民主主義を実現する為には、宗教的な熱狂が必要である。
絶対的権力を否定し、民主的な政権を確立する為には、大変な精力を必要としている。
民主主義者、自由主義者は絶え間ない、迫害や弾圧の嵐に耐えなければならない。
民主主義者も、自由主義者も、孤独に耐えなければならない。
例え、民主主義といえど権力闘争に勝って確立される事なのである。
近代民主主義は根本に民衆蜂起を前提とし、革命やクーデター、独立戦争といった暴力手段によって建国された。
その事を忘れてはならない。
民主主義者も、自由主義者も自分に勝たなければならない。
民主主義者や自由主義者が最後に戦わなければならない相手は自分なのである。
民主主義は混乱と混沌の中で誕生する。
問題は、誰がどの様に、混乱を収束させるかである。
倒さなければならない相手は権力であるが、建設しなければならないのも権力である。
混乱を招くのは民主主義だが、混乱を収束するのも、民主主義でなければならないのである。
民主主義体制は、群集心理によって作られる。
故に、制御が難しく無秩序、無統制に陥りやすい。
米をよこせと言って叛逆した群衆が、国の為にと言って命を投げ出す。
その差はどこから生じるのだろうか。
インターネットは、群集心理を増幅させる。
大衆は、民主的指導者を認めようとしない。
民主主義はその性格上常に、分裂の危機を孕んでいる。
民主主義は世俗的権力を否定する事で成立しする。
それ故に、統制を嫌う。
しかし、混乱や混沌を収束させる為には、最も要求されるのが統制力である。
民主主義は、指導者によって違ってくる。
しかし、それが両刃になるのである。
強力な指導者は、常に独裁者に変質しやすい。
しかし、独裁者を怖れて指導者を制約すれば混乱を収拾する事は難しい。
だからこそ指導者は、自己を超越する存在に対する信仰を必要がなければ自分を保つことも出来ない。
神を否定する者は、自らを神とする。その時独裁者が誕生する。
革命期の混乱を収束させるのは、指導者の献身でしかない。
統制を必要としている時に統制を欠くから民主主義革命は混乱の内に挫折していく。
混乱を収束させる為には、指導者の強い意志を頼らなければならなくなる。
多くの民主主義革命、市民革命は、革命が成就したら四分五裂して頓挫していった。
そして、軍事政権や独裁政権が革命政権に取って代わっていくのが常である。
それは、民主主義が統制を嫌うからである。
統制を嫌い混乱している間隙を縫って独裁者に権力が簒奪されてしまうのである。
又、民主主義者も無秩序な中で独裁的に変質していくのである。
民主主義は、あらゆる世俗的権威を否定する事で成り立っている。
自由は、世俗的な権威や権力に隷属する事を拒むからである。
しかし、絶対的権威を否定してしまえば、自己を絶対化する以外に自己の存在意義を失う。
全体の目的が成就した後、個人の欲求が前面に出る。
苦節は伴にできても栄辱は伴にできない。
一度権力を手に入れたら人は変わる。
権力には魔力がある。
しかし、権力がなければ民主主義は保てない。
民主主義の要は仕組みと手続きである。
民主的だけれど統制のとれた仕組みを考案し、尚且つ、迅速に処理できる手続きを確立する事なのである。
民主的指導者に求められる資質は、高潔さと節度と節操である。
民主主義体制を維持できるかどうかは、指導者達の力量による。
民主主的指導者を抑制する存在は、自己を超越した何ものかに対する怖れである。
故に、民主的指導者に必要なのは神に対する素朴な信仰である。
神を否定する者は、自らを神とする。
世俗的権威を否定した者がやがては、自らを絶対的な存在へと昇華してしまう。
市民革命や民主主義革命は、常に、独裁主義、特に軍事独裁の危険性を孕んできたのである。
なぜ、市民革命や民主主義革命は暴虐の前に挫折し続けてきたのか。
それは、指導者達がいつの間にか自らを神の如くしてきたからである。
そして、指導者の多くが独裁者に変質していったからである。
民主主義者は、自由主義者は、自らを神としない為には、自らを超える何らかの権威を必要としているのである。
それは神でしかない。
だからこそ民主主義者、自由主義者、平等主義者には信仰が必要なのである。
人は、神の前に平等なのである。
人は、死の前に平等なのである。
如何に生きるかは、如何に死ぬかと同じ意味なのである。
自由への熱狂は、自由に対する信仰である。
自由に対する熱狂が人を解放するのである。
自分に勝てなければ、自由にはなれない。
自分に勝てなければ、平等にはなれない。
自分に勝てなければ、解放されない。
国民の意思を統一できなければ民主主義は実現できない。
