人   事



母がブラック企業で仕事に追い込まれ自殺した人のニュースを聞いてなぜ死ぬくらいなら辞めなかったのかしらとこぼしていた。確かに母の言う事には、一理あると思う。
しかし、なぜかそういう人に限って辞められないんだよね。
思考が停止するというか。固まってしまう。
自分で自分の世界を閉ざしてしまって、その世界でしか生きられないと思い込んでしまう。逃げ場を失っていく。
でもそうしてしまうのは環境の影響が大きい事もまた事実。組織というのは,時に恐ろしい程の力を発揮する事がある。

組織は、行き着くところ人事。人事を司る者は、否応、社員一人ひとりの人生と向かい合わなければならなくなる。人事は、均一ではないからね。単価賭ける数量とか、単価賭ける時間と単純に割り切れる事ではない。
一人ひとり、能力も適性も違う。考え方も生きてきた軌跡も違う。それをどう評価し、束ねていくか。現場では、待ったなしの決断が要求されてしまう。
選手交代をコールするのも上に立つ者の重大な仕事。人事は、生殺与奪の権限と言われますが、確かに謂われる通り。自分も迷い苦しみながら決断していかなければならないと覚悟しています。

人事は非情な事と心得ておく必要がある。非情という情け容赦なく,冷酷無悲というようにとらえる人がいるが、そう言う意味ではなく情実を交えてはならないという意味である。

人事に情実を交えなければ情けがかけられる。人事に情実を交えれば、その後かえって非情な事をせざるを得なくなる。なぜなら、依怙贔屓になるからである。最初に依怙贔屓があれば、人事は歪み、それを是正する為にかえって非情な処置を執らざるを得なくなる。

情実によればかえって当人を傷つけ、あるいは.後々、禍根を残すことになる。報償にせよ、懲罰にせよ、非情に徹するから公正が保たれるのである。
当人の名誉を守る為にも情に流されてはならない。
職場は真剣勝負の場。真剣勝負の場で情けは無用。情けは人としてかければいい。
中途半端な同情をするくらいなら最初から同情なんかしない方がある。同情するくらいならば、根本にある問題を解決することを考え、又、解決するしかない。
下手に同情なんてしていたら自分が同情される側に回ることになる。

駄目だ、限界だと思うのならば、その者を鍛え上げて限界を超えさせることだ。さもないと仇情けになるだけである。

スポーツにたとえれば、年功で四番打者を選べば,結局四番に選ばれた者が非難される。かわいそうだと言って投手を交代できなければ、勝負には勝てないし、当人をさらし者にする。
情実で采配する者は、結局自分が他人の目を気にしているに過ぎない。自分に甘いだけなのである。
非情と思われても適切な采配、起用をすれば、どんな結果が出ても責任を持つ事ができる。又、明確に采配をすれば、全ての責任を采配する者が負う事になる。要は、その時点時点、断固たる決断を回避する事は、無責任になのである。

人を起用するのは、情実であってはならない。その人の能力を信じるからである。その者が、その任に堪えられないと判断した時は、速やかに躊躇なく交代を告げられなければならないし。また、その覚悟ない者は、指導的立場に立つべきではない。

人事は非情なのである。
しかし、だからといって人事は機械的に処理できる事でもない。その点をよくよく理解しておかないと重大な錯誤をする事になる。
人事の対象は、生身の人間なのである。又、根本は人間関係なのである。
人事は、当事者だけの問題ではなく、組織全体の問題でもあるのである。
与えられた仕事に向いていないとか、実績が上げられないからと謂って機械的に処分できる事ではない。心の問題でもある。
又、現実の問題でもある。人は生きていかなければならない。
一人ひとりには生活もあり、事情や都合もある。人間としての誇りもある。一人ひとりには、一人ひとりの人生がある。細々として配慮ができなければ人事はうまくいかない。
駄目な人間といったんレッテルを貼ったら後がなくなる。
人は生かして働かさなければならない。人は感情のない物ではない。
足して二で割るとか、単価掛ける数量とか、時間というように単純に割り切れはしない。
パンをよこせと叛逆した者が、国の為にと死んでいくのはなぜか。
非情に徹しようとすればする程、人情が必要となる。人は感情のある動物なのである。
情に流されて決断できなくなるのも問題だが、相手の事情や状況、能力、適性、感情を無視して機械的に行うのも深刻な問題を起こし、最悪の場合、人間関係を破壊し、組織を瓦解してしまう。
人事は非情だが、それを運用する時は、情けをもって慎重に実行しなければならない。
だから、人事は難しいのである。
情に流されて非情の処置が執れずに会社を潰す者もいれば、相手の感情や人間関係に対する配慮を忘れて組織を根本から破壊してしまう者もいる。
人事は非情であると同時に、志がなければ成就できないのである。

