論理には、言葉と文字が深くかかわっている。その意味で、言葉遣いがしっかりしていないと論理の組み立てもしっかりしない。
最近、言葉が乱れてきたと言われている。それと同時に、日常的な論理の組み立てもおかしくなってきている。日常的な論理の組み立ては、人々の生活や生き様、人間関係に直結している。最近、人と話をするのが鬱陶しいという人間が増えている。それは、言葉の使い方、翻って言えば、論理組み立てが苦手だと言う事が原因の一つだと私には、思われる。
言葉の問題は、重大である。言葉の使い方で論理的であるか、否かが解る。
それは、漫画世代と漫画世代以前の世代で顕著に出ている。漫画世代の特徴というのは、言葉を切って投げるようになるということである。つまり、前提を明らかにしない。言葉だけで打ち合わせを表現しようとすると、その情景描写や前提を明らかにしなければならない。しかし、漫画では、情景や前提は、画面に与えられている。だから、何の説明もせずにいきなり、本論や内容にはいる事ができる。また、足りない部分は、画面が補ってくれる。だから、舌足らずになったり、条件や前提を整理する必要がない。そして、言葉をちぎっては投げ、ちぎっては投げできる。つまり、言葉は道具に過ぎなくなる。行間どころか文脈もいらない。
それと漫画ばかり見ていると表現に擬音が多くなる。バババとか、状況を表現するのではなく、直接的に相手の感性に訴えようとするようになる。当たり前に論理性が軽視される事になる。
また、漫画は会話を奪う。漫画を見る時間、漫画を読む時間は会話が途絶える。会話が途絶えると話がこなれなくなる。
漫画的な表現になれてしまうと、人生が漫画になってしまう。それは、言葉は、自分の意思を伝達するための重要な手段だからである。また、自分の考えをまとめそれを行動に移すばあい、論理的な過程を経なければならないからである。いきおい、漫画的な表現で志向すれば、漫画的な生き方になるのである。
漫画では、背景そのものが雄弁だから、言葉は従になってしまう。だから無責任にもなる。相手に言葉で、自分の意志を伝えるための忍耐力がなくなる。絵の方が直接的はずなのに、なぜか、漫画の中の言葉の方がえげつなくなる。不思議な事である。
また、文章構成が無視されるから、話の構成がなくなる。最近、結婚式などのスピーチから前口上と言った後口上といった形式、口上が失われてきた。思ったことをすぐに短い文節で相手に投げかける。その結果物事を深く考えることがなくなる。そして、言葉からえられる情緒、情感、情操が失われ、即物的な発想に支配される。
漫画が悪いというのではない。むしろ、絵画的論理展開はこれから必要とされる。その場合、漫画的手法は、重要な手法の一つである。だからこそ、作り手は、漫画の持つ功罪をしっかり自覚しておく必要がある。
確かに、これからの時代は、言葉だけに頼らない論理が必要とされるようになるであろう。映像による論理。音楽は、音による論理である。仕事は、作業を論理的に組み立てた者である。この様に、論理は言葉の世界から大きく飛躍しようとしている。それでも、言葉の持つ重要性が失われるわけではない。
論理の基本は、言語構造である。言葉に依らない論理にしても言葉の持つ構造は重視しなければならない。
マスコミにいつも腹が立つのは、彼等は、世の中をなめすぎていることである。若者は、今も昔も、マスコミが考えるほど無知でもなく。マスコミが考えるほどだらしないわけでもない。正しい情報を与えられていないだけです。その正しい情報を伝えるのに、確かに、映像は有効であるが、映像だけに頼るわけにはいかない。書き言葉、話し言葉も有力な手段である。その書き言葉、話し言葉を自分達で乱している。
言葉には、文字と言葉の二面性がある。この二面性は、記憶と時間に大きくかかわっている。消えゆく言葉と記録される文字、この両方の作用が大切なのである。消えていく言葉を交わすことは、記録される文に重要な影響を与える。最近、会話が少なくなったことで、文字も言葉も両方こなれなくなってしまった。
日本人は、言葉の定義や意味を正確に理解しようとせずに、言葉の持つ印象から判断し、決め付けてしまう傾向がある。
日本人は、論理をあたかも学校の試験問題のようなものだと思いこんでいるみたいだ。つまり、論理とは、最初から問題が与えられていて、ただ一筋の展開か、予め決められている筋道で唯一つの正解を導き出す事しか許されていない。問題も、答えも、最初から自明なものとして与えられている。又は、一対一の対応によってだけ正解にたどり着ける。それを論理だと・・・。これでは、ただ道筋を極めること以外学ぶ事はない。何の創造性も、創作性もない。発見も、変化もない。こんなつまらないものはない。だから、論理ほど退屈な勉強はない。
