一期一会。
時は、一瞬一瞬の連続。
一分60秒。一時間、60分。一日は、24時間。一週間は、7日。一月は、30日。一年は、12ヶ月。
時間は、60進法であり、十二進法でもある。
一日、一月、時は、宇宙、天文と関わりがある。
天体と関わることで、時は数学を生み出した。数学の根源には暦がある。そして、暦は、日常生活と非日常的現象とを結び付ける。そこに数学の本質が隠されている。数学は、生活に深く結びついていると同時に神秘的な世界への扉でもある。
時間は、宇宙と関わると同時に人生にも深く関わっている。
行く河の流れは絶えずして止まることを知らない。時は無情である。
若い時は、瞬く間の内に過ぎ去り、老い衰えていく。
時は、目に見えない変化である。
時間は、変化の単位である。
時間は、空間において実在である。
季節の移ろいは、時の流れを我々に感じさせる。人の一生は、人生の時を刻む。想い出は過去の記憶の中で息づいている。幼い時の想い出は、遙か遠い時の在処を確信させる。老いは残酷である。残された時間のみを思い知らせる。目の前を過ぎていく瞬間、時を確かに実感させられる。熱中すると、時を忘れる。しかし、確かに時はあったのである。孔子は、河の流れをみて時の流れの無常を認識したのである。
変化は、時間の関数である。時間は、運動の源である。
時間は目に見えないと思い込んでいる人が多い。しかし、それは、目に見えないのではなく、気がつかないのである。要するに、時間とは変化なのである。目に見える変化こそ時間なのである。我々の住む世界に、変化がない世界はない。仮に変化がないとしても、それを認識する事はできない。例えば静止している物を認識したとしたら、対象は静止していたとしても自分が変化しているのである。つまり、変化は、自己と対象との関係から生じる認識上の問題なのである。そして、変化こそが時間なのである。だから、時間は空間において実在しているのである。それが時空間である。
経済とは、時間との勝負であり、時間というのは、速度だけではなく、いつの時点で取引を認識し、決済するのかの問題でもある。
時間とは、不可逆的現象である。
小説や映画の上では、タイムマシーンとか、時間を止めるとかの話がよくでてくる。しかし、それは、やはり物語り上のことである。現実は、実現不可能である。それは、時間と空間は一体だからである。仮に時間を遡ることができたとしても、行った場所は異空間である。
不可逆的変化に順序が加わると時間が成立する。
時間とは、変化の単位である。
現代経済の事象は、総ては、時間が関係している。
現代人は、変化に生活の基盤を置いている。それでありながら、今の状況が永遠に続く事を前提にして生きている。そこに現代人の危うさがある。
土地が高騰している時は、更なる土地の高騰を前提して、土地を買いあさり、株が高騰している時は、株の取引に狂奔する。それが一度反転し、下落し始めると周章狼狽して、将来に悲観的になる。時流に逆らって将来を見通すことは、極めて困難である。
現代の経済は、変化に基礎を置いている。基礎とする変化も定型的変化ではなく、不定型な変化である。
不定型な変化は、不確実な要素が多く、変化の先を読み通すことができない。予測がつかない変化を基とする判断は、当然、投機的、博打的な判断にならざるをえない。その為に、堅実で、計画的な経済運営が困難になるのである。
変化をどう捉えるかが、現代では運命の分かれ目なのである。そして、変化は、時間の関数として表現される。
音楽は、時間の芸術だと言われる。旋律、調子、和音の構成を見ると時間の構造が見えてくる。時間には、旋律があり、調子があり、和音がある。仕事には、旋律があり、調子があり、和音がある。人生には、旋律があり、和音がある。仕事も人生も時間の関数である。
現在の時間の単位は、60進法と12進法である。
この様な時間の単位は、天体運行と物理的現象から求められる。時間に対する考え方は、天体との関わりから求める思想と物理的現象から求める思想とに分かれる。
時間は、周期と速度に関わる。そして、これらの運動は、回転運動に収斂される。
経済現象には、周期的な現象がある。経済の周期的な現象の根本は、生活による周期である。例えば、食欲と言った生理的周期である。この生理的周期が生活のや経済の調子となる。
時間の単位を定義することで、回転や周期の計算が可能となる。
時間の経過を考える時、変化は、回転と比率に分解できる。
企業の成長は、総資産回転率と利益率の積である。
経済の効率は時間によって測られ、効率の良し、悪しは、回転と速度によって定まる。
時間は一様である。
時間では、前後、順序が決定的な働きをする。後悔先に立たずである。
