国家理念とは、建国の理念である。
故に、国家理念の冒頭は、建国に至る経緯、及び、建国の大義を明らかにすることである。そして、同時に、主権の在処を明確にすることである。
国家理念を明らかにするにあたって重要になるのは、権力の継承と正統性である。つまり、権力を継承する際の大義である。
それは、国家の主権がどこにあるかを明らかにすることでもある。国権の継承は、主権の移譲を意味するからである。
故に、国家理念の核となるのは、主権者である。主権がどこに存するかである。
次ぎに、建国の主旨、目的を明らかとする。これは、主権者の意志と国家の枠組みを作るためである。つまり、国家の礎を構築するのである。
必然的に、建国の主旨や建国の目的は、国家の定義となり、それは、国家の目的と定義の根拠となる。さらに、国家原則に繋がっていく。国家原則は、国家制度の設計思想とも言える。国家原則こそ国家構想の根底を形作る。また、建国の主旨は、主権者の定義に関わる。故に、主権者、国民の定義が為されなければならない。
主権者の定義は、国民国家においては、国民の定義へと発展する。なぜならば、国民国家においては、主権を国民に置くからである。
君主国は、主権者は、君主であるから、君主の定義と併せて国民の定義をする。
国家原則は、国家体制の設計思想である。即ち、国家原則が明らかにされたならば、国家理念は、国家体制の定義へと発展する。
国家原則は、何を国是にするかによって違ってくる。
国家とは、共同体の一種である。国家という共同体を結成する時に何を是とするのかが国是である。
国是には、宗教的一体感を基礎としたものと血族的一体感を基礎としたもの、民族的一体性を基としたもの、思想的一体性を基礎、地理的一体性を基としたもの、文化的一体性を基としてものとしたものがある。
国是は、国の進むべき方向、指針の基となる考えである。
国民国家の国是は、国民に選ぶ基本的権利がある。その国の国是は、他国から強制されるような信条ではなく。また、強要された信条を国是とする行為は、主権と独立を譲ることと同じである。即ち、侵略行為の一つとみなされる。
外交は、基本的に相手国の国是を尊重することによって成り立っている。
ただ、自国に対する敵対的、或いは、侵略的な思想を国是としている場合にかぎり例外である。外交も国防を前提とした政治的行為であるからである。
近代以前の国家の大多数は、特定の共同体の規範を基礎としていた。即ち、大家族主義、世襲制を基とした階級制度を拠り所としていた。故に、国是と言っても家訓的な要素が強い。
近代以降は、思想を基盤とした国民国家が主流と成りつつある。
立憲体制においては、国家理念は、憲法に凝縮される。
国家理念は、法や制度によって書かれた思想である。
法や制度に関連する定義は、要件定義によって為されなければならにない。要件定義は、手続によって保証される。故に、国家は、手続によって形成される。
国家理念は、正規の手続きに従って宣言、発布によって発効する。国家理念を発効させるためには、補則、附則が重要な役割を果たしている。
権力の継承と正統性を明らかにするとは、権力の継承をいつ、誰から、誰が、どこで、どの様な手段によって引き継いだかを明らかにすることである。権力の継承の手続を明らかにすることである。
今日の国民国家の多くは、革命やクーデターという暴力的手段による。その場合において最も、重要となるのは、建国に至る大義である。国が依って立つ理念である。そこに建国者の意志がある。
国家原則とは、主権者の権利を明らかにする事を本とする。故に、権利章典とも言える。主権者の権利は、主権者の義務をもたらす。権利と義務は、常に一対となって現れる。
権利は義務の反対作用であり、義務は権利の反対作用である。
教育を受ける義務は、教育を受ける権利であり、教育を受ける権利は、教育を受ける義務でもある。国防は、国民の権利であると同時に義務である。納税は、国民の義務であり、権利である。
立法を、権利とすれば、遵法は義務である。法を制定する者は、法に従わなければならない。
自由を保障されることは、自由を保障することであり、自分の財産の所有権を認めさせることは、他者の所有権を尊重することを意味する。
この様に義務と権利は、作用反作用の関係にある。
そして、この様な権利と義務が国家と国民の範囲を特定するのである。
