中庸


中庸という言葉に対してむ誤解している日本字が沢山いる。

中庸というと、何か、中途半端で、日和見主義的な言葉にとらえがちである。
中庸は、適当、ほどほど、どっちつかず、玉虫色、はっきりしない、グレーゾーンというとらえ方である。
そして、曖昧模糊としてつかみどころない。

それは、日本人から儒教的素養、教養が失われたことに起因する。
日本人の教養というと戦前は、儒教を下敷きにしたものであった。
戦後は、儒教的な事は、封建的、あるいは、守旧的な事として一方的に否定された。

あるいは、忠勇愛国とか、忠誠心、忠義、忠孝、孝行といった言葉に要約されて一意的に否定された。

しかし、日本人の生活や文化に儒教的な素養は深く浸透し、日常的に使われる言葉にも多くの影響を及ぼしている。
この点をよく理解しないと日本の文化の本質は明らかにならない。

特に、中庸という思想は、儒教の核となる概念だから、正しく理解しておく必要がある。

中庸とか、中道という言葉がどっちつかずで、日和見的な印象を与えるのは、中という概念が、真ん中という意味に限定的にとらえられることに一因している。

この様などっちつかずという発想の本は、右でもなく、左でもないという決めつけである。
それは、思想を単純に右か、左かに勝手に分けて中庸というのは、右でも左でもなく、自分の立場を明らかにしないと捉えるからであるが、しかし、それは、思想を自分勝手に右か左かという単純な図式に還元してしまっているからである。
しかも、右か左かの基準は、単純に社会主義が自由主義かという、東西冷戦時代の背景を前提としているのに過ぎない。

それに、中という概念も単純に平均とか、真ん中という概念で限定的にとらえている事による。

確かに、中という言葉には、真ん中という意味はある。しかし、それ以外に中(あた)るという意味もあるのである。

中庸の中は、真ん中というより、この中るという意味合いの方が強い。
そして、何に中るかというと自分自身の核心にである。
つまり、自己の中心を射る。自己の中心に忠実になる。そこから自己の誠を尽くす、極めるという事につながるのである。
自分の信念に対し誠心誠意である。それが中庸の本義である。

真ん中という意味にとらえると平均的とか、標準的、あるいは、平凡という考えにとらわれる。つまりは、世の中の考えや周囲の意見に迎合的だと捉えられる。
しかし、自己の考え、信念に誠実、忠実であろうとすれば、世の中の風潮に流されることなく、自己の考えに忠実たらんとする意味にとれる。
中庸とは、自己の誠を極める事である。それは、世の中の風潮に対して迎合的である姿勢とは真反対の姿勢である。

現に、儒教では、世の中に対して追従的な人間、迎合的な人間を郷原と称して最も嫌う。













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