国民国家において非武装中立と言うほどの欺瞞はない。なぜならば、国民国家の存在意義は、国家の独立と国民の主権を守ることだからである。非武装中立という事は、自らの存在理由を否定してしまうことになる。さらに、非武装中立を暴力革命を是としている者が言うと返す言葉がない。彼等は、何の目的で彼等は、非武装中立を言うのであろうか。
日本人は、法の在り方の原則である公平、公正、中立の意味を履き違えている。特に、マスコミにその傾向が強い。即ち、公平、公正、中立になれると決め付けている、思い込んでいる事である。
非武装中立というとすぐに多くの識者がスイスの永世中立を出す。スイスの永世中立は、似て非なるものである。非武装中立と永世中立は対極にある思想である。一緒にしてはならない。スイスは、中立を守るために、武装しているのである。そして、スイスは、自国の独立と安全を保つために、あらゆる努力をしている。安全と空気は、只だと信じている国民とは違うのである。
近代法、近代民主主義の公平・公正・中立というのはないという事が大前提である。だから公平、公正、中立にありたい、なろうとするのである。民主主義は、人間不信の思想である。人治を信じない。それを人道主義だと履き違えている日本人が多くいる。人道主義と民主主義は違う。人道主義は、理念であるが、民主主義は現実である。何をもって人道主義かを法や制度を以て明らかにしないかぎり、人道主義と民主主義は同じ事件で語ることはできない。
公平、公正、中立になれるのは、神のみである。人間は、神にはなれない。神は、自己を超越した存在である。自己は超越者にはなれない。超越者たる神は、善悪を超えた存在である。しかし、人間は、善悪の価値観を超越できない。善悪を超越してしまえば、人間は、人間社会に適合できなくなるからである。全知全能の神になれない人間は、主観から逃れなれない。客観的にはなれないのである。だから、公正、公平、中立にはなれない。これらの根拠は、客観性にあるからである。ただ、だから、公正や公平、中立を蔑ろにして良いというのではない。むしろ、公平や公正、中立ではないからこそ、公正や公平、中立を追い求めるのである。
完全ではないから完全を求めるのであり、その過程で民主主義は生まれたのである。
あるというのと、ありたいというのは、根本的に違う。客観的になれないから、人は、公平、公正、中立を保つために、法や制度に依存するのである。しかし、その法や制度も人が作るものである以上、主観性から逃れられないのである。それ故に、法の根拠を普遍的真理ではなく、契約に求めるのである。それが、現代法の大前提である。また、神と人との契約によって成り立つキリスト教的世界観によって裏打ちされているのである。
戦争の動機を知らずに平和を叫んでも、平和が実現するわけではない。確かに、戦争は、悲惨である。しかし、誰も望まない悲惨な戦争が起こるのはなぜか。それは、戦争以上に悲惨な状況が隠されているからである。
かつて国家は、自国の食料の生産量以上の国民を養う事ができなかった。そして、その本質は、現代でも失われていない。現代でも失われていないのに、世界には、資源や産物に偏りがある。一方において飢えが存在し、他方において、食べ飽きた人達が居る。飢餓に苦しむ者と、肥満に苦しむ者が共存している。しかも、資源は、有限である。まだ、地球には、余力が残されている。しかし、その余力が失われば、また、資源の争奪が始まるのである。その時、国家はいかなる行動を起こすか。戦のない世界は、望ましいが、しかし、幻想である。戦のない世界を実現したければ、世界の有り様を直視しなければならない。
国家は、共同体である。そして、近代は、その共同体の在り方が大きく振れた時代である。新しい在り方として民主主義が台頭した時代でもある。そして、今や、民主主義は世界を席巻しようとしている。
東洋では、なぜか、西洋的民主主義が根付かない。では、東洋は、野蛮で、後進的なのか。ならば、なぜ、日本をはじめ東洋の国々は、高度な文明と社会を維持し続けてこれたのか。それは、東洋には、東洋の共同体の在り方が存在したからである。
西洋的共同体は、契約によって繋がっている。つまり、西洋的共同体は、都市である。構成員は、市民である。市民は、思想、心情的によって繋がっている。論理的なつながりである。つまり、契約である。
東洋的共同体は、縁によって繋がっている。つまり、東洋的共同体は一家である。構成員は疑似家族である。家は、縁によって繋がっている
縁には、地縁、血縁がある。この様な縁によるネットワークの他に、擬似家族的な絆に基づく共同体がつくられた。この様な共同体は、新しいものではなく。古くからあるものである。例えば、三国志における梨園の誓いや水滸伝のようなものである。そして、水滸伝における梁山泊は、一つの共同体となり、ある種の治外法権を形成した。むろん小説の上だが、それでも、理念として存在したのである。また、三国志における、劉備、関羽、張飛のつながりは、現実の親子、兄弟の絆よりも強かった。彼等が形成した共同体は、後の蜀という国家の母胎となる。