しかし、論理の面白さは、推理、推論にある。謎解きにある。創造や創作にある。証明にある。自分で問題を探し出し、誰も導き出せなかった解答える醍醐味にある。そして、それを証明した時の快感にある。だからこそ学問、論理は面白い。人のひいた道を辿るだけでは、論理の面白さは理解できない。
なぜ、ミステリーや推理小説が人を惹き付けるのか。それは、ミステリーや推理小説の合理性、論理性に魅力があるからである。不合理なミステリーや推理小説ほどつまらないものはない。つまり、ミステリーや推理小説の面白さは、論理にある。論理が面白いのである。限られた前提や条件から犯人を読者がそれぞれ割り出していくそれが、ワクワクするほど面白い。それが本来の論理の面白さである。
なのに、学校で学ぶ論理はつまらない。それは、最初から犯人を明らかにされた推理小説のようなものだからである。筋道だけしか問題にされないからである。最初から答えがわかっていて、前提条件や問題も与えられていたら面白くも何ともない。現場に落ちていたものの中に、何か事件を解き明かすヒントはないのか、前提は何だ。さて問題は何処にあるのか。そこに面白さがある。論理の面白さは、問題を探り当てることにある。
論理というのは、設問、立論から始まるものです。そして、それを一定のルール、手続き、手順の基に展開をし、自分なりの答えを導きだす。設問も、答えも所与のものではありません。所与のものとしたら、その答えは、絶対的なものであり、神の摂理、真理と同義語になってしまいます。 まあ、今の日本の教育者はそう錯覚しているかもしれませんが。そうなると、教師と言うより、僧侶、牧師ですけどね。 とにかく、論理というのは、あくまでも手段、道具に過ぎません。その姿勢が、英米の会計学や法律学、そして、科学の基本思想です。だから相対主義なのです。 それに対し、日本の会計士や法律家、教育者は、絶対主義です。それも無神論的絶対主義者だから、怖いもの知らずである。
とにかく、論理では、問題の設定とその前提条件こそ重要なのです。問題の提起、立論、仮定、定義、定理が論理において、最も重要なのである。学問の根本は、問題の設定学です。それが問題意識です。そこに、公理主義や仮説主義、合理主義の根本がある。その上で前提条件が重要となる。最初の命題を所与のものとするのか、自明な命題とするのか、任意の命題にするのかは、重大な前提条件である。神を信じるか、信じないかは、重要な前提条件である。それによって、定義も、その後の論理の展開も変わってくる。
議論をする時は、特に、反論をする時は、お互いが前提としている事を一つ一つ確認をした上で、慎重に進める必要がありまる。唯でさえ、感情的になりやすいのであるから。
前提の確認とは、先ずお互いがどの様な価値観、考え方にたつのかの確認である。次に、自分は、どの様な立場、態度、姿勢、行動で望むのかである。つまり、どの様な意志でいるのかであり。更に、どの様な状況なのかを確認することである。
例えば、タバコを例にとれば、自分は、タバコを吸うことをどう考えているのか。相手はどうか。次に、自分は、喫煙に対してどの様な姿勢態度で自分は臨むのか。最後に、自分の置かれている状況と相手の置かれている状況はどうなのか。
ちなみに、私は、タバコは吸わない。私の友人は、大変な喫煙家です。唯、私は、今の段階で友人に禁煙を強要しようとは思わない。それに対し友人の妻は、友人に、禁煙を強要している。状況的に言うと友人の立場はかなり厳しいものがある。それでも、友人は、禁煙をしようとはしない。最近、喫煙は、非合法な場所が増えてきている。非合法なエリアでタバコを吸った場合、私は、友人に注意をする。合法的な場所では、現段階では注意はしない。警告や注意をすることはあるかもしれない。問題は、友人の健康と、タバコが周囲のものに与える害ですが、今のところ私には確証がないので、自分が嫌でない限り注意をしようとは思いません。だから、私は、友人とはタバコの件で議論はしない。それが今の僕の結論である。これが麻薬だったらどうか。その辺は微妙である。唯、問題は、いずれにしても自分が何を善としているかを明らかにすることである。自分の立場考え方を明らかにしない限り、議論は成り立たない。
日本人は、自分の立場も相手の立場も曖昧なままに議論をする傾向がある。挙げ句の果てに、感情むき出しの喧嘩である。先ず、論理を尽くすには、その前提を確認する必要がある。