時間は論理的である。
時間には、前後、順序がある。
数は、論理の原形であり、数に順序をつけるのは、論理の始源である。時間には、前後、順番があり故に、時間の関数である変化は論理的である。人間は産まれて、成長し、老いて、死ぬのである。
時間には、主観的な時間と客観的な時間がある。
主観的な時間とは、自分の内にある時間であり、客観的時間とは、自分の外にある時間である。つまり、主観的時間とは、自分の内なる変化の単位であり、客観的時間とは、自分の外の変化の単位である。
主観的時間とは、外の変化に囚われなない予定に反映される。客観的時間は、自分の変化に関わらずに外の変化を予測する基となる。
それを統合する事によって計画が成立する。計画を貨幣的価値に換算したものが世村である。故に、計画経済と一口に言うが、予定を重視するか、予測を重視するかによってまったく異質なものになる。
変化を外形的要因で捉えるべきなのか、内生的要因に求めるのかによって、採るべき施策も違ってくる。
つまり、経済現象を確立統計的な現象と見るか、関数的な現象と捉えるかの違いである。確立統計的な現象としてみれば、外部からの働きかけが主となり、関数的な現象と見れば、内部の働きを重視することとなる。
人生、自分の思い通りにはならないという。この思い通りにはならないという考えには二つの意味が隠されている。一つの意味は、自分の想いである。もう一つの意味は、実際の事象である。つまり、自分の思いと現実の事象である。自分の思っている事象に関わるのが主体的時間であり、現実に生起した事象に関わるのが客観的時間である。計画とは、この二つが複合されることによって成立する。即ち、主観的事象と客観的事象の相互作用によって計画は、実現する。
その結果、計画と言っても、主観的な事象を基盤とした計画と客観的な事象を基盤とした計画の二つに分かれる。
予算とは、計画を貨幣的に表現した物である。予算主義といっても、主観的事象に重きを置いた予算主義と客観的事象に重きを置いた予算主義とでは根本が違う。
前者は、先決主義で管理・統制を重んじ、後者は、結果主義で監視・監督を重んじる。
変化は、時間の関数である。変化を基とする経済現象は、時間の関数である。
時間の関数は、計画に反映される。
確実な事象を基礎としすべきなのか、不確実な事象を基礎とすべきなのか。何を確実とし、何を不確実とするのか。
計画を帰納的なものとして捉えるか、演繹的なものとして捉えるかで計画の様相はまったく違ったものになる。
計画経済は、結果を重視するか、働きや作業、操作などを重視するかによって有り様が違ってくる。予測を基礎とした計画か。統制を基礎とした計画か。故に、計画経済と言っても必ずしも統制経済を指すわけではない。
物事には、順序、順番がある。それを形式化したのが作法、礼儀である。故に、礼儀作法は論理的な行為である。
礼儀作法は、作業、操作の手順を様式化、形式化した一連の動作である。礼儀作法は数学的である。
人間は、様式に美を見出す。それは、様式は図形的なものであり、様式が直観に訴えるからである。
食事を作ってから食べるのであり、食べてから作るわけではない。
決めてからやるのか。やってから決めるのか。意思決定は手順、段取りが重要となる。
料理の仕方を例にとると、先ず、その日の献立を決め。材料を揃え。下拵えをする。料理を作って、器に盛りつける。
変化、即ち、時間の関数を考える上で重要となるのは、前提条件と操作手順、順序である。
最初の設定条件、前提が最後まで決定的な働きをする。
麻雀や将棋のようなゲームを考えてみよう。麻雀や将棋には手順がある。麻雀や将棋のようなゲームは、手順の争いだと言える。どの手が先が、後かを争うのである。
仕事は、単位作業の順序集合である。単位作業には、順番がある。故に、仕事は論理的である。
組織は、人の集合と権限の集合からなる。権限は、対極に責任を派生させる。組織は、指示、命令で動く。
指示命令とは、操作の集合である。操作には、順番がある。順番は、優先順位から導き出される。故に、操作は、論理的である。組織も論理的である。
指示命令を成り立たせているのは、権限である。権限の根源は、規則である。規則の本質は権力である。つまり、組織を動かす力は、権力であり、それを具現化したのが規則である。規則は体系である。故に、組織は、規則の集合によって成り立っている。
単位作業には、順番がある。組織権限には、序列、優先順位がある。仕事とは、単位作業と組織とを、順番に組み合わせ全体である。つまり、単位作業と人と時間との関数である。
単位作業は、単位動作の順序集合である。単位動作には順番がある。単位動作には、始点と終点がある。並行作業がある場合は、分岐点と結合点がある。