東洋的な共同体においては、任侠精神が重視される。東洋的共同体では、朋輩は、義兄弟の契りを、また、指導者と構成員は、親分、子分の契りを結ぶ。これらは、杯を交わすことによって儀式化されている。この様にして形成されるのが仮想家族、一家である。
一家のつながりは、論理を超えたところに関係を見出す。それは、契約ではなく、誓約である。この様な人間関係の中で、時として義理と人情の板挟みになる。しかし、それでも、義兄弟や親分・子分というのは、世俗的な関係異常に強い力を発揮する。
そして、それが侠気を生み、任侠道を育てたのである。任侠道というと今は、やくざな世界にしか残っていない。故に、任侠道というとやくざなものと多くの人が思うが、それは違う。やくざの世界にも任侠どうがあったのである。それは、忠誠心というのとも違う、共同体に対する強い絆である。義侠心であり、同胞愛である。
只、東洋的な共同体が、民主的な共同体へと昇華しきれていないのである。そこに、東洋に民主主義が根付かない理由の一つがある。
契約と縁との違いは、論理と文字の介在である。西洋的な論理や言葉による契約的関係が共同体を支配するに従って、人間的な絆というのが失われてきたのではないだろうか。反対に、東洋では、人間的な絆(きずな)を重視すしぎて論理的な関係が築けなかったのではないだろうか。
現在、西洋的な共同体の限界が指摘されている。西洋的な共同体が機関化してきている。そして、それが、国家の機関化にも繋がっている。
それは、人と人との絆であり、人間としての名誉であり、志である。
西洋的国家の起源とは、違う形で東洋的国民国家の起源を考えるべき時が来たのではないだろうか。
かつて日本人は、自分達が何を護らなければならないのかを明確に知っていた。だからこそ、終戦の時に国体に護持に固執したのだ。しかし、敗戦は、日本人の生き方から志を奪ってしまった。多くの若者が、経済や社会で成功を収めている。しかし、その反面において、多くの不祥事も起きている。その根本をみると志のなさ、低さである。志と言ってところで現世利益であり、金儲けに過ぎない。また、有名になる事。刹那的で即物的快楽主義、利己主義に過ぎない。志と言うよりもむき出しの我欲である。また、指導的立場あるべき人間達の節操のない無責任な言動は、目に余る。豊田佐吉、松下幸之助、出光佐三、本多宗一郎といった経済人達の志には、足元にも及ばない。彼等は、常に国の発展を祈っていた。なぜ、日本の指導者や若者から志が奪われたのか、それは、自分達の国家を失ったからである。
確かに、戦争によって多くの若者達が犠牲になった。また、無辜の民が失われていった。しかし、彼等には、国家のためにと言う目標があった。人は、死すべき運命を持っている。彼等の犠牲を犬死にと言うには、あまりに、現代の日本人はあさましい。
人生五十年下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり。死のうは、一定と思い定めて国に命を捧げた若者に対し、今の日本人は、国を持たない、国を失った流浪の民のように漂白し続けている。志を持て、誇りを持てと言ったところで無駄なことである。
日本という国を不死鳥のごとく、蘇(よみがえ)らす以外に日本の若者の魂を救う術はないのである。
非武装中立というのは欺瞞に過ぎない。欺瞞でないとしたらそれは、宗教的信条である。人間には、命をかけて護らなければならないものがある。それは、愛する者達の生命と財産である。そして、名誉と尊厳である。自分の母や妻、娘を侵略者に蹂躙(じゅうりん)されようとしているのに命乞いをして自分だけが助かろうとする事は、人間として許されない。かつて、焼け跡はと称する連中は、国が侵略されたら自分の妻や娘を侵略者に差し出せばいいと言い放った。しかし、それは、自らの存在を否定したようなものである。
我々は、戦わざるをえない時があるのである。たとえ、それが敵(かな)わぬ相手であろうと。名誉と命をかけて戦うのである。かつて、我が国の若者達がしたように、そして、今日の繁栄と平和は彼等の犠牲の上に成り立っている事を我々は、決して忘れてはならない。
恒久的平和を実現したいならば、先ず、人類がそれを望まなければならない。平和は、神から与えられる者ではない。人類が自分の意志で作り出し、維持する状況である。平和は、力の均衡によって生み出され、保たれる。その為には、先ず自分達が力を蓄えなければならない。そして、力の均衡を保てる世界制度を築かなければならない。歌を歌ったからと言って平和が訪れるわけではない。それが現実であり、平和は、現実なのである。夢でも、理想でもない。現実の状況なのである。
参考文献
「スイスと日本 国を守るということ」松村 劭 著 祥伝社 (2005-12-20出版)