変革とは
世の中は目まぐるしい程の速度で変化し続けている。組織は、その変化に併せて常時、変革し続けなければ生き残れない。
結局、変革というのは、いかに環境に組織を適合させるかの問題に帰着する。
現代のように激しい変動の時代において経営者は、絶え間ない自己変革と自己研鑽をすることが求められている。自己変革や自己研鑽を怠るようになったら、経営者は、後進に道を譲るべき時が来たのだと覚悟すべきなのである。
変革を進める際、充分留意しておかなければならないのは、表に現れている変化の背後には、無数の仕組みが隠されているという点である。
どんな些細な変化でも重大な兆しや要因が隠されていたり、また、どんな些細な変更でも全体に深刻な影響を与える事があることを忘れてはならない。
変化というと、我々は、変化している部分に目を奪われがちだが、変化している部分は、氷山の一角に過ぎない。表に現れている変化の原因は、変化の背後に隠されている仕組みや法則なのである。
変革とは何か。変革というと、世の中や組織を、何が何でも変えることだ、変えればいいと思い込んでいる者がいるが、実際は、変えてはならない部分をどう処理するかが、変革の成否を担っている場合が多い。
変革、変革と騒ぐ者の多くは、変化ばかりを追い求めている。だから、何も結果的には変わらないという事になるのである。
変革をする時、大切なのは、変えなければならない部分と変えてはいけない部分をどう見極めるかなのである。
変化、変化と言いうが、世の中には変えてはならない物事がいっぱいある。変化はその変わってはならない部分の上で成り立っている。
そして、世の中や組織の十中八、九は、変えてはならない部分、変わってはならない部分なのである。二割も変えなければならない部分があったら大事(おおごと)です。
もう一つ注意しなければならないのは、変革を推進する部分の殆どが変えてはならない部分、変わらない部分あるのである。
つまり、変えてはならない部分が変化の推進を担っている部分なのである。
そして、本来、変わってはいけない部分が変質をしている。それが、いろいろな矛盾や問題を引き起こしている場合が多い。その変わってはならない部分を先ず修復することが肝心なのである。
変わってはならない部分というのは、組織の土台や骨格に当たる部分である。
改革の芽は非日常的な事柄にあるかもしれないが、改革の核は日常性にある。
故に、実際に変革を実施する際には、変えてはならない部分、つまり、基盤やプラットフォームの部分と先鋭的で常に刷新、革新を求められている部分を見極める事が求められるのである。
組織には、ある意味では馬鹿な部分ではあるが、強力に組織を動かしている原動力となる部分と力は弱いけれど組織をリード、先導している部分とがある。
変革を準備するのはスタッフ部門の仕事でも、変革を、実際に、推進するのはラインの仕事である。ラインが動かなければ変革は成功しない。ラインを動かすのは、基礎的な部分、つまり、動かしては変えてはいけない部分なのである。
変革の中心は:現場部分にある。現場部分であるから、土台が固まっていい時に強引に変革を推し進めると組織の基礎や骨格を毀損させてしまう危険性があるのである。
逆に言うと組織の基本となる部分が変質してしまったからいろいろな問題が起こっていたり、周囲の変化に適合することができない場合が多いのである。
変わってはならない部分を修復するだけで変革の過半は達成してしまうことが多い。だからこそ、急がば回れで、基本や初心、原点に立ち返ることが大切なのである。
現場は、たとえ情報産業のように先端技術を扱うような業界でも得ていて徒弟制度的な環境である場合が多い。どんなに技術革新が進んでも現場は、既存の技術の上に成り立っているからである。それだけに、現場は管理的な問題に対しては、保守的な傾向を持つ。しかし、技術は進歩しており、現場は、常に競争に去らされている。そのために、先端技術に対しては、先鋭的な傾向を持つ。ある意味で新しい物好きである。
変革しなければならない相手も変革が自分達の環境を良くする為だという事に気がつけば協力的になるのである。逆に言うと変革に賛同者を得られなければ、変革はその目的を失うのである。
変革で問題になるのは、抵抗勢力の存在である。ただ、抵抗勢力というのは、一般に考えられているように特定の勢力をさいて言うわけではない。変革を行う過程で生じる場合が多い。
最初から何らかの抵抗勢力が存在すると考えるのは早計である。
抵抗を示すのは、現場や保守的な層とは限らない。
現場は、元々、問題を抱えており、その問題を一つ一つ解決していけば、比較的協力を得やすいものである。
むしろ、本来、改革的であるべき先鋭的部分や管理部分、或いは、経営層が主導方針や思想、変革の手段を巡って強力な抵抗勢力を形成することがある。
先鋭的部分や管理職層、上層部というのは、改革者にとって競合先でもあるのである。彼等との共感、共鳴が得られないうちは、安易に変革に着手すべきではない。
彼等は、最大の味方にもなり得るが、最大の敵にもなり得るのである。
最大の味方を最大の敵にするのは改革者自身である。
変革では、何を前提とするのかが重要な鍵を握っている。なぜ、なんの為に、誰の為に変革をするのか。
変革は、一人ではできない。先ず、内部に仲間、同調者を見つけ出すことが第一歩である。そこにあるのは、共感共鳴である。共感、共鳴のない変革は最初から失敗である。だからこそ誠心誠意、事に当たるが大切になるのである。心が通じ合った仲間ができた時、変革の第一歩が記されるのである。
