プロローグ


 日本刀は、武士の魂だとされる。
 武器である日本刀を日本人はなぜ、武士の魂とするのか。

 刀は、持ち手によって妖刀にも活人剣にもなる。
 持ち手によって日本刀は、働きを変えるのである。故に、日本人は、日本刀を武士の魂とするのである。その根源は、武士道にある。
 日本刀は、本来、自分の身を守り、名誉を守るものです。
 刀は、道具手段に過ぎない。魂を持たせるのは、持ち手である。

 刀は使い方によっては、凶器となる。日本刀の本質は武器なのである。
 刃物は、包丁だって殺人の手段となる。
 その刃物を研ぎすまし、鍛えぬき、磨いて武器とし。それを常に携行する時、持ち手であり、武士は 常に、自制心を求められる。鍛え抜かれた日本刀だからこそ武士の魂を磨くのである。名刀であればあるほど、持ち手の人格が問われるのである。自らの精神を高めなければ、刀は、持ち手自身を傷つけてしまう。だからこそ日本刀は、武士の魂とされるのである。
 刀を脇において命がけで天下国家を論じる。それが武士である。
 武士は、自らの志を遂げようとする時、腹を切る覚悟をするのである。それが大和魂である。

 武士の死生を決するのが日本刀である。持ち手である侍、武士(もののふ)の生き様、魂に左右され、また、決するのが日本刀である。

 国家は、国の主権、独立を守る手段である。
 国家に魂を吹き込むのは、主権者である。
 主権者が邪悪な欲望に囚われると国家は凶器と化す。

 国家とは、暴力装置である。国家を統御するのは、主権者の意志である。国民国家においては、国民の志である。

  国家とは、仕組み装置である。国民は、この事実を厳正に受け止めなければならない。国家は、いわば刀のような存在である。使い手一つで正義の刃にも成り、凶器にもなる。正義の刃とするか、凶器とするかを決めるのは、その国の主権者である。
 だから、あえて私は、国家は暴力装置だと定義する。

 暴力とは、他者に自分の意志を強要しようとする力である。強要しようとする手段に武器が伴えば武力となる。武装した暴力が武力である。

 意志は、主体的なものであり、人、各々違う。人々の意志が主観的なもので違うとすれば、自分の意志を強要しようとしたとき、諍いが生じる。それを調停する力がなければ、人と人との関係を維持することはできない。人と人との諍いを調停することも何等かの意志を強要することになる。故に、調停しようとする力も暴力に変わりはない。
 意志が、各々違うことを前提とすれば、それを統制しようとする時、何等かの仕組みが必要となる。その仕組み、装置が国家なのである。
 自分の意志を強要すれば、暴力となる。故に、国家とは、主権者に、唯一、容認された暴力装置なのである。
 法治国家においては、この様な暴力装置は、法の下に統御される。

 国家は、装置・道具である。国家は、主権者の志で利器にも、凶器にもなる。自動車が時に凶器になるように、国家も凶器となることがある。しかし、自動車を凶器とするのは、人、即ち、運転手である。同じように国家を凶器とするのは主権者である。

 国家の役割の根源は、国家、国民の財産と生命を外敵からの侵略や犯罪から護ることにある。即ち、国家の起源は、国防と治安にある。その為に、法と国家権力が必要とされるのである。法と権力によって国家の独立と主権は維持される。

 暴力は、本来、国家と関わりのないところにも存在する。無法な状態で暴力を放置すれば、国民の生命と財産を保障することはできない。国家が、国民の生命財産を護るためには、他の暴力を制圧する必要が生じる。それが権力である。
 権力のあるところに法と正義がある。それが冷厳たる事実である。その為に正義を実現したい者は権力を掌握する必要がある。そして、国家権力を抑制する事ができるのは、法と正義なのである。

 国家は、常に、自分以外の勢力、つまり、自国以外の勢力の暴力に曝(さら)されている。国家は、その暴力から自国を守り、自国の内部の規律・秩序を維持しなければ存続できない。国家は、他国からの侵略や攻撃から身を護り、自国の内部の秩序を維持する為に、唯一、暴力を行使することを公に認められた機関・組織である。