会計の過程は、時間の関数である。会計は、手続によって成り立っている。会計手続きとは、会計操作、演算を形式化した順番である。
会計は、先ず、取引の認識、仕訳、記帳、転記、集計、試算、精算、期間損益の計算、決算というように流れる。この手続に沿わないと期間損益は割り出せない。会計概念は、数学的な概念である。
これらの手続を成り立たせているのは、規則である。規則とは関係を維持する力である。
数学は、形式である。大切なのは、手順、アルゴリズムである。つまり、順序、順番である。
文字は、順番があって単語となり、単語は順番があって文節となる。文節は、順番があって文章となる。文章は、文字の集合である。文節は文字の集合である。単語は、文字の集合である。文字に順番がなければ、文字は意味のない記号に過ぎない。
数学は、数値情報ではない。数値情報は、数学の資源である。数学というのは、数値を操って数値として現れる現象の背後にある、何等かの働きを探り当てることにある。
故に、予測が重要になる。
時間の経過に基づく現象を分析するのに、時系列分析がある。
時系列分析の手段には、季節変動分析、回帰分析、現在価値分析、偏微分などがある。
時系列の変化を考える場合、時間の変化に順な働きと逆の働き、平衡した働きがある。
最近の傾向として、短期的な業績だけ見て、投資や融資の判断をし資金を動かそうとする傾向がある。それが景気の変動を大きく揺るがし、不安定なものにしている。
資金は、絶え間なく循環していることで効用を発揮する媒体に過ぎない。常に、企業が資金を蓄えているわけではないのである。又、資金にも長期的な資金と短期的な資金があり、長期か、短期かで資金の動きや働きにも違いが出るのである。重要なのは、流動性である。
経済的価値に時間軸が加わったことで、経済の在り方が劇的に変わったのである。それが近代経済の幕開けとなった。
現代経済は、変化を前提としている。変化とは動きである。動きによって個の位置を絶えず調整することによって現代経済は、成立している。変化がなくなれば、社会全体が硬直化し、環境や状況の変化に対応できなくなる。そして、現代の市場経済は、市場の拡大、成長、発展、上昇を前提としている。なぜならば、費用が下方硬直的だからである。
現代の日本はゼロ金利時代が長く続いている。ゼロ金利時代が長く続くと、時間価値が作用しなくなる。金利はゼロでも、生活にかかる経費は、上昇する。人件費も上昇する。それは、家計や企業利益を圧迫し、景気の頭を抑える。財政赤字における一番の問題は、国債の残高が蓄積されは、金利を硬直的にすることにある。
期間損益は、長期資金の働きと短期資金の働きを単位期間で明確に区分した。
経済は拡大均衡と縮小均衡を繰り返す。拡大均衡だけを前提とすれば財政が破綻するのは必然的な帰結である。
拡大均衡と縮小均衡は、一定の波動となる。波動には、短期の周期の波動と中期、長期の波動がある。
経済変動、即ち、インフレーションやデフレーションは、時間価値の変動によって引き起こされる。時間価値を構成する要素は、金利、所得、物価、地価等がある。時間価値の働き、長期、短期によって差がある。また、社会全体に一様に働く作用と社会を構成する要素に個別に働く作用がある。
例えば金利は、社会全般に一様にかかる。それに対して、所得は、個人所得に及ぼす影響以外に、雇用等及ぼす影響がある。また、物価は、財によって時間価値の変動に差が生じる。
時間価値がどの様な作用を社会や個々の要素に及ぼすかを考慮して経済政策は立てられる必要がある。
重要なのは、長期資金と短期資金の比率と均衡を保つことである。長期資金で鍵を握るのは、量と方向であり、短期資金で鍵を握るのは、資金が流れる部分と資金の流れる速度、即ち回転数である。
為替問題を見ても資本収支は、長期資金であり、経常収支は短期資金である。一般に為替の変動の要因を経常収支に求めがちだが、実際には、長期資金の流れである資本収支の作用が、経常収支を制約しているとも言える。
長期資金は、通貨の流量の水準を決め。短期資金は、消費の水準、即ち、所得や物価の水準を決める。
長期的資金は、固定的部分であり、位置、水準が重要となる。それに対して、短期的資金は、変動的部分、流動的部分を形成する。
家計で言えば、住宅ローンの返済は、長期的資金を意味する。それに対して、可処分所得とは、長期的資金を除いた短期的資金、即ち、流動的資金の持ち分を意味する。
経済が破綻したとき、企業収益の悪化、消費の低迷、所得の減少、資産価値の下落、株式相場の暴落、デフレーション、貸し渋りなどが同時に起こっているように思われる。しかし、実際は、これらの現象には順番があり、どの様な順序で起こったかが、原因を特定する上で重要となる。
