決   断


日本人は、話し合いは好きだが、会議は下手というか嫌いだと言われる。
実際、外国映画、欧米とはかぎらずどうする、どうすると詰めていくが、日本人と会議をしていて、それでどうすると聞くとそれまで和やかだった人が途端に厭な顔をして、そんな事を急に言われて下当惑する。大体当惑する事自体がおかしいのだが、どうすると聞いた方が悪いとでも言うような雰囲気がある。だから、いくら話し合っても結論は出ない。どうでもいいような話を延々と続ける。それでも、我々の先輩当たりは、厭な顔をしたとしてもそれなのに答えようと努力するが、後輩になると答えねど頃の話ではなく。パニック状態に陥って話しなどできる状態でなくなる。

そういう連中は、奴働きばかりさせられて、言われた事しかできないとと言うより、言われた事以外してはならないように躾けられてしまっている。謂わば、ゾンビみたいな人間である。
こういう連中は、定年退職を迎え、組織から離れたら途端に社会で生きられなくなり家に引きこもる。
今は、若年層の引き籠もりが問題とされるが、もっと深刻なのは、高齢者の引き籠もりである。
若年層が引きこもれば、社会問題になるが、高齢者の引き籠もりは話題にもならない。

要するに決断力がまったく養われていないのである。
決断力が養われていない物は、衝動的に行動する。

多くの日本人は、最初から結論を出しているくせに決断できない。だから、自分の考えを変えられない。討論をしてその上で自分の考えを変えると言う事ができない。なぜならば、決断できないからである。本来決断というのは、一つひとつの決断を積み重ねていく事だ。最初から結論を出しているのに、決断できないから、曖昧にしたままに何となく集団に従っていく。それが空気を読む事だというのならば、それ程危険な思想はない。

何かを決めようとすると意味もなく抵抗を示す者がいる。
決断する事を恐れているのである。しかし、そうは言っても何も決めない。
意味のないと抵抗が当人を苦しませる。
組織は情報系なのである。下手に逆らえば、精神を侵される。組織には固有の意志があるのである。

要は決められないのである。決められないから苦しいのである。
相手の意見を聞いた上で自分で判断し、決断をする。だから、相手の話を聞く意義もあり、会議の必要性もある。
人の意見を聞いても何も変わらないのならば、他人の意見を聞く必要もないし、会議を開く必要もない。
ところが日本人は何となく結論を出しておいて、それでいて何も決められない。決められないから変える事もできない。
だから、その場の雰囲気に流され、或いは大勢に流されていくのである。

私は、日本人の考え方の根本的な間違い。特に、戦後の人間の間違いは、考えてから決めろと躾ける事である。考えたら決められない。決して断じるのが決断である。決めてから考える。
一度決めたら断行する。それを小さい頃から訓練し、第一勘を研ぎ澄ませておけば、いざというときに重大に間違いをしないですむ。
決断力のない人間が考え出したら、結論が出なくなるのは、火を見るより明らかである。
日常的に決断しない者は、決断力が養われないのである。

私は、父に、絶えず決断を求められた。子供の頃から決められた小遣いを渡されて何を買うにしても自分で決めるように仕向けられた。そして、それでいいかと三度念を押されて、後は、実行するように求められた。一度決めたら簡単には翻せない。だから迷わない。迷えば決められなくなるのである。
考えれば迷う。一度決断すれば変える事もできるが、決断できなければ改める事もできない。
確かに、決めなければ間違っていないように思える。
しかし、不決断こそ最大の誤決断である。
間違えを恐れては決断はできない。
しかし、衝動や感情にまかせて決断をしていたら、結果を期待する事はできない。

決して断じる。それが決断である。
それは、裂帛の気合いを以て打ち込むような事なのである。
だからこそ平常心を問われるのである。






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