 国家の本質は、権力である。権力とは、無条件に人民を従える力である。即ち、暴力である。言い換えると、国家とは、権力装置である。権力がなければ、国家は制御できない。要は、権力の有り様であり、権力を制御する仕組みの有り様である。

 石油にせよ、電力にせよ、原子力せよ、水力にせよ、風力にせよ活力の源は、無形であり、危険物である。石油や電気、原子力、水力、風力は、使い方次第で人間に多大な恩恵を施す。しかし、扱い方を間違えは、甚大な被害を及ぼすのである。石油、電気、原子力、水力、風力を制御するためには、何等かの装置、仕組みが必要となる。器があってはじめてエネルギーを活用することができるのである。権力も同様である。国家という装置があって始めて制御する事ができる様になる。

 国家に、理想や夢を見出すのは人間である。国家、仕組みであり、機関であり、手段であり、道具である。
 国家に幻想を抱くべきではない。国家は、人間次第で凶器にもなる。しかし、国家を凶器と化すのは人間であって国家の仕組みではない。
 それは、車を凶器とするのは運転手であって車自体ではないようにである。仮に、車が暴走したとしても車を作ったのは人間である。そのことを忘れてはならない。責められるべきは人間であり、国家ではない。
 故に、国家は、制御されなければならない。国家の運動を制御するのは、国家の仕組みである。しかし、国家をいくら制御すると言っても仕組みには限界がある。最後には、国家を運営するのは人間の意志である。
 それ故に、政治家や官僚と言った時に権力者には、高い理想と志が求められるのである。そして、その根本にあるのは国家観である。どの様な国にするのかに対する考えである。
 国家に理想や夢を持たせるのは国民である。

 組織とは、肉体である。確かに、強健な肉体に凶暴な魂が宿ることもある。だからといって体を鍛えることは、凶悪だとするのは、愚の骨頂である。凶悪なのは魂であって肉体ではない。
 組織に魂を吹き込むのは、主権者である。主権者の有り様によって組織の性格は決まる。主権者の有り様を決めるのが、思想哲学であり、国家観である。
 特に重要なのは、主権者が組織の内に存在するか、外に存在するかである。それは、組織の独立性に関わる問題である。

 暴力は、公式に認められれば権力となる。暴力が、公式に認められる為には、手続きが必要である。故に、国家が成立するためには、手続きが必要となる。権力の正当性は、国家を成立させる手続きによってオーソライズされる。権力は、オーソライズされないと正当化されない。権力は、正当化されなければ、ただの暴力であり、国家は、暴力団と変わりない。過去においては、国家の正当性は、正統性や血統の継承、詔(みことのり)、神授、宣言によってなされていたが、現代では、国際承認、他国の承認がこれに取って代わるようになってきた。
 国民国家は、暴力を法や制度で抑制する体制である。則ち、暴力を法や制度によって抑制する仕組みが国民国家なのである。

 今は、君主制のような世襲的権力は、悪だという認識が一般である。しかし、つい最近まで、逆であった。君主制の方が当たり前だったのである。民主主義など危険な思想に過ぎなかった。自由や平等というのは、過激な思想であり、危険なものだったのである。
 市場で言えば、カルテルや独占は、いまでこそ悪い事だとされている。しかし、以前は、同業者の寄り合いがあり、そこの取り決めに違反する者は、商売ができなくなった。
 また、さも男女も同権が当たり前である様に言われるが、つい最近まで、男尊女卑の方が一般的だった。教育も然りである。
 今は、自由であり、平等だと言われている。男女平等に反する行為は、非難されるし、談合やカルテルを結べば、違法行為として処罰される。しかし、これらは、あくまでも思想なのである。もし、封建主義者や男尊女卑主義者からすれば、弾圧だと言う事になる。
 自由主義といっても、結局、国家の強権に維持されている。国家思想に反する行為は弾圧を受けるのである。しかも、それらの行為は、正義だと言われ、当然の真理だという大前提の基に行われる。自分達の意見に対する攻撃に対しては、言論の弾圧だと言い。自分達に敵対する勢力に対しては、反民主主義だとして弾圧をする。それでは、真の言論の自由は実現しない。最近の言葉狩りがその典型である。差別用語だとして、言葉そのものを抹殺することは、むしろ、文明に対する挑戦でもある。
 思想は、思想として扱われるべきなのである。あたかも、それが自然の法則、原理のようにみなされ、それに反する者は罰せられるのが当たり前なのだという受け止め方は危険である。我々が常識と考え、当然のこととして受け止めている事柄の多くは、思想的なものである。そして、国家は、思想に基づいて何等かの強制力を有する機関だと認識すべきなのである。

