経済数学

1 経済数学

1−6 量と方向


 一つ一つが集まって、数の塊となる。一つ一つの数に序列が決まると数は順序に従って並ばされる。点と点、即ち、数と数の順序が決まると言う事は、数の位置が定まることを意味する。位置が定まれば、距離が生じる。点と点を結べば、距離が定まる。距離は線分となり連続量となる。

 点と点は、結ばれて線となり、量となる。順番に数が、一直線上に並ぶと、線は、次元を作り出す。次元が形成されると方向が生まれる。更に、二つの線が交わると面ができる。面が交わるし立体となり三次元の空間が形成される。そして、これに時間軸が加わると現象が、認識上に現れる。

 数が集まり、数に順序が決まると、数列が形成される。
 数列は、次元を構成する。特に時系列的な数列は、事象を数学的に表現することを可能とする。
 点は、線となり、線は面を構成する。面は、立体へと発展する。点が線となり、面となり、立体につれて次元は増えていく。
 次元は空間を生み出し、場を形成する。

 変化は、時間の関数である。時間は、存在に関わる概念である。我々は、変化によって対象の存在を認識する。変化のない対象を認識することはできない。物質は、例え、静止していても存在することで変化している。存在に対するは、変化を前提として成り立っている。変化が見えない対象は、認識する側が自分の位置を移動させることによって変化を引き起こして認識する。自分か、対象、いずれにしても認識は変化を前提としている。故に、認識は、相対的なのである。

 変化を知る事によって変化する対象の背後にある動かざる事、不動、不変な真理を知る。それが知識である。

 変化は、時間の関数である。故に、変化の働きを知る上で重要なのは、時間の働きと価値である。

 近代になると人々は、流行を追い求めるようになった。近代人は、無意識に変化に価値を見出す様になったからである。物事は進化すると決め付けている。新しい物は、古い物よりも良いに決まっている。そう近代人は思い込んでいる。現代人にとって過去は、切り捨てるべき物なのである。
 しかし、近代以前の人間は、普遍的な物に価値を見出した。普遍的に物は、時間が陰に作用している物である。変わらない物にこそ価値を見出したのである。何時までも変わらない絆、思い、不変的な物を大切にしてきた。だから、一つの物を大事にしてきたのである。無闇に流行(はやり)を追うのは賤しいと考えられてきた。流行はい一時のことであり、不変的な時には、永遠が潜んでいると信じていた。
 肉体は老いさらばえていく物なのである。普遍的な愛にこそ価値がある。だからこそ刹那的な快楽を追わず、不変的な愛を追い求めたのである。少なくとも、一瞬の時と永遠の時の区別はしていた。今、一時の快楽と永遠に続く喜びとが区別できなくなった。人生は点となり、一つの流れではなくなったのである。罪と罰とは、時の流れとは無縁なものと思われるようになった。今がよければ、全て許されると信じている。だから、永遠の存在者、神など信じる必要を感じなくなりつつあるのである。
 しかし、時は容赦なく流れさる。若いときは瞬く間の内に過ぎ去っていくのである。故に、老いは罪となる。それでも、現代人は、愚かにも、昔の人間よりも自分達の優れていると思い上がっている。

 近代、経済的価値に、時間的価値が加えられた。それが自由主義経済の根幹をなす。故に、自由主義経済における経済的変化を理解するために重要なのは、時間的価値である。

 経済に携わる者は、数字が好きである。元来が、貨幣は、数値によって表現されている価値である。貨幣経済下では、数字が絶対的な威力を発揮する。
 しかし、数字や数式によって表現できるからと言って数学を理解しているとは限らない。数字を濫用することでかえって数学の本質を見失わせる結果になっている場合が多い。
 経済を理解するためには、時間的価値をいかに数式で現すかが重要なのである。ただ、数字として現れた結果を、自分の都合に合わせて加工したとしても、現象の背後にある真実を明らかにした事にはならないのである。

