ゼロは始まりである。ゼロは、空集合である。ゼロは無である。ゼロは桁を作る。ゼロは分岐点である。ゼロは原点である。ゼロは均衡点である。ゼロは、等しさを表す。
読み書き算盤というように、数学は、本来、実用の学である。数学というと難解で解りにくい学問の一種に思われがちだが、現代人は、自覚しているか、否かは、別にしても実際は、日常会話と同じくらいに数字を使っている。
ところが、実用の学としての数学がとかく忘れられがちである。そして、入学試験で出されるよう高等数学ばかりが数学として脚光を浴びる。しかも、その数学は、受験勉強によって相当に歪められたしろものである。その結果、数学嫌いを大量に生み出すことになるのである。
実用の学としては、四則の演算で充分である。また、充分に四則の演算ができれば、数学を楽しむことができる。数学の本質というのは、従来、馬鹿にされてきた四則の演算にあると言っても過言ではない。
数字がなければ我々の生活は、どれ程、不便であるか、考えてみれば解る。大体、経済も成り立たないし、時間も解らない。
それに数学というのは、楽しいものである。その証拠に、巷間、広く行われるクイズやパズルるの類は、数字や計算が頻繁に使われている。
それなのに、数学がきらいだと思い込んでいる人は大勢いる。それは、数学を倦厭させてしまうような環境を教育や数学に携わる人間が作り上げてしまっているからである。
先ずキチンと四則の演算の意味を理解することである。そして、それが実際は難しいのである。
自分達が当たり前だと受け止めていることの根本にある本質を理解する、理解させることほど難しいことはないのである。
一歩間違えると馬鹿にされていると思われるし、馬鹿にされていると思い込んでしまう。しかし、一見、簡単に見える事象ほど、難解なものなのである。そして、本質的なのである。
割れきれるか、割り切れないかが重要な問題なのである。
経済は、実際の事物から切り離して考えることが難しい。それが、抽象を旨とする純粋数学との違いである。故に、経済的な数学というのは生々しい数字である。数字の背景に生々しい現実が隠されているからである。だから、割り切れるか、割り切れないかが本質的な問題である場合が多い。
例えば、分け前の問題である。公平に獲物や収穫物を分配する場合、問題になるのは割り切れるか、どうかである。それが現実の問題である。そして、割り切れなければどうするのか、それが経済における数学の問題なのである。その場合でも、割り切れない部分をどう処分するかの問題であり、数学の問題と言うよりも人間の生々しい欲求の問題だったのである。つまり、計算の問題と言うより、人間の本性の問題なのである。それは現代でも変わらない。同じカンジョウでも、勘定の問題はなく、感情の問題なのである。
数学というのは、共同生活を営むようになり、ものを分配したり、蓄えたりする必要性から生じたと考えられる。つまり、数の概念は、社会的活動が成立したことに付随して生じた。
経済に関わる数学というのは、現実の要請に基づいて形成されている。
例えば、保険や借金、税金、計画、調査、予算と言った事柄に対する必要性から生じたのである。
現代人は、数学を現実の問題と切り離して考える傾向があるが、実際の数学は、現実の生活と切り離せない関係にある。そして、当初、数学は、現実の問題を解決する目的で考えられてきたのである。その視点は現代社会でも重要である。
役に立たない数字というのは、古来、あまり重要視されてこなかったのである。現実の生活では、高度な数学の技術よりも数学を活用する目的が重要なのである。その点を見落とすと数学に対する認識にも偏向が生じてしまう。
高等数学が悪いというのではない。数学に対する偏りが生じる事が問題なのである。その偏りが数学の教育や研究にも歪みを生み出している。数学をもっと身近に捉えられる工夫が必要なのである。
商業数学という、どちらかというと算術、計算術である。算盤がその典型である。算数は、純粋に技術の問題だった。故に、和算は、学芸でしかなかったのである。
それ故に、商業数学は、原則的に加算主義、残高主義である。そして、商業主義は、当初は現金主義だったのである。
現金主義から遊離したのは、利益という抽象概念が確立された後のことである。つまり、利益は、期間損益主義に基づく概念だからである。
わり算の考え方には、小数、分数、余剰の三つがある。経済の考え方は基本的に余剰である。
ただ、時間や測量技術は、その性格上、高度な数学を必要とした。時間は天体の運行を測量技術は図形を基としていたからである。そして、いずれも、その根底は連続量である。そして、この連続量の中に割り切れない部分が生じたのである。
それは、数学が要請したのではなく。目的が要請したのである。数学はその目的と切り離して考えることのできない学問である。
時は金なりという諺(ことわざ)がある。
時は連続量であり、金は、分離量である。
数そのものは意識が創作した、抽象的な概念であり、必ずしも物理的な対象と結びついているとは限らない。この様な抽象的な概念である数(かず)で重要なのは、順番、即ち、位置である。ピュタゴラスの音階が良い例である。
数による計算が成り立つためには、数(かず)と数の指し示す位置とが結びついている必要がある。即ち、数を全体にどう位置付けるかの問題である。その為には、数を単位量との関係を確定する必要がある。それは、数と単位量との関係によって数を順序づける事である。数を単位量と結び付け位置付けられると数の演算が可能となるのである。それが数量である。
数に順序を付けると言う事は、数に大小、高低の差を付けることを意味し、それが数の位置を意味するのである。即ち、数の意味は比によって与えられる。
数に順序付けると言う事は、数の概念に掛け算の要素が内包されていることを意味する。
数と量との掛け算が経済数学上の乗数の基本である。例えば、単価×数量の解が売上、時間×速度の解が距離と言った事象である。