 民主主義国、社会主義国、共和国の国歌の歌詞の多くは、攻撃的で暴力主義的なものが多い。なぜならば、民主主義国、社会主義国、共和国の多くは、革命や独立戦争を経て建国されたものが多いからである。つまり、民主主義国や社会主義国、、共和国のほとんどが暴力革命か独立戦争を起源としているのである。しかも、その建国の起源は、国旗に象徴される。つまり、民主主義国、社会主義国、共和国の国歌、国旗の根底には、革命や独立戦争が隠されている。

 国家の起源は、暴力である。クーデターにせよ、革命にせよ、独立戦争にせよ、暴力に変わりはない。国家は、暴力によって建設される。建国の起源は、暴力である。故に、国家は、建国の当初、法や制度と言った国家の礎(いしずえ)が固まるまでは、暴力が支配する。
 体制が変わろうとする過渡期には、社会は、争乱状態となる。争乱状態が長引けば、他国の侵略の危機にさらされる。収拾のつかない争乱状態は、強国に侵略の口実を与える。国家が秩序を取り戻し、平穏を回復するのは、権力が確立され、新たな政権によって国が支配された時である。それまで、国家は、無法、無秩序な状態におかれる。国家が最も暴力的になるのは、建国の時である。また逆に、国家は、滅びようとする時にも、最も、暴力的になる。つまり、国家は生まれる時と、滅びようとする時にもっとも凶暴になるのである。

 近代日本も戦乱の中から誕生した。そして、西南戦争が終わるまでの軍事力は、国家の統一、制圧のために用いられたのである。つまり、軍の本質は、侵略ではなく。統制、治安にあったのである。それが、国家権力である。

 国家は、国民の生殺与奪の権を握るのである。握っているのである。それが国家なのである。その証拠に、拳銃と言った武器の所持・携帯は、我が国では、基本的に国家だけに許されている。かつて武器の携行は、武士、特権階級だけに許されていた。現在でもアメリカでは、武器の所持は国民の権利である。それは、権力に対するアメリカ国民の意志でもある。
 国民が、生きるも、死ぬも国家と政治の在り方によって決まる。国家は、国民の生殺与奪の権を持っているのである。国家以外がこれを持てば、それは暴力である。為政者は、そのことをよく心しなければならない。

 国家は、危険物である。使い方を誤れば凶器となる。それは、人間の作り出した文明の利器の多くが危険物であるようにである。自動車も一つ間違えば凶器となる。原子力や石油も危険物なのである。危険物だと自覚する上で活用するから、人間は制御することが可能なのである。石油もガスも電気もそれを安全に活用するには、装置、仕組みが肝心である。安全装置が有効の作用しなければ忽ち暴走する。安全装置が付いていても事故は往々にして起こる。国もまた然りである。国を安全に制御するには、制度がしっかりしている必要があるのである。

 国家は、権力者を守るように機能する。権力者とは、主権者である。主権者が国民ならば国家は、国民を守るように機能する。主権者が軍隊ならば、国家は、軍隊を守るように働く。主権者が、独裁者や君主ならば、国家は、君主や独裁者の僕(しもべ)のような機関である。国家の忠誠は、主権者に対する忠誠を意味する。