 経済ほど、資金の方向性が重要な分野はない。それでありながら、経済ほど、方向性に無関心な分野もない。経済に携わる人間が量ばかりを問題としているからである。つまり、経済の動きを明らかにするためには、量ばかりではなく。方向性も示す必要があるのである。
 
 古典的数学では、数学の対象は、静止した図形、固定した対象に限られていた。現代数学では、変動を表す数式が主になりつつある。
 変動とは、運動をも意味する。

 運動を解明する数学の手段の一つとして微分、積分は発達してきた。微分、積分の発達は、数学が静止した事象を対象とした学から変動や運動を対象とした学へ変化したいい証左である。

 又、運動を表す数として方向性を持った数が考案された。それがベクトルである。

 運動を表す数の要素は、時間と方向と働きの程度である。働きの程度には、強弱、速度、温度等がある。

 変化とは、位置の移動でもある。つまり、一定の時間が経過した後と前の位置の差が変化の度合いを表しているのである。問題は、位置の軌跡とその距離である。そこから変化の程度を明らかになるのである。それを知るためには、変化の量と方向と働きの程度が重要な要素となる。

 経済的量に方向性を与えたのは近代会計である。近代会計は、期間損益の上に成り立っている。会計において重要なのは、期間、即ち、時間の概念である。単位時間を基準にして固定性と流動性を測られるのは、会計において時間が決定的な働きをしているからである。

 最近、経済では、量ばかりを問題にし、資金の流れる方向を見ない。日本の財政問題も国債残高の量ばかりを問題にして、国債によって発生する資金の流れを見ようとしない。それでは、財政問題は解決しない。重要なのは、資金の流れる方向なのである。
う。

 資本主義経済の担い手の一つは、民間企業である。企業は資金と財を動かす器官としての役割を果たしている。企業が機能しなくなると資金は環流しなくなる。企業に資金を供給しているのが金融機関である。金融機関は、経済の大動脈だと言える。

 企業会計上において、総資産が拡大する方向に動けば、運用の側に資金は環流し、収縮する方向に動けば、資金は調達側に逆流する。この動きが経済に対して決定的な働きをもたらすのである。

 企業は、投資と返済を繰り返している。投資の流れと、返済の流れは必ずしも連動しているわけではなく。企業が置かれている環境によって変化する。

 投資は、市場の入り口にある。収益は、市場の出口にある。なぜならば、収益は、返済や配当、費用の原資として使われるからである。

 貨幣価値は、取引を経由して発生する。取引が成立すると同量の現金と債務と債権が生じる。現金は、一旦、運用先の手に渡り、それが収益を経て回収される。回収された資金は、資金の調達元に支払われる。即ち、返済に充てられる。資金は取引を通じて現金化され、経済主体の間を循環した後、回収される。
 資金は、収益によって回収される。収益の一部は費用として支払われ、市場に出回る。貨幣は、発行元に回収されることによって清算される。

 資金の使い道によって資金の流れる方向が変わるのである。

 将来の支出に備えて貯蓄するか、今、消費するか、将来の収入をあてにして借金をするか。貯蓄をすれば資金は、預かり手には負債、預け手には、投資として表れ、消費をすれば企業には、収益として表れ、借金をすれば、貸し手には投資、借り手では、負債として現れる。

 家を購入した場合を、考えてみればいい。家を買った時は、資金を銀行から借り、その後、収入によって定期的に資金を返済することになる。つまり、市場に資金が流れるのは、家の代金を支払った時だけで、後は、金融機関に資金は回収される流れだけが残るのである。
 投資が一巡した後は、資金は、回収の側に流れるのである。

 貨幣価値は、取引によって発生する価値である。取引によって貨幣が市場を循環することによって市場の内部に貨幣価値による圧力が生じる。その圧力によって経済価値は保たれるのである。貨幣が市場に循環しなくなれば、忽ち、圧力が減少し、経済は、活力を失