非情と冷酷は違う。
非情というのは、情実を交えてはいけないという意味で非情なのである。
冷酷というのは心ない仕打ちに対して使う。
冷酷に見えるのは、非情だとか、冷めているとか、残忍だからと言うわけではない。人の心の痛みが理解できないから残忍なことを平然とやってしまうのである。それが怖いのである。気がついた時には全て結果が出てしまっている場合が多い。

人事は非情というのは、人事上の公式の決定は、冷徹にされなければ、情けは掛けられないという意味で言っているので、人に対する配慮欠いていいということを言っているわけではない。

選手交代はそのときの状況に応じて迅速に克つ合理的にならないが、選手に対する心配りは、忘れてはならない。
決定権者が人事を非情に徹することで、他の者が情けを掛ける余地を作る。
人事に情実を絡めれば、情けを掛ける余地がかえってなくなるのである。

そして、情けは、指導・教育によって掛けるのが鉄則である。

人事が非情であればあるほど、相手を思いやる気持ちが大切となるのである。
誰にでも、失敗や弱点はある。
厳しい処断がされた時の多くは、失敗や挫折、過失した時である。
失敗や過失は正されなければならない。しかし必要以上に責め立てたら人はいなくなる。
その人間が挫折や失敗をした時、自信を取り戻させその人に向いた仕事を与えるのも指導者の役割の一つである事を指導的立場に立つ者は忘れてはならない。仕事も勉強も選別を目的としているわけではない。
叱ったり、処罰することは目的には成らない。叱ったりたり処罰をするのは不正をただす為にするのである。目的は、過ちや不正をただすことである。必要以上に相手を責めたり、罰することは逆効果を招くだけである。
懲罰人事だけは戒めなければならない。人をさらし者にするのは、組織の士気モラルを低下させるだけである。
一回の失敗で全人格を否定し駄目とレッテルを貼られたその人の可能性の芽を摘んで、先をなくしてしまう。働く人が生きている限り希望がもてるような環境を作るのも指導者の重要な役割である。
働いている人が絶望していくような組織はいつか退廃していく。
駄目な奴とレッテル貼るのは容易いがそれでは組織は存在意義を失い活力を失っていくのである。一人で何でもできるなら一人でやればいいのである。組織の本質は、皆で助け合い力を合わせて事に当たることにあるのである。

経営者というのは、自分より優秀な人間をどれくらい抱えているかが自慢であって自分が一番優秀だなんて言うのは自慢にも成らない。
むしろ、自分より部下の誰しもが自分より優れたところを持っているのだから、その優秀なところを見いだして適材適所に配置するのが指導者の仕事だ。
だから自分は運転をしなようにしている。自分に苦手にところを作っておけば傲慢にならずにすむ。
人は弱い者である。
私にとって一番怖いのは自分である。恐れるべきは自分である。自分に他人より劣るところがある事を自他共に認められるようにして自戒するようにしている。
若い者は若いが故に、女性は、女性であるが故に、その部分では自分より優秀だと私は、思っていると。

自分の慢心に克って各々の力に応じた適正な処遇をしなければならない。

克己復礼。(論語)

信頼関係ができていないのに、厳しく罰したりすれば従わない。かといって信頼関係ができているのに、罰することができなければ組織を束ねることはできない。

卒、いまだ親附(しんぷ)せざるに而(しか)もこれを罰すれば、則(すなわ)ち服せず。
服せざれば則ち用い難きなり。
卒、すでに親附せるに而も罰行なわざれば、則ち用うべからざるなり。(孫子)

民信なくば立たず。(論語)

子(し)日(のたま)わく、其(そ)の身(み)正(ただ)しければ、令(れい)せずして行(おこな)わる。其(そ)の身(み)正(ただ)しからざれば、令(れい)すと雖(いえど)も従(したが)わず。(論語)



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