量の持つ性格によって数量の性格も決まる。数量には、長さや時間、質量などの種類がある。
加減は、同種の量をに対する演算であるが、乗除は新しい量を作り出す力がある。(「数学入門」(上・下)遠山 啓著 岩波新書)
量的変化は質的変化を伴う。
計算で重要になるのは、位取りである。位取りには、零の概念が重要な役割を果たす。
欧米において近代数学が確立された背景には、零の概念の確立がある。
数(かず)と数字は違う。数の計算だけならば、計算器があれば零はいらない。ただ数字による計算をするならば、零が必要になる。零という概念がアラビア数字の上に現れ。算盤という計算器が発達している日本では、零の概念は生まれなかった理由である。
零というのは、足しても引いても元の数に変化はない。どんな数に零を掛けても零になる。零を零以外のどんな数で割っても零である。どんな数でも零で割ることはできない。零は数である。(「数と図形が好きになる」釣 浩康著 PHP)
経済で重要となるのは、残高である。残高というのは余りである。故に、経済では、割り切れない部分を余りとして捉え、蓄えることができる物は、残高として処理した。そして、この残高主義は、所謂、純粋数学とは違った分野を形成してきたのである。
それは、物の収入と支出という考えに結びついていく。入りと出である。加算と減算が基本となる。そして、元があることが前提となるのである。元手、されに足して引いて余りは幾つである。これが、経済計算の基本である。
零は、始まりを意味し、終わりをも意味する。零に始まり、零に終わる。 零は、無一物、存在そのものを意味するものでもある。
零と一は、物事の始点を意味する。ただし、零を始点とするか、一を始点とするかによって物事に対する認識に違いがでる。零は、絶対的な認識を前提とし、一は相対的な認識を前提とする。
良い例が、建物の地上階を一階とするか、地上階、即ち、零階にするのかの違いである。これは認識の違いと言うより思想的、文化的な違いが隠されている。
認識は、相対的な行為である。絶対的認識というのは、前提としてある。なぜならば、認識は識別という過程を経ることで意識されるからである。絶対的認識は意識されない、故に直観的な行為である。故に、零という概念を確立し、普遍化するのに、人類は相当の時間を掛けた。つまり、零には、絶対という意味が隠されているのである。その為に、零は、宗教的、或いは、神秘的な意味を持たされたりもする。
人間は、物事の始まりを一つの全体として捉える傾向がある。その場合は、始点は一である。しかし、全体を識別するために分割し、最初の部分を一とした場合、全体の一と部分の一とを区分する必要が生じる。これは数であれば位取りに繋がる。そこで零の概念が必要となるのである。
つまり、零には、原初、始源という意味があり、最初の一と区分されるのである。
そして、零は点とも区分される。点は実在する広がりという意味であり、零は、空や無という意味があるからである。
零は、始点という意味の他に、原点という意味がある。また、零には、無や空という意味もある。零には、中心という意味もある。零には、均衡点という意味もある。
原点というのは、位置における起点という意味である。即ち、零は起点という意味がある。起点というのは広がりの根源という意味がある。即ち、次元を作る点という意味である。原点を起点として二次元や三次元が成立する。
零の概念が確立されると負という概念が成立する。零を中心として負が成立し、負が成立することで正が成立する。その正と負の中心に零がある。正と負は次元でもある。つのり、零は、正と負を分かつところ、即ち、零には境、境界という意味が生じる。
無から有は生じない。零の向こうに何があるのか。つまり、零は生と死の境という意味がある。故に、零は、宗教的、文化的な意味があるのである。
地上階を一階とするか、零階とするか、それは地上を一とするか、それとも零とするかの違いである。それは地上の下に何を想定するかの違いなのである。
全ての時間の始まりを零とするのならば、時間の始まりの以前に何があったのか。何が存在とするのか。それは思想であり、哲学である。科学の立ち入れない世界なのである。
又、零は、差引、零の意味でもある。即ち、零というのは、均衡しているという意味でもある。均衡しているというのは、ある一定の状態に安定しているという意味である。均衡と言う事は、対称という意味がある。
つまり、零には、等しいところと言う意味がある。
温度で言う零度には、絶対零度という意味と相対的零度の二つがある。いずれも零の意味を表している。
ゼロから一、一からゼロに至る過程に数の重大な秘密が隠されている。そして、それは無限と極限に至る過程でもあるのである。
時間にも、空間にも、組織にも、一からゼロに至る過程がある。
人生にも、ゼロから一に至る過程がある。何を起点とするのか、例えば、歳を数えで数えるのか、満として数えるのか。生まれた時は、一歳なのか。ゼロ際なのか。ゼロという歳があるのか。地上は一階なのか、ゼロ階なのか。一とゼロとの間に空間はあるのか。そこに一つの次元が隠されている。そして、それが極限なのである。
ゼロは、場所の概念を数学に持ち込んだのである。場所の概念が数学に組み込まれると空(から)の概念が確立される。空は無ではない。一を始まりとするか、ゼロを始まりとするか。ゼロは、数と量との分岐点である。
零や無限は、宗教的、哲学的、思想的概念である。特に、零は、宗教的、思想的、哲学的な意味での境界線を確定する概念である。
物事の始源、生と死、時の始まりと終わり、その先に何があるのか。零は、虚無との境なのか、それとも、違う世界、次元との境界線なのか。それは、宗教的、哲学的、思想的な領域の問題なのである。
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