主権者が定まった後に、法源を明らかにする。
法の根拠は、主権者の意図の上にある。主権者の意志こそ法の根源となるのである。故に、主権がどこに存在するかが、法を制定する以前に明らかにされる必要があるのである。
法を物理法則のように先験的な存在するのか。法は、契約に基づく後天的なものとするのかによって司法の在り方に差が生じる。
即ち、法は、神や人民の意志に基づく体系なのか。それとも、何等かの契約や手続体系なのかである。前者は、判例法であり、法を不文律と見なし、司法の過程で法は顕現するとし、後者は制定法であり、法を成文法と見なし、判決は、法の条文から演繹的に導き出されるものだと考える。
日本は、制定法の立場をとる。即ち、法は、法として定められた法令にあることを原則とするのである。しかし、法は現実である。法を杓子定規に解釈するだけでは、現実に適合できなくなる場合も生じる。
日本人は、法を観念的に捉える傾向がある。しかし、法は観念ではない。法は現実である。
法は、国家権力に依って実現する。強制力のない法は、機能しない。法の強制力は国家権力によって発揮される。故に、法は、国家権力によって実現する。
国家権力が乱れ、威信が失われれば、法外の力を持って統制をしなければならない。そこから、私兵、秘密警察が生じ、その為に、公権力は私的権力に簒奪され、法は威力を失い無法状態、事実上の無政府状態に陥る。
法の正当性は、国家権力によって保証されている。
法の正当性は、法文だけにあるわけではない。法文によって世の中に生起する事象、総てを捉えきれるわけではない。法文だけでは、国家正義を履行できなくなる場合もある。故に、法の正当性を最終的に検証するのは、国家理念、即ち、憲法である。
日本は、一般に、法と法文の区別がつかない。法は、六法全書に書かれている文面だと勘違いしている。その為に、法に対する議論が法文の解釈ばかりに言って肝心の法の解釈が忘れられてしまう。
それでは、裁判員制度も陪審員制度も日本では成り立たない。人を裁く事と文章を解釈することとは本質が違う。
自然法、自然の法則は、発見されたので発明された法則ではない。人間の社会の法は、何等かの人為的行為の上に成り立っている。それは不文律であっても例外ではない。故に、立法という過程が重要なのである。
英米は、コモン・ロー的伝統の上に法体系を構築している。コモン・ローは、慣習や判例を基礎として築かれた法体系であり、不文法とされる。
この様に、法に対する考え方は、必ずしも法文に基づくものではない。根本にあるのは、法の精神であり、建国理念である。
ところが日本人は、書かれた文章を絶対視する。そして、法学は文章をいかに解釈するかの学問だと錯覚をしている。
日本人は、一度決められた憲法を変えられないとも言われるのも宜(むべ)なり。日本人は、一度決められた憲法は変えられないと思い込んでいるのである。
法の正当性は、法文の文脈にあるわけではなく。国家理念に照らし合わせて測られるべきなのである。
英米法は、コモン・ローであるから法は裁判を通じて形成されていくというのが基本的考え方である。故に、陪審員制度が成り立つ。その意味では、大陸法における陪審員と考え方が違う。それこそが、国家理念である。
法が成り立っている根底を理解しないで栽培員制度など導入しても上っ面だけになってしまう。
さすがに、欧米人は、法の精神や目的に対して厳格な理論をして、その上で法文の解釈にはいる。
日本人は、いつだって法文の解釈を先にして、その後で法の精神、目的を議論する。本末が転倒しているのである。それでは、法の意義を忘れて言葉の解釈論に陥りつつある。
だから、アメリカドラマの弁護士ものをみると違和感を感じる。アメリカの弁護士ものは、法の論議に終始するが、日本の弁護士ものは、サスペンス、推理ドラマにしかならない。良くて人情ものですよね。
法は確かに決め事である。
しかし、言葉として表した事柄が法の総てを現せるかというと違う。言葉で表せることには限界がある。言葉で表せることに限界がある以上、文章に書かれた事にも限界がある。それが法治主義の前提である。
そこに成文法を根本とするか、不文律を根本とするかの違いがある。
法は基準、尺度の一つである。法の本質は、法の目的や働きにある。
国家には範囲がある。
法の及ぶ範囲には境界線がある。それが国境である。
