決しようとする社会、風潮が悪いのである。
これは高齢者介護の問題も通じる問題である。介護保険や介護制度、介護設備を整えれば解決できるというものではない。ただ、社会の負担を増やすばかりで、しかも人々を不幸にするだけである。目的を間違っているのである。
本来、母親を護ることが社会の役目だった。母性の保護こそ集団を形成する主たる動機なのである。
どんな生物でも子孫を残す事を最終的な目的としている。その子孫を残す仕組みを疎かにすれば、その種はやがては衰退する。そのことを肝に銘ずるべきである。
男尊女卑的な社会や封建的な家族制度がいいと言っているのではない。
男と女を差別することではなく、男と女の違いを自覚して各々が自分の役割や能力を果たし、その上で、お互いが経済的に対等な関係を築ける体制が求められているである。
その為には、もう一度家族の在り方を見直す必要がある。
経済は、人と人の関係によって成り立っている。経済は、本来、共同体の問題であり、人の心の内側の問題である。
それを市場や貨幣という経済の外側の問題に総てを置き換え、刷れ変えていることが、現代経済を深刻な状態に追いやっているのである。
この様な社会の仕組みや文化が、少子高齢化を招いているのである。少子高齢化を是とするのならば、それも正しい。しかし、少子高齢化を問題とするのならば、家族制度を否定するような仕組みを奨励すべきではない。
家族は、人間関係の核であり、社会や経済を構成する最小単位である。
家族に対して、現代人は否定的であるが、家族というのが、人間関係の原点、始源であることは間違いない。何よりも重要なのは愛情の源泉だと言う事である。
なぜならば、家族は、人間の誕生と死に直接かかわっているからである。人間を家畜のように産み育てるか、工場生産のように生産するようにならない限り、夫婦、親子関係というのが人間関係の核であることに変わりはない。
また、人間を家畜のように産み育てる事も化学工場で生産するのも人間の尊厳に関わる問題であり、愛情を否定する行為である。それは又、神を冒涜する行為でもある。
故に、人間関係の核として、又、社会や経済の最小単位として前提する事に異論があるのは、むしろ、哲学的、宗教的な問題だと言わざるを得ないのである。
家族というのは、一つの共同体である。経済主体である。最小の経済単位の一つである。この様な家族の内部、家内は、非貨幣的場である。
家族は、人の集合、集団である。家族は、主として血縁関係によって結ばれて関係である。血縁によらない者でも、擬似的な血縁関係によって家族の関係、絆は、結ばれる。
確かに、家族主義、大家族主義にも弊害はある。しかし、その弊害を差し引いても家族という単位を否定しきれるものではない。
なぜならば、人間は、一組の男女があって生まれるものだからである。この関係を否定できるものではない。
仮に、この関係をも否定し、人間の誕生を単なる物質的な化学反応の一種だとするようになったら、それは人間が生命の存在を、頭から否定した事を意味する。
多くの現代人は、経済の本質を誤解をしている。経済の本質は生活にある。人々の生活をより豊かにし、幸せにすることにある。単に、利益を追求し、或いは、生産性を高めたる事にあるわけではない。人々の生活を豊かにするという事は、財を生産するだけでは実現しないことを忘れてはならない。財を必要とする人々に公正に分配されるなければ人々を豊かにすることはできないのである。生産性や利益を追求するだけでは、肝心の人々が忘れ去られてしまうのである。それでは何のための生産性か解らなくなる。人々を豊かにするためには、生産する手段だけでなく、分配する手段も重要なのである。
経済を貨幣的な空間の事象だと現代人は錯覚している。しかし、経済現象は、非貨幣的空間でも発生している。経済というのは、貨幣的空間だけに限定的に現れる事象ではない。ただ、貨幣経済体制では、経済事象を成立させるためには、貨幣的空間が不可欠だというだけなのである。だからといって貨幣が全てに優先されるわけではない。むしろ経済の基盤は非貨幣的空間にあると言っていい。
貨幣的空間は、部分であって、全体ではない。貨幣的空間を全体だと錯覚しているところに問題があるのである。
仕事の為に、家族があるわけではない。家族の為に仕事があるのである。
金の為だけに働くのではない。人の為に働く事もあり、物の為に働く事もある。かつては、神や国家、社会のために働いた者達もいたのである。況や、遊ぶために働いているわけではない。本来、世の為、人の為に働くのである。
人間は、生きる為に働いているのであり、働くために生きているわけではない。