ならば、人間の存在を超越した何ものかに対する信仰がなければ、矛盾を克服する事は困難なのである。
民主主義に必要なのは神である。
それも、どの様な宗教にも、宗派にも捕らわれない。
不偏不党、絶対的、超越的な神が必要なのである。
そして、神への信仰以外に革命を混乱から救う手段はない。
民主主義者は、最初に、そして、最後に、神の赦しを請い、神に祈りを捧げるのである。
そして、圧政に戦いを挑むのである。
なぜ、自由主義者や民主主義者は世俗的な絶対的権威を認めないのか。
世俗的な権威が絶対的になれば、他の権威を認めなくなるからである。
世俗的権威に、絶対的になれば、人民は、絶対的服従、隷属が強いられる。
それは、独裁を認める事であり、専制を許す事である。
民主主義とは相容れない。
だから、民主主義者も自由主義者も世俗的権威を絶対化し得ないのである。
かといって超越的権威を認めなければ、国家の統一性は保てなくなる。
民主主義者、自由主義者は、この世の善と悪を超越したところに絶対的根拠を求めなければならなくなる。
つまり、超越者でなくてはならない。
それは神である。
だからこそ、神への信仰のみが人の限界を超える事を可能とするのである。
独裁を許す事は、神に対する冒涜以外の何ものでもない。
この世の権力に絶対性はない。
この世のあらゆる物事を超越した存在でしかこの世を統一する事はできない。
民主主義者の大義が実現できないのは、神への信仰がないかである。
人は宗教的熱狂を持つべきなのである。
宗教的熱狂の根源は、神に対する信仰である。
なぜ、生きているのか。
それは神の問いである。
それは、人には切ない問いである。
なぜ、生きるのか。
老いて、一人、薄暗い部屋でぼんやりしている時など、
なぜ、生きているのかと問う事は虚しい。
しかし、問わずにはいられない。
神は同じように人に問う。
なぜ生きているのかと・・・。
その時、私は、思う。なぜ生かされているのかと・・・。
老いて尚、幸せになる為に、人は生かされているのです。
神が望まれているのは人々の幸せである。
故に、人々を幸せにするために献身的になる事が宗教的熱情である。
それが革命的熱狂の本質でなければならない。
人は神の祝福を得てこの世に生まれたのである。
神は幸せになる事を望んで居られる。
だから、神は、我々に問うのである。
なぜ生きているのかと・・・。
それは神の問いである。
だから私は自分に問うのです。
なぜ生かされているのかと・・・。
幸せになる事を諦めてはいけない。
そして、人々の幸せの為に献身的になる。
神は人々の幸せを望んでいるのである。
信仰者は、人々を幸せにするために、全身全霊で働くのである。
それが神の意志である。
そして、それが民主主義の本質である。
だからこそ民主主義者は人を幸せにするために熱狂的になるのである。
人は、人を幸せにするために熱狂するのである。
民主主義者は民主主義に敵対する者はたとえ自分であっても葬り去るのである。
それが信仰である。
イエス・キリストは、十字架に架けられる前夜、この苦杯から逃れさせてくれと神に祈る。
しかし、それが人々を救う為に逃れられない事と知った時、人々を救済する為に献身するのである。
民主主義者は、皆、十字架を背負うべきなのである。
民主主義者が大義を見失うのは、人々に対する気持ちがいつの間にか私情に負ける事である。
私情に負けて私利私欲に支配される事である。
自我に負ける事である。
自分の説に負けて、人々の幸せを忘れる事である。
己に勝たなければ民主主義の大義は実現できない。
民主主義の大義が実現できなければ、専制主義者の暴虐に人々は晒されるのである。
民主主義の大義は己を超えて人々の幸せを追求する事にある。
神は人々の幸せを望んでおられるのである。
神を信じて人々の幸せの為に献身する。それが信仰の真のあり方である。
神に対する熱狂的な信仰があってこそ迫害や暴虐を乗り越え、又、自我や己に勝ち民主主義の大義を全うできるのである。
だからこそ、民主主義者や自由主義者は神に対する信仰を持つ必要があるのである。
神への信仰こそ、人々の幸せの実現を可能とする。
それは神の願いが人々の幸せにあるからである。
神は、基本的に民主的なのである。
神の根本は愛であり、神の本性は自由であり、神の本質は平等である。
そして、神が望むのは人々の幸せである。
私は、神以外を怖れない。
富貴も、栄達も、栄誉も望まない。
私が望むのは、神の栄光だけだ。
私は、民主主義者である。
私は、自由主義者である。
私は、個人主義者である。
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