法の及ぶ範囲が国家の内側であり、法の数だけ権力がある。
国内に複数の法があれば、法の数だけ権力があることになる。複数の法体系があることは、国が分裂していることを意味する。
法の数だけ権力があり、法の数だけ国があるのと同じである。
国家の範囲を画定するのは、国家の主権である。
法治国家においては、国家の主権は法によって現れる。故に、国家の範囲は、国法の及ぶ範囲である。
法によって国家の場は形成される。
法によって国家の領域、範囲は画定される。国家の領域、範囲が画定されることによって国家は空間になる。法は、国家という空間に働く一様な力である。
法の力が働くことによって国家に場が形成される。
国家の場が法によって定まるのであるから、法の源、法源を明らかにすることが求められる。
法の源とは、立法の根拠である。立法の根拠は主権者によって定められる。故に、主権者こそ立法者であり、法は、主権者の名の下に制定される。
君主国は、君主の名の下に、国民国家では、国民の名の下に法は制定される。
法源を明らかにされたら、国家体制を定める。
国家体制は、法によって定められるからである。法の根拠が明らかにされて後、国家体制は、国家理念に基づいて構築される。
国家体制には、政治体制と経済体制がある。
国家制度は、国家によって形成された場を維持するために構築される。故に、国家制度の基盤は法によって作られる。
故に、国家制度の始源は、法の形成にある。故に、国家制度の根源は、立法制度にある。
同時に、法治国家における国法の正当性は、制度と手続によって立証される。
主権者の意志は、行政によって実現する。故に、国家の中枢は、行政制度にある。
行政を執行するのは政府である。政府は、機関であり、組織である。
国家制度は、法に基づいて維持、管理される。国家制度を維持、管理するのは司法の役割である。
体制とは、国家の構造上の問題、仕組みの問題である。即ち、国家という暴力装置を、どの様な考え方を基にして、どの様に制御するかの問題だといえる。
国家を制御するのは、国家を自律的に制御する仕組み、組織の問題である。国家体制の問題は、自律的権力機関がどの程度、分散的に存在するかの問題といえる。
一カ所に総ての権力が集中している体制を中央集権的な体制と言い。複数の組織に分散している体制を分権的体制という。また、一切の権力機構を認めないのが無政府主義体制である。
組織の自律性は、身分保証の問題でもある。つまり、他の権力機関からどの程度身分保証がされるかによって組織の自律性は決まるからである。
政治体制は、主権者の所在によって決まる。
政治体制は、近代以前は、君主制(独裁制)、貴族制(寡頭制)、民主制(衆愚制)に分類されていた。
近代の政治体制は、共和制と君主制に大別され、
共和制も民主主義体制と独裁主義体制、全体主義体制に分類される。
民主主義体制は、分権主義を旨とし、独裁体制は、集権主義を旨とする。
民主主義体制には、大統領制と議院内閣制がある。
近代以前の体制と近代と的体制との違いは、主として世襲制と階級制の是非にある。君主制は、独裁的世襲制であり、貴族制は、世襲的階級制度である。
階級制度とのは、男女間や民族間に成立する、即ち、差別を制度化した体制である。
又、政治体制には、宗教的体制と非宗教的体制の別がある。更に、民族的体制と非民族的体制がある。
連邦国家と統一国家がある。更に、今日では国家連合が加わった。
政治体制の根本は、人による支配か、特定の集団による支配か、制度による支配かによって決まる。
人による支配というのは、君主制度や独裁制度を指す。人による支配とは、君主や独裁者の人間としての徳や能力に絶対的な信を置く体制である。
特定の集団や組織による支配とは、それに対して、貴族制や全体主義は、特定の統治集団に対して信を置く体制である。世襲化されると階級制度に発展する。
民主主義も代議制は、寡頭制であり、真の民主主義は直接民主主義にしかないと主張する人々もいる。
民主主義というのは、人間不信を基本とした思想である。故に、人を信じず、法と制度に信を置くのである。
だから、権力が特定の人間に集中することを恐れる。法と制度があってはじめて人を信じるのである。
多くの日本人は民主主義における会議の在り方を錯覚をしている。