 少数派でも権力を奪取し、掌握、維持することはできる。この事をよく理解しておく必要がある。国家は、暴力装置である。道具である。包丁や自動車は、利器にも凶器にもなりうる。同様に、国家は、利器にも凶器にもなりうる。国家そのものが、利器となるか、狂気となるかを決める事はない。またできない。それを決めるのは、主権者である。だからこそ、誰が主権を握っているかが、重要な、決定的な要素なのである。
 自由主義、民主主義陣営は、混乱期、無政府的状況を乗り切る術を身につける必要がある。日頃、民主化、民主化と言いながら、自国の都合で全体主義や独裁主義を支援し続けることはできない。結局、民主化運動が表面化したときに立ち往生してしまう。
 反面、混乱期、無政府主義的状況に陥ったら、一時的に統制的体制、集権的体制を自律的に容認できる柔軟さが要求されるのである。
 混乱期に統制や規律を失うのは、弱さに通じるのである。混乱期に求められるのは、結束、団結である。混乱した状態で、統率力を失えば、全てを失う。それは、歴史によって証明されているのである。

 国家は、共同体である。つまり、共通の利害を持った集団である。共通の利害を持った集団である以上、規律が必要となる。共通の利害と言っても、一人一人の要求は違う。つまり、一方において共通の利害を持ちながら、一方において違う利害を持つ人間が集まって形成された集団であるから、お互いの利害を均衡させるためには、力が必要なのである。その力が権力である。この権力を誰によって、どの様にして、どの様な権利によって権力者は与えられるのか。それが重要なのである。それによって国家の体制は決まる。

 国家の正当性は、力によって保障されている。国家は、国家の存続を危うくする存在(暴力)に対し、常に、圧倒的な力、暴力、武力を保持し続けなければならない。さもないと、自己の主権(独立)や治安を保つことはできない。
 故に、国家を成立させる根源的機能は、軍と警察に象徴される。国家の原初的な機能は、軍と警察である。この点を忘れては、国家の本質を理解することはできない。
 国家は、公に許されて唯一の暴力装置である。故に、国家は、自らが自らの力を制御しなければならない。国家が望めば、国民生活も、国民の財産も生命も自由にできる。国家には、圧倒的な力があるのである。待たなければ国家は存続できない。自分より強い暴力を持っている者に従えられるか、滅ぼされてしまう。故に、国家は、圧倒的な力を保持し、かつ、行使することによって成り立っている。国家の本質が暴力であるから国家機構の多くは、この暴力を制御する事に割かれている。国民の戦いは、この国家の圧倒的な力に対する抵抗運動だったのである。しかし、それは、国家の力を弱める事とイコールではでなかった。力で権力を簒奪した者は、権力を強化することはあっても弱めたりはしない。だからこそ逆に、国家権力を強化することにも繋がったのである。

 国家は、魔法のランプの魔人のような存在である。国民国家であるから、魔人は、国民の財産生命を守るために、犯罪者や敵国から国民を守るのである。しかし、独裁国や君主国では、国民を守る義務はない。独裁国や君主国で国民の生命財産を守るのは、独裁者や君主の慈悲に過ぎない。義務でないのである。もし、独裁国や君主国で国内に不穏な動きがあれば国家は、情け容赦なく、国民を弾圧するであろう。それは、国家の主人が君主であり、独裁者だからである。魔人を敵の手に渡した、アラジンは、魔人によって窮地に立たされる。国家とは、そう言う機関である。

 革命であろうと、独立戦争であろうと、クーデターであろうと、反乱であろうと、侵略戦争であろうと、権力は、より強い暴力によって倒される。それが権力の宿命である。市民革命も、独立戦争も権力の簒奪(さんだつ)であることには変わりないのである。体制派も、最初は反体制派なのである。いかに大義名分があろうと、権力の交替は、血生臭い抗争の末に実現される。所詮は、権力闘争なのである。叛逆なのである。力によって奪った権力は、力によって奪い返される。だから、権力者、ここでは国民も含む、より強い暴力の出現を阻止しようとするのである。 

