数字は武器になる


私も、気がついて見れば還暦を過ぎてしまいました。若い頃は、六十というと随分歳だなと思っていましたけれど、いつの間にか六十を過ぎていました。同期の仲間も、次々と定年を迎え第一線を退いていきます。
なんだかんだ、悪戦苦闘している内に、歳をとってしまったという感じで、なかなか実感がわきません。
思い返せば、赤面する事ばかりで、なぜ、何のために、誰のために会社を経営してきたのか、自問自答する毎日です。
還暦を過ぎてやっと入り口にたどり着けたかと思ったら、はや出口という感じですかね。笑うしかありません。この歳になって、まだ、勉強しても勉強しても、学ばなければならないことばかりで自分の非力が情けなくなります。
最近、「数字は武器になる」野口悠紀雄を読んだのですが、その中で、野口氏は、第二次世界大戦の死亡者数がソビエトが二千万人、ドイツ九百七十万人、ポーランド六百三万人、フランス五十二万人、イタリア四十万人、アメリカ三十三万人、イギリス三十二万人、日本、三百十万人、中国が約一千万人とのっていました。そして、スターリン時代に政治的理由で虐殺された者が二千万人、中国では、大飢饉の期間になくなったのは四千五百万人。
ポツダムで日本人の死亡者数は記載されていなかくて、それがショックだったと野口氏は書いています。だから、日本人の死者と中国人の死者は、中学の教科書から引用しています。それが彼等の世界観なんですよね。
我々は、第二次世界大戦の主役は、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、アメリカというように思ってきましたが、実際は、ドイツとソビエトの死闘と言った方が良いのかもしれませんね。そして、ポーランドの死者が多いのは、ドイツとフランスの間に挟まれているからですね。日本なんて最初から員数外ですよ。
当時、ソビエトの人口は、一億人程度とすると一人の独裁者によって人口の四割が虐殺された事になります。
この様な時代が来ないとは誰にも断言できないのが恐ろしい事です。事実、今でも中東では、死闘が繰り返されている。その煽りを何時日本が食らうか判らない。それが日本を取り囲む現実ですね。
だからこそ、今、自分は為すべき事を為さねばならないのだと思うのです。
地図帳で見るとアメリカやロシア、中国と比べて、日本は、本当に小さな島国に過ぎません。それを人口という観点からすると過去日本は世界ランキングで十以内に位置する国だったのです。
一千九百五十年の段階では、中国、インド、アメリカ合衆国、ロシア連邦に次ぐ五位であったし、その時点で日本人の人口数は、八千二百万人ロシア連邦が一億三百万人、アメリカ合衆国が一億五千八百万人、中国が五億五千七百万人と日本人が考える程差があるわけではないのです。今の日本人からすれば圧倒的な力の差がある相手に挑んだ無謀な戦争という風に見えますが、当時の軍人からしてみれば、精神力で何とか倒せる相手くらいにしか考えていなかったのではないかとさえ思えます。
日本人は、日本を小国だと自国を卑下するきらいがありますが、人口数から見ると歴史的に見て十位以内に入る大国なのです。
国連の予測では、二千十三年現在十位の日本も二千五十年には、十六位、二千百年には、二十九位になると予測されている。この様な人口の減少が国力に対してどの様な影響をもたらすのかを考えなければならないのです。
経営者が為すべき事というのは、キッチリと会社を従業員その家族を守っていくことだと思うのです。これは本音ですね。
会社を守るというのは、この様な現実の上に立脚していなければならないと思うのです。
だからこそ、自分は、会社を経営する上で、こういう数字をキチンと把握していないといけないなと思いました。キチンと把握しておかないと何が自分の身の回りで起こっているか理解することも出来ない。
ぼくは、会社というのは、最終的な運命共同体だと思うのです。社員と社員の家族を養っていく事、僕はそれにつきると思うのです。
今、人々の生活を守っているのは、会社ですよ。でも誰も会社に感謝しようともしない。感謝するどころか、会社は社員をこき使って搾取している、資本家の手先だみたいなことを言う。
僕は、命がけで社員とその家族の生活を守っていくことが経営者の使命だと思うのです。例え、裏切られてもですね。社員なんて経営者の使命感なんて誰も理解していないし、経営者はそんな事期待したらやっていけない。ただ、そういう覚悟がなければ、中小企業の親父なんてやってられないですよ。自己満足と言われてもですね。
日本人は、平和慣れしてしまって、自分達が置かれている環境に鈍感になっています。
平和憲法が日本の平和を守ってくれたわけではありません。日本の平和は、国際力学の上で成り立っていたのに過ぎません。
一度、戦争に巻き込まれたら、今の会社なんて理不尽な力で押し潰されてしまう。昔の商人は、明治維新とか、戦争とかを上手くくぐり抜けて家族や一族を養ってきたんですよね。今では、社員は、一族ですね。血縁関係ではないけれど、固い絆で結ばれている。
今のサラリーマンにとって会社が全てなんですよね。
ところが殆どのサラリーマンは、無自覚ですね。それで会社にいる時は、社畜になるなとか、会社人間になるななんていきがっている。でも会社から離れたらただの人以下でしかないんですね。誰も尊重してくれない。ただのみすぼらしい年寄りでしかない。もう過去なんてどうでもいいんですね。過去の実績なんて一人一人の矜恃にもならない。記憶にも残らないんです。定年したら一年もたたないうちに消え失せていく。
例え、経営者ですら・・・。
しかも、定年後の人生がこれまた長い。定年後二十年も無為に過ごさなければならなくなる。
「定年後リアル」と言う本を最近読んだのですけれど、定年してしまったらできる事なんて何もないんですね。兎に角、無為に生きていくことになれるしかない。金のこと、健康のこと、生き甲斐。これしかないんですね。要するに、もうどうやって生きていくか、それしか心配がない。
要は、覚悟の問題ですね。僕らは、勤めるならば骨を埋める覚悟で勤めろと言われて育ちましたが、今は、最初からそんな覚悟が通用しない。だから、愛社精神にした所で定年があると僕言うのです。何でもかんでも、生き方が中途半端になってしまう。
経営者は孤独なんて言う人もいますが、自分は孤独なんて感じたことがない。と言うよりも孤独を感じる暇もない。仮に、孤独を感じた時は、引退する時なのかもしれないと思うのです。
いざというときに、会社を守れなければ何も言う資格がない。ぼろくそですよ。経営者は皆この十字架を背負って生きている。でも、その事は経営者以外誰にも判りませんよ。
だから、僕は、経営というのは、結局人生を考える事だと思うのです。一緒に働いてきた人々とどうやって生きていくか、それしかない気がするのです。ところが経営者の多くはそれを忘れている。金儲けは手段です。目的ではない。目的は、人間如何に生きるかだと思うのです。金を儲けても使い道を誤ったら意味がない。
自分は、いろんな経営者と話をする機会がありましたが、やっぱり五年十年と会社を経営してきた人は凄いなと思います。他人の会社をとやかく言う勇気は自分にはないですね。皆、真剣勝負で修羅場を切り抜けてきたんですから。掛け値なしに凄いなとしか言いようがないですね。真似をするしないは別にして、学ぶべき点は、物凄くありますし、皆、人をよく見ていますからね。真似るにせよ、真似ないにせよ、覚悟してかからないと痛い眼に合いますから。
僕は、社員が生き生きと働いてくれていることを見れること程幸せなことはないです。だから、孤独を感じないのです。孤独なんて、定年して、何もすることがなく、一人でいる時に感じるものだと思いますね。



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