例えば、日本人の多くは、話せば解るという事を前提として議会は成り立っていると誤解している。だから、話し合う場を設定するのが民主主義の根本だと思い込んでいる。
しかし、議会制民主主義の根本は、話しても解らないである。だから、厳格な規則の上に基づいて後悔の場で会議を開き。その上で、規則に従って決定されたことに服す事を原則とするのである。
政治体制というのは、最も国家理念を体現しているものである。国家理念というのは、観念ではなく、実体である。しかも、国民生活に密着し、国民の生命財産に関わる大事である。安易な妥協を避け、現実に即した体制を設計すべきなのである。
戦前の日本は、統帥権を楯に取られて軍部の独創を許した。制度は、制御装置である。権力は、国家の繁栄をもたらす力だが、同時に破滅にも導く力である。その点を努々(ゆめゆめ)忘れてはならない。
行政は、国家構想に基づく。国家構想は、建国の下地である。国家構想は、国家戦略の本となる。国家戦略は、対外関係の基礎と成る。
経済体制には、自由経済体制と社会主義経済体制(統制経済体制)がある。
自由主義体制と社会主義的体制の根本的な差は、生産手段の私的所有権を、どの程度認めるかにある。この私的所有権の範囲によって市場経済や貨幣経済ま制約の度合いに差が生じる。
自由経済体制は、私的所有権に制限を設けない事を原則としている。そして、市場経済、貨幣経済を基幹としている。
統制経済体制は、私的所有権を制限し、生産手段の公有、国有を原則としている。計画経済、国家独占体制を基本としている。自由主義経済の中にも国営企業や社会福祉事業のような社会主義的体制を採用したり、社会主義経済体制も今日では一部市場経済を取り入れたりする例が多く、今日では、混合経済体制が大多数を占めている。
経済体制は、所有権の定義が基幹となる。所有権の問題は、分配の問題でもある。経済体制は、分配の仕組みの問題といえる。
貨幣経済体制では、貨幣制度が経済の基幹となる。貨幣制度の在り方が経済体制の根底を確定する。
自由経済体制において貨幣制度を機能させるのは金融制度である。故に、自由経済の基幹は、貨幣制度であり、貨幣制度の基盤は、金融制度である。
国家機能の基本は、国防と治安である。国防と治安は、権力を発現する。権力とは、国民に対して強制力である。法は、権力によって発揮され、実現する。権力とは、法を実効力あるものにする力である。権力とは、公式に認められて暴力である。
国家制度は、権力を制御する仕組みでもある。故に、国防思想、及び、治安思想は、国家理念の核心を担う。国防制度と治安制度こそ国家理念の前提となる。
先に述べたように、民主主義というのは、人間不信を基本とした思想である。故に、人を信じず、法と制度に信を置くのである。
この点は、国防や治安においても明確である。軍や警察は、公式に認められた唯一の武力である。この様な軍や警察は、厳重な監視下に置かなければならないというのが、民主主義の発想である。
それが文民統制という思想である。
国家の存在は観念的な存在ではなく、現実である。現実に取り締まらなければならない暴力が存在する以上、暴力は悪だと頭から否定するわけにはいかないのである。
国民の生命と財産を護る義務がある以上、国家は、相応の武力を蓄えておく必要があるのである。
この様な武力を制御するのは、国家理念である。国防は、国家理念に基づく国家戦力によって正当性が保たれるのである。
自衛権は、国家の主権と独立に関する大事である。自衛権を放棄すれば、国家の主権と独立を自国で維持することができない。故に、自衛権を放棄したら、憲法としての基本的要件を満たしていないことになる。独立国が、憲法を憲法として成立させたならば、必要最小限度の自衛権が憲法には含まれていると考えるのが妥当である。
国家理念は、憲法に集約される。
故に、憲法は、第一に、建国に至る経緯、及び、建国の大義、第二に、建国の主旨、目的、第三に、国家の目的と定義、第四に、主権の所在、第五に、国家原則、第六に、国民の定義、第七に、国家体制の規定、第八に、附則から構成される。
国家は、人的結合によって成立し、人的結合が、物理的空間に結びつくことによって実現する。
始まりは、桃園の誓いの如き事である。
その人的結合の原点に全員一致がある。最初の全員一致は、入会契約や入会規則によって暗黙的に為される。
最初の全員一致が憲法の核である。