 収益によって回収が進んでも再投資に向かわなければ、資金は市場に環流しない。

 なぜ、今、経済が円滑に機能しないのか。それは企業が利益をあげられなくなってきているからである。

 競争が成り立つためには、前提がある。前提とは、適切な会計処理がされているかという点と経営主体が採算を度外視した販売をしないと言う点である。これらの前提が守られれば競争は、最大限の効率をもたらすはずである。しかし、この原則は往々にして破られる。大体、利益の客観的基準がないのだから、最初から公正な競争をしようがないのである。各々がルールを勝手に解釈しても許されるようなものである。

 無原則な競争は、企業収益を圧迫し、資金の流れを悪くする。血の巡りが悪くなるのである。

 競争ばかりを奨励する施策は、結果的に、企業収益を悪化させ、資金の流れを遮断している場合が多い。
 競争は規制によって成り立っている。経済の情勢によって規制の有り様は調整されるべきであり、規制は是か否かという議論は、それ自体が矛盾しているのである。状況によっては、規制は緩和されるべきであり、規制は強化されるべきなのである。又、同じ状況でも規制を緩和すべき業界と規制を強化すべき業界があるのである。規制を緩和することを絶対視すること自体、危険な思想なのである。

 収益が悪くなれば、再投資の道も閉ざされることになる。つまり、収益は、資金の通り道といえる。収益を悪くする要素は、資金の流れを阻害する要素でもある。いわば、市場のコレステロール (cholesterol) である。
 現代の経済は、いわば血栓ができて血液の通りが悪くなっているようなものである。血栓ができて資金の通り道がふさがり、その結果、金融市場や先物市場に貨幣がたまり、膨張し、最後に破裂するのである。いわば経済の脳梗塞のようなものである。
 実物市場への資金の流れが遮断され、金融市場に資金が退寮し、その資金が膨張して破裂したのが金融危機である。

 なぜ、公共投資として土木や建築がいいのかというと投資や消費を前提とした事業だからである。即ち、回収を目的としていない事業だと言う事である。建築や土木は、収益を目的としていない事業だと言う事である。

 経済的時間価値の基準は金利である。金利は、時間的価値の指標である。そして、金利は、時間的な価値を創出する。つまり、会計を基盤とした経済体制では、金利は経済的変化に決定的な働きをしている。

 今日、日本は、金利が限りなく零に近い状態に置かれている。それは、時間的価値が消失していることを意味する。つまり、経済基盤から変化の原動力が失われているのである。その点を考慮しないと現代の経済情勢は、説明が付かない。

 金利は、地価の変動や所得の変化、物価の動向、為替の動向に作用する。結果的に企業収益にも影響を及ぼす。金利の動向は、経済の動向を左右するのである。

 経済的価値を決める要素には、金利の他に利益や所得の上昇率等がある。
 利益や所得の上昇率は、複利で上昇することを忘れてはならない。時間的価値というのは、本来、単位期間対して作用するものであり、必然的に複利によって上昇するのが原則なのである。

 金利と利益の力関係によって資金の流れ方向は変わる。
 金利は、負債が費用に転じる過程で生じ、利益は、資産が収益に転じる過程で生じる。

 資金の流れには、投資(運用)の流れ、回収(調達)の流れ、会計(償却、借入、増資、金利、税務等)上の流れの三つの流れがある。そして、この流れを左右するようには、第一に、金利、第二に、収益、第三に税金がある。金利は、通貨の総量と通貨価値に依存している。収益は、物価と償却力に依存している。税は政策による。これらの要素が貨幣の流れる方向を決めるのである。

 経済的事象には、至るところに数列が現れる。その数列の在り方や構造、又、一つの事象を構成する数列の関係が、経済や経営に決定的な働きをしている。経済現象を解き明かすためには、数列の性格を解明することは不可欠な要件である。

 経済的価値は、複数の制約によって構成される。単一な要素によって決められるものではない。個々の部分の相互作用によって全体は形成されているのである。

 現代経済は、最終的には、資金の流れに収斂される。
 例えば、企業経営は、投資による資金の流れ、返済による資金の流れ、経営活動による資金の流れの均衡上において成り立っている。それがキャッシュフローである。資金繰りが破綻すれば企業は継続できなくなる。企業は、社会的な働きができなくなるのである。その点を理解しなければ、市場経済を理解することはできない。
 経営も、経済も連立方程式なのである。経営も経済も、必要とするものと供給するものと貨幣の量、そして、時間と距離の関数なのである。