経済を考察する上で重要なのは、時間的価値である。
資源は有限な存在である。経済的価値が無限と関わるのは、時間的な価値が加わるからである。
価値とは差である。時間価値とは、時間差によって生じる価値である。時間差とは、過去、現在、将来の時点間の差を意味する。時間的価値の差とは、過去価値、現在価値、将来価値の差である。
経済的価値に於いては、認識が重要な意味を持つ。なぜならば、認識した時点に依って経済行為が確定するからである。例えば収益の認識する時点には、成約、出荷、納品、検収等がある。
株価の時価評価にしても、いつの時点を基準とするかが重要な意味を持つ。つまり、時間差の認識差が価値を決めるのである。
時間価値で重要なのは、過去、現在、未来の価値の変化である。即ち、過去の価値、現在価値、将来価値を明らかにすることが一つの目標となる。結果的に予測によって未来は左右される傾向がある。
現在価値と将来価値との関係が資金の流れる方向を決める。又、過去価値と現代価値の関係が資金の調達量を決める。
世間の大勢が現在価値より将来価値の方が上がると考えるようになると資金は、運用の側に流れる。下がると思えば回収の側に資金は流れる。
時間的価値には、金利、配当、物価上昇率、所得の上昇率、地価の上昇率などがある。
時間価値の代表的なものに金利がある。金利には変動金利と固定金利がある。そして、短期金利と長期金利がある。又、金利の種類には、複利と単利がある。
価値とは、位置である。位置とは差である。故に、価値は、差によって生み出される。時間価値とは、時間によって作り出される差である。この様な時間価値の水準を決める指標は、金利である。
金利と利益の違い。利益は、一定の時間価値を形成しない。なぜならば利益は、分け前だからであり、予定される確実な値ではないからである。つまり、利益は、結果であって名目的価値に対して一定の債務を構成しているわけではないからである。
キリスト教やイスラム教、ユダヤ教では、金利は、時間によって貨幣が価値を生むとされ不当な行為だとされてきた。しかし、利益を出すことは許されてきた。
故に、元々、投資は、配当が目的だったのである。近代化されるに従ってキリスト教社会において金利を取ることが解除される。金利が課せられることによって時間に経済的な価値が生じるようになる。
金融機関の収益は、金利によって構成されることを忘れてはならない。
配当が金利を上回れば投資に資金は向かうし、配当が金利を下回れば返済に資金は向かう。
期間損益や借金の技術は、収入や支出、費用の平準化を目的として編み出された技術だとも言える。
そして、この平準化の技術にこそ近代化を推進させた鍵が隠されていると言ってもいい。それ故に、経済は、時間の科学だとも言える。
生活を苦しくさせる景気は何かというと、経済の急激な変動である。その意味では、経済現象で問題となるのは、位置より変動である。位置というのは、固定的な部分、運動というのは変動的な部分と言い換えることもできる。そして、変動で問題となるのは、変動の幅であり、変動の性格であり、変動の原因である。変動の性格とは、一時的な変動か、慢性的な変動か、周期的な変動なのかを意味する。
高いなら、高いなりに安定された方が、将来に対する見通しも計画も立てやすい。収入も博打の一時収入に頼っていたら生活は成り立たなくなる。社会全体で言えば、為替の変動や原油価格の高騰、ハイパーインフレのように、経済基盤が大きく揺らぐような変動が一番困るのである。
何よりも先の見通しが立たないことが、生活にとっては打撃が大きい。
ところが、現代経済は、変化を経済の原動力としている。それが経済状況を絶えず不安定にする要因なのである。つまり、現代経済を動かす要因は不安なのである。
現代社会は、変化を前提としている。しかし、現代以前の社会は、この様に変化を前提とする社会ではなかった。変化よりも不変な事を重視していたのである。
真理は、不変なところにあった。しかし、現代は、変化こそ全ての原動力であるように考えるようになった。その典型が進化論である。つまり、新しい物に善を求めるのである。
しかし、基本的に新旧・老若・男女と是非・善悪、正邪の別は無縁である。次元が違うのである。
人は変わるのである。世の中も変わるのである。それが、よく変わるか、悪く変わるかは、人や世の中が時間とどう関わってきたかによって決まる。よくするも悪くするも自分次第である。
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