 国家の本質が暴力である以上、その暴力をいかに制御するのか、それが国家にとった最大の課題となる。

 少数勢力でも力を結集した勢力が勝ち残る。最終的には多数を制することだけが絶対ではない。その点で民主主義勢力というのは、まとまりが悪く。独裁体制の台頭を許す場合が多い。
 社会の変革における混乱状態では、混乱を収束させた勢力が権力を握る。
 民主主義勢力は、政治的混乱が生じたら、速やかに、指導者を選び出し、選ばれた指導者の下で結束できる体制を築く必要がある。

 実際の所、民主主義というのは、人間不信から端を発している。人間という不完全な者に、無条件で権力を渡すほど危険なことはない。それ故に、二重三重に権力構造にたいし制御装置を仕掛ける。それが民主主義の考え方である。つまりは、人間を信じないで制度機構を信じる。それが民主主義の本質である。

 国家が力をなくせば、自律性は失われる。つまり、自分の力で、外敵から自分を守れなくなり、また、自分の内部の規律を保てなくなるからである。それ故に、権力を弱め、権力構造そのものを破壊するのは危険な行為である。それは、権力を簒奪する者が意図することである。故に、現状を是とする者は、権力構造を強化しようとする。しかし、それも均衡を失えば、権力構造そのものを破壊してしまう。権力は、危うい均衡の上になり立っている自律的機関であることを忘れるべきではない。

 残念ながら、国際社会において、武力による解決は、排除されていない。結局、国家間の紛争が外交交渉によって解決されない場合、武力によって解決される。つまり、平和は、国家間の力の均衡によって保たれている。武力というのは、聞こえは良いが、要するに暴力である。国家間の紛争が武力によって解決するのではなくなるためには、一国家のもつ武力を凌駕する武力を持つ何らかの国際勢力が存在しなければならない。それは、結局、国家に変わる暴力装置に過ぎない。しかも、今日、核兵器というオールマイティの切り札がある。それは、狭い部屋の中で、爆弾を持って対峙するような、恐怖による均衡、平和であることを忘れてはならない。つまり、それを行使する恐怖と放棄する恐怖の均衡なのである。その緊張が崩れた時、人類は、危機的な状況になる。国家間の平和は、極めて脆い力の均衡の上に成り立っているのである。その均衡が崩れた時、国家間の紛争は、武力によって解決されるのである。

 自分で自分を護ることも、律することもできなくなれば、他国の支配下にはいるしかなくなる。つまり、他国に隷属するのである。それが、植民地であり、属国である。植民地や属国は、自国の安全と秩序を護ってくれる代わりに、相手国の利益のために働かざるを得ない。場合によっては、国家としての尊厳、人間としての尊厳を犠牲にしても相手国の要求に従わざるを得ない。植民地や属国には、元々主権が認められていないのである。主権のあたえられてない国の国民に基本的人権は、はじめから与えられていない。あるのは、隷属である。人間として当然認められるべき家族の絆も無視される。植民地や属国は、ただ服従のみが要求されるのである。いわゆる家畜と同じである。植民地や属国の平和や自由は、家畜の平和であり、自由に過ぎない。

 「強国というのは実に勝手なもので、自分に都合のいい時は国際公法を振り回したり、立派なことを言うけれども、都合が悪くなるとそう言うことは全て無視し、兵力を使って弱小国を侵略する。だから国家は強くなければいけない」とビスマルクは大久保に言ったと言われる。この現実は、今でも少しも変わらない。(「指導力の差」渡部昇一著 ワック株式会社)

 国家の平和(独立)と秩序は、力によって保たれている。それが現実であり、真実である。そこから目をそらせば現実の問題を解決できない。

 国家は、自国の力、権力の及ぶ範囲で国家に敵対する勢力と自国の権益を守るために戦い続けなければならない。その権力の及び境界線が国境である。故に、国境線は、常に、国家間の鬩(せめ)ぎ合いの場であり、紛争が絶えない。

 国家間の紛争を調停できる絶対的な権力は、未だに世界にはない。故に、国家間の紛争は、国力の均衡によって保たれている。国力の均衡が崩れれば、国家間の紛争は、武力で決着がつけられる。世界を支配する正義は、未だに実現していないのである。国際社会における正義は、力そのもの、ないし、力によって裏付けられているものなのである。