 経済的価値で重要なのは、固定的な部分と変化する部分を見極めることである。そして、固定的な部分と変化する部分を位置付け、その上で固定的な部分と、変化する部分との関係と相互の働きを理解することである。それが会計の仕組みである。そして、会計は、数学の一つの分野でもある。

 実際に流れている資金の量と表面に計上されている貨幣価値の総量とは一致しているわけではない。
 貨幣価値が成立するためには、必ず反対取引が存在する。なぜならば取引とは、認識上の問題だからである。

 会計上の時間の流れには、償却の流れがある。償却の流れと資金の流れは必ずしも一致していない。

 数列の典型が減価償却費や借入金の返済計画である。減価償却費も借入金の返済計画は、有限数列である。

 減価償却の計算方法には、第一に年数法、第二に、比例法があり、年数法には、定額法と定率法がある。更に定率法には、逓減法と逓増法がある。逓減法は、定率法と級数法がある。逓増法は、償却基金法を言う。

 この様に、減価償却の手段は多様であり、その選択は恣意的である。

 定額法は、等差数列である。それ以外の計算方法、即ち、定率法や比例法は、等比数列である。

 減価償却は何に基づくかは、目的によって違ってくる。
 減価償却に関わるのは、利益、納税額、借入金の元本の返済額、更新資金、保守修繕費、保険料等である。
 減価償却費は、期間損益を計算する上での前提となる科目である。故に、減価償却費は期間損益を計算する目的や動機から設定されるべきものである。しかし、現実には、決算対策として利用されている場合が多い。つまり、利益を出すための方便に減価償却の計算方法が使われるのが実情である。
 それは期間損益の目的が見失われているからである。

 減価償却の計算方法というのは、期間損益を計算する上で根幹となる部分である。故に、減価償却の計算方法は、期間損益に対して決定的な働きをする。

 ところがその計算方法が実際にはご都合主義によって決められている。それが問題なのである。選択肢を与えることの是非の前に、その根拠が曖昧なのである。しかも、その様に重要な決定が無作為にされるといることが問題なのである。
 その結果に、期間損益の意義が失われつつある。利益を算出されることが優先され、損益の原因がおざなりにされているのである。その為に、外見だけ取り繕って問題は先送りされる傾向が強くなっている。

 問題は、利益を上げられない原因なのである。その原因が一時的現象に依拠しているのか、構造的な問題なのかで、処方箋も違ってくる。黒字か、赤字かが重要なのではない。問題は、病根なのである。殺すことではなく。生かすことを考えるべきなのである。

 減価償却の計算方法は、期間損益を計算する意義に関わる問題である。つまり、期間損益の本質を表している。故に、減価償却の実体は、現在の自由経済の実体を現しているとも言える。
 どの様な計算方法が妥当なのかではなく。なぜ、その計算方法を選択したかの動機が問題のである。

 減価償却は、期間損益と現金主義、即ち、資金の流れとを変換する操作に深く関わっている。減価償却の有り様一つで利益の額は大きく左右される。そして、それは資金の流れにも重大な影響を与えるのである。

 国家や企業が、継続を前提とするようになって、財政や会計は、無限数列となった。

 無限級数によって任意の関数を表すためには、その級数は収束する必要がある。(「数列と級数のはなし」鷹尾洋保著 日科技連)

 経営や財政は、経済では、どの水準に収束させるかが重要となる。その為には、経済を構成する数列の方程式が収束するかどうかが鍵を握っているのである。

 そうなると黄金比と言った比率やフィボナッチ数列と言った数列が重要になる。

 また、時間が一定の価値を附加し続けることを前提とするならば、調和数列が経済の在り方の鍵を握る。

 いずれにしても、経済現象で重要なのは、比率であり、分数数列である。




       

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