主従関係について
近代民主主義、国民国家が確立される過程で淘汰され、崩壊し言った封建的な秩序や仕組み、序列、階級や差別といった国家の枠組みの中で生き残ったのは、法治主義と主従関係なのかもしれない。
現代社会が成立し法による支配が確立されることによって階級や差別と言った人間社会を支配していた諸々の仕組みや序列が失われた、しかし、現実の組織は法だけでは機能しない。組織を機能させる為には権力機構が必要なのである。その権力機構が主従関係を温存させたのである。権力機構は、権限と責任からなる。権限と責任は自ずと上下関係を生み出す。この考え方は、民主主義が内包している平等主義とどう両立するかがいずれは問題化する宿命にあったのである。
行政、立法、司法の三権分立は、権力主義と平等主義の折衷案として成立した。しかし、権力主義と平等主義は常に危うい均衡の上に成り立っている。
社会主義は、独裁という体制をとる事によって権力機構を温存しようとした。しかし、それは新たな支配階級を生み出したに過ぎない。
なぜなら、絶対的平等という概念の上に成り立つ権力機構は絶対的服従を要求せざるを得なくなるからである。
絶対的平等は観念でしかない。現実の平等は相対的なものにならざるを得ないのである。なぜなば、人は主体的な存在であり、個性があるからである。
結果は、法治国家と独裁主義、全体主義の戦いと言う図式である。社会主義と言ったって所詮は独裁主義か、全体主義である。
突き詰めてみて主従関係もそれを抑止する仕組みがなければ絶対的服従を要求することにもなる。
問題は、主となる者が何で、従となる者が何かが重大なのである。
主従を決めるのは決定権の有無である。決定権がある者が主で、決定権を委ねているものが従である。つまり、決定する者が主で、決定に従う者が従である。
この関係は、どんな組織にもある。逆に言うと主従関係が組織を有り様を定めると言って良い。
決定権者には、決定に伴う権限と責任が生じる。
決定権者は自分の好きなように決められる反面、その決定による結果に対する責任が生じる。
決定権者が一人の個人に集中しているのがワンマン体制、独裁体制であり、何らかの機関に集中している体制が中央集権体制である。
決定権者は、自分の下した決定に対して批判的な態度はとれない。
自分の決定した事柄に責任が生じるからである。
逆に言うと決定権者以外は無責任である。
言論の自由は、この無責任さを容認しないと成り立たない。
法は、決定権者を抑制する目的で定められる。
しかし、この様な法も決定権者が全能の力を得ると無意味である。
あらゆる決定権を掌握した人間には法も効力を発揮しようがないからである。
独裁、ワンマン体制は常にその危険性がつきまとっている。
つまり、独裁体制は、決定権者だけが決定権を掌握してしまうのである。それは生殺与奪の権能にもなる。
この事は経済にも言える。独占的市場には選択権がなくなってしまう。あったとしても意味がなくなるのである。
決定権を握る者は自分の好きな事ができる。その反面、責任が生じる。
従う者は、好きな事ができない代わりに免責される部分が大きい。
どちらを取るかである。
主従関係は、上下関係の素となる。
衆生関係は、権限と責任関係を階層的にするからである。
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