金のために生きているわけではない。生きる為に、金が必要なのである。金のために家族を養っているわけではない。家族を養うために金が必要なのである。金のために国があるわけではない。国家を維持する為に金が必要なのである。
現代人は、仕事の為に家族を犠牲にしたり、遊ぶ金ほしさで家族を犠牲にしたりする。生き甲斐を家族の外ばかりに求めて、家族を顧みることすらなくなった。お金を儲ける仕事ばかりが尊くて、世の為、人の為に働く仕事を疎んじるようになった。今は、世の為、人の為という言葉は、死語になってしまった。
そして、仕事というのは、家の外へ出て「お金」儲けをすることと思い込んでしまった。
敷かし、仕事というのは、「お金」儲けをすることとは限らない。家族のために働く事だった立派な仕事なのである。
「お金」「お金」と言うが、「お金」は実体を持たないのである。
「お金」は、家族を養うために必要なのであって「お金」の為に家族を捨てたり、家族が崩壊したのでは、本末転倒である。
家族が否定的にとらえられる要因の一つに、性別問題がある。男は外に働きに行き、女は内を護るという住み分けが問題視されるのである。それが男女差別を生み出す原因だとされるのである。
しかし、その問題の根底には価値観や文化、社会の仕組みの問題と生物的な在り方の問題が潜んでいることを忘れてはならない。この二つの問題を混同してしまうと男女差別の本質が見えてこなくなる。
家族問題の根本に、出産と育児の問題があることを忘れてはならない。
そこには、男と女の本質的な差がある。その本質的な差まで否定してしまう者がいる。それは、事実から目を背けているのに過ぎない。問題は、その差が、社会的な差別に繋がり、制度的な規制を受けることなのである。男と女の差を優劣に結び付けるのは愚かなことである。だからといって男と女の差を認めないのは、むしろ、差別の裏返しに過ぎない。かえって差別を増長させるだけである。
問題なのは、家庭の外に働きに出ることばかりに意義を見出し、家事を疎かにする風潮である。特に、貨幣経済が浸透すると外に働きに出ることは、即ち、貨幣収入を得ることを意味するようになった。つまり、「お金」に絶対的価値を持たせることなのである。その為に、貨幣に換算されない物や行為に経済的価値が見出せなくなっているのである。それが問題なのである。貨幣経済が貨幣に依存し得なくなると貨幣収入を伴わない労働は、経済的に無価値な労働に思われるからである。しかし、本来、仕事は家庭の外にばかりあるわけではない。
まるで、家庭の外で働く事が正しくて家庭内で働く事は、罪悪であるかの思想に支配されている。
雇用の機会は失われるし、家庭内の働きは空疎となり、家庭は崩壊する。
また、経済的行為が外的な行為に置き換えられてしまう。それが最大の問題なのである。
経済というのは、共同体の外部にのみ成立するものではない。共同体の内部にある経済事象の裏返した経済事象が外的経済を形成するのである。
家内労働を総て外注化したら経済は成り立たなくなる。経済は、貨幣的な労働だけで成り立っているわけではないからである。消費労働の多くは非貨幣的労働であり、貨幣価値に換算されない労働である。
家族は一つの単位として計算されるから経済における貨幣価値は、足りているのである。これらの労働の総てを賃金化したら流動性が過剰となり、貨幣は、総ての需要を賄いきれなくなる。
市場は交換を前提として成り立っている。
物の価値は、使用価値であり、実質価値である。貨幣価値は、交換価値であり、名目価値である。
交換を必要としていない部分においては、貨幣価値は用をなさないのである。
「お金」を稼ぐことばかりが仕事なのではない。「お金」を稼ぐと言う事は、言うならば、獲物を捕ってくることと変わりはない。ただ、獲物には、実体がある。それに対し、「お金」には、物としての実体がない。交換する権利があるだけである。
物としての実体があれば、獲物を狩るという労働も、獲物を調理するという労働にも労働として同等であることは一目瞭然である。
それに対し、貨幣は、交換価値を表象しているのに過ぎない。
たとえ、貨幣に交換されようとされまいと労働の本質に変わりはない。獲物を狩るというのと、賃金労働をするというのは、労働の成果が直接的に確かな実体のある物によって実現するのと、貨幣という表象によって不確かに物に、一旦、還元されるかの違いにすぎないのである。
ただ、貨幣経済下では、獲物は、一旦、貨幣価値に換算され、貨幣に交換されることによって経済的価値が付与される。その為に、貨幣に換算されない労働は、社会的に認知されないというだけなのである。