 国際法は、任意な法である。約束であって、義務ではない。国際法を守らせる絶対的な拘束力はないのである。つまり、国際法は、国際機関の加盟国に批准されない限り、効力を発揮しない。しかも、それは加盟国間、批准国間において効力を発揮するのであり、限定的なものに過ぎない。要するに法的効力からすれば、国内法に準ずる効力しかないのである。つまり、主権は国家にあるのであり、国際機関にあるわけではない。

 大義は、常に、自国にある。敗者は、勝者に公正さを求めてはいけない。敗者が、勝者に求めるのは、公正さではなく。勝者の慈悲、憐憫である。故に、力による裏付けのない正義は、正義として成り立たない。
 皮肉なことに、国際平和は、暴力によって保たれている。

 他国への侵略や専制政治を是とするものではない。しかし、国家は、その制御能力を喪失すれば暴走するのである。一度暴走をはじめて国家を制御するのは容易ではないことは、歴史が証明している。車が時として凶器に変じるように国家もまた、凶器にとなる。国民国家において国家を制御するのは、国民の理性である。国家は、肉体であり、魂ではない。国家に魂を吹き込むのは、国民である。

 権力の源が暴力ならば、権力そのものを否定してしまえばいいと主張する者もでる。それが無政府主義である。しかし、無政府主義は、主義として成り立っても、現実には、成り立たない。公式の暴力はなくなっても、非公式の暴力はなくならないからである。一人でも、無法者がいれば、法を守らせるための力がない限り、法は成り立たない。それが道理である。つまり、国家という暴力装置がなくなる変わりに、無法者、暴力団という装置が、働くだけである。

 無政府というのは、状態を指して言う。主義としての無政府は、観念として成り立っても現実には成り立たない。なぜならば、絶対的な暴力がなければ、相対的な暴力がこれに取って代わるからである。無政府状態というのは、乱世である。国家権力がなければ、暴力を握った者が、他を支配する状態になるからである。無政府状態というのは、一人でも、暴力を正当化する者が現れた瞬間、暴力が正当化される状況である。秩序を護る者がいなければ、秩序は護られない。無政府というのは、正統性のない暴力集団が乱立している状態を指す。故に、無政府状態というのは、何処の権力も及ばない空白地帯において一時的に派生する混乱状態であり、そこに、暴力が存在しない事を意味するのではない。少なくとも楽園ではない。

 病気は、医者の責任ではない。火事が起こるのは、消防士がいるからではない。警察がなくなれば犯罪がなくなるわけではない。同様に、戦争の責任を軍に求めるのは間違いである。戦争の原因は、政治と外交の破綻にある。基本的に政治の問題である。軍に責任をかぶせるのは政治家の言い逃れである。

 不思議なのは、国家をデザインした人間が必ずどこかにいるはずなのに、それがなかなか表に出てこない。なぜ、この様な制度をこの様な仕組みにしたのか。それが大切であり、思想であるはずなのに。なぜか、人は、それを問題にしようとしない。

 国家は力なり。




 なぜ、警官は、拳銃を携行するのか。
 先日、十九歳の新人警官が些細な事で上官に発砲して殺してしまった。
 朝、二人の警官が私の前を歩いていた。腰に拳銃を吊り下げ、警棒と手錠をベルトに着用していた。
 警官が日本で拳銃を使うというのは本当に稀である。日本で武器を合法的に携行できるのは、警官と自衛官である。
 ただ、日常的に拳銃を携行しているのを目にするのは警官に対してだけである。

 警官が拳銃を使用すると必ずニュースになる。それほど警官は拳銃を使わない。それでもなぜ警官は、拳銃を携行するのか。拳銃というのは国家権力の象徴だからである。
 なぜか、日本人は、この点を認めようとしない。拳銃は基本的に使わない。しかし絶対に拳銃を使用しないという訳ではない。暴漢や凶悪犯罪者から自分や国民を守らなければならないと判断した時には、躊躇なく拳銃を使用しなければならない。
 しかし、拳銃を持つ者が稚拙というのでは話にならないのである。
 それが国家の本質なのである。





        


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