本来は、獲物を捕ることが目的だった。だから、獲物を捕れれば問題がなかったのである。しかし、貨幣に依ってしか必要な物資が調達できないとなれば、話が違ってくる。獲物という実体よりも貨幣という表象の方が力を持つように変質するのである。それが、貨幣経済である。そして、その為に、非貨幣的労働である家事労働が軽視され、それに従事する物の立場も比例して弱くなったのである。
故に、女性は、家庭の外に出て働きたがるようになる。反面、家庭の内部か空疎となり、家族の崩壊が顕著となってきたのである。
家族制度が瓦解したから家族が崩壊したのではない。家族制度の崩壊は、家族関係が崩壊した結果に過ぎない。家族の絆は、単に、制度だけで保てるものではない。家族内部の動機、規範によって家族は保たれるのである。なぜならば、家族を支えているのは、内的関係だからである。
経済の実際は、価値観によって決まる。その中核は家族にある。つまり、家族に対する考え方が経済の在り方を規定しているのである。
家族の問題は、人口問題である。
人口問題の根源は、家族の問題である。
一方で人口爆発が問題となり、もう一方で人口の減少が問題となる。しかも、皮肉なことに、人口爆発が問題になるのは、貧しい地域であり、豊かな地域では、人口の減少が問題となる。
少子高齢化で問題とされるは、労働人口の減少である。労働人口とは、つまりは貨幣的労働、賃金労働であり、非貨幣的労働、つまり、家内労働は除外されるのである。それが現代社会である。家族で家族の面倒を見ることは、現代社会では不経済な事なのである。だから、育児の問題や両親の面倒は他人に任せて自分は、賃金労働をすべきだというのが現代社会の前提となる。その結果、必然的に家庭は崩壊する。解りきったことである。
少子高齢化対策というのは、家族の負担を軽減することに重点が置かれるのではなく。保育園や介護施設を充実する方に向けられる。その結果、公的負担が増大する。増大した公的負担は、賃金労働者から税金として調達する。結局、家計や企業の負担は増大する。つまり、蛸が自分の足を食べているのと同じ構図である。
育児は、人生の目的ではなく、究極の道楽のようになってしまった。専業主婦というのは、外に働きに出られない、意識の低い者の労働だと決め付けている。しかし、かつては、家計というのは、経済の中心にあった。賃金労働こそが補助的な労働だったのである。
今一番、豊かなのは、二十代の独身の男女である。一番、お金に困っているのは、三、四十代の働き盛りの妻帯者である。つまり、子育て世代である。だから、若年層は、結婚を忌避し、出産を嫌うのである。保育園が不足しているから、結婚をしないわけはない。
結婚をすると生活水準が極端に悪くなるから結婚をしないのである。
貨幣経済では、豊かさとは、自分が自由にできる「お金」がどれくらいあるかで決まる。所得の全てをお小遣いにできる世代と生活に必要な経費を差し引いた上に、お小遣いとして与えられた範囲でしか使える「お金」がない世代とでは、その差は歴然としている。
これでは家庭を持つ魅力がない。結婚生活や家族に対して負の印象しか持たせてこなかった世代が、少子高齢化によって苦しめられるのは、自業自得に過ぎない。
何が、人間とって幸せなのかを明らかにしようともせず。数字の上だけで経済の問題を明らかにしようとする、また、明らかにできると思う傲慢さが、問題なのである。経済の本質とは、生きる事であり、帳尻を合わせることにあるわけではない。幸せは、自分の問題であって、自分という主体的で唯一の存在を無視したところには、成り立ち得ないのである。
なぜ、親子の温もりを否定したところに幸せが成り立ちうると思えるのであろうか。幸せは数字では表せない。つまりは、金で明らかにできる代物ではない。兼橋合わせになることを助ける手段かもしれないが、幸せそのものではない。況や、愛する者を金のために犠牲にしてしまったら、本末転倒である。
家族はネットワークの要である。家族には、血の絆と言われるものがある。その血縁関係によるネットワークは否定しようがないという事である。当人が、望もうと、望まないとどこまでもついて廻る。それを厄介だと感じる者にとって家族の関係というのは否定するか、無視するかしかないのである。
そして、この血縁関係は、民族や文化、又、国家を構成する核となる。逆に言えば、ロミオとジュリエットの昔から民族紛争や家族紛争、相続争い、果ては戦争の根源には血縁関係があるともと言える。
男と女の関係は、愛と憎しみの関係と言われる由縁である。
家族を肯定的に捉えた上で、その弊害を取り除くようにすべきなのである。
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