変革は変えることが目的ではない。よくすることが目的なのである。ならば、誰の為に、何を、どの様によくするのかが肝心なのである。それを忘れると改革の為の改革になってしまのである。それは改革者の自己満足、我が儘勝手である。
変革を行う場合、何に対して、誰に対して、どの様な変革を施すのかを明確にしておく必要がある。表面的な変革に終わるのか、部分的も特定の範囲に限られた変革なのか、全体に及ぶ変革なのかを明確にしておく必要がある。
ただし、その組織の文化や体質、規範に及ぶような変革は、余程注意しなければならない。それは、変革と言うよりも革命に近くなるからである。上層部か腐敗堕落している場合も同様である。
この様な、変革は、トップの強い意志と後押し、共感がなければ、成就するどころか、改革者に危害が及ぶ危険性すらあるからである。
変革というのは、本来、生臭い部分を多分に含んでいるものである。そのために、一歩間違うと軋轢や摩擦を生じさせ、対立や抗争の火種になる。それが昂じると内部崩壊を引き起こしかねない。
核心となる部分に共鳴共感がなければ変革の目的は達成できない。たとえ、変革を成し遂げても当初の目的を逸脱してしまう場合があるからである。例えば、会社組織は刷新できたが会社の社員の賛同を誰一人、得られないといった例である。故に、必要ならば、時間を掛けて話し合うことも大切なのである。
変革というのは、組織全体の協力を得られてはじめて本来の目的を成就する。
その意味では、トップが最初から独断をもって旗振りをするのは避けた方が賢明である。組織の総意を反映することが難しくなるからである。
むろん、変革を実施に移す段階に入ったら、逆にトップは全面に立って強力に推進していく必要がある。
革新は、常時、波状反復的に起きなわれなければならない。組織にとって停滞は、死に繋がるからである。
経営的状況と善悪の価値観は別である。経営者が悪いことをしたから経営状況が悪化したと考えるは間違いである。
改革者は、自分は間違いを犯さないという前提に立つこと自体間違いだという事を肝に銘じておく必要がある。
改革者は今間違いを犯していません。まだ着手したばかりなのであるから。
でも時間と伴に思い通りにはいかないことが増えていきます。
そこから間違いが始まるのです。
改革者は自分が間違っていないのだから、悪いことをしていないと錯覚しやすい。しかし、間違っているか、間違っていないかは善悪とは別である。間違いをせずに成績がいい子でも悪いことはいる。間違ってばかりでも正しい人はいる。成功しても悪は悪である。どんなに貧しくても清く正しい人はいる。
変革は必ずしも正義ではない。
正しいことをやっているか否かが問題なのではない。組織が生き残りを賭けて戦っているのである。
改革者は今間違っていないから正しいと思いこみがちである。そこに落とし穴が隠されている。自分の行為を絶対視し、周囲の意見を聞かなくなったりがちである。また、自分の間違いに気がついた時、自分が悪いとなるからである。そうなると自分の間違いを絶対に認めようとはしなくなる。その時が一番怖いのである。改革者が堕落するのは、えてしてこういう時である。魔が差すのである。
人は誰でも、最初から間違っているとか、悪いという事を承知して決定や選択をしているわけではない。その時点、その時点では最善を尽くしているのである。ところが情報の不足や環境や条件が変化し、決断をしたり選択をした時点では正しいと思っていたことが結果的に、十中八、九、間違いとなるのである。
故に、私は、これから改革に着手しようとする者達に、余り過去のことで当事者を責めるなと注意する。過去のことを問題にしすぎると当事者は余り過去のことを話したくなくなり、言い訳や弁明が多くなるからである。過去は過去、重要なのは事実を明らかにすることで、人を責めることではないのである。
それに、当初改革者も最善を尽くす。だから自分は総てにおいて正しいと錯覚をする。時間の経過と伴に改革者の過ちも明らかになるからである。それに気がついた時は取り返しのつかない事態になる。どこにどんな人間が潜んでいるのか解らないのである。
間違っているか、正しいかの絶対的基準はない。間違っているか、いないかの基準は相対的なものであって前提条件や環境が違えば違ってくるのである。言い換えれば時間がたてば今正しくても間違いになるのである。だからこそ、日々精進していないと確実に間違いを犯すことになる。又、過去に戻って改めることができない以上、過ちは避けようがないのである。何もしなくても間違いはする。
間違いを悪とするのならば、何が、間違いを悪とするのか、その行いに悪意があったか否かでしかない。それ以外に間違いを悪いこととして裁くことはできないのである。いわば事故みたいな事なのである。未必か、故意か、それが問題なのである。むろん、未必であろうと故意であろうと許されない事は許されない。許す許されないは、別の問題、つまり、結果の問題、被害の有無にあるのである。
変革にとって障害になるのは、かえって間違いを犯していない人間である場合がある。特に、改革に当たろうとする者は、改革に臨む時点では間違いを犯していない。時としてそれが重大な障害になることすらあることを心得ておく必要がある。
自分が間違いを犯していないと思う者、特に、実際に過ちに関係していなかった者は、変革は他人事であり、自分とってはいい迷惑だと捉えている。そのために、当事者意識が欠如し、傍観者になったり、非協力的になる傾向がある。自分が間違いを犯していないと思い込んでいる者は、とかく何事にも批判的になり、評論家的になる。最初は変革に対して協力的な態度をとっても自分が変革の必要性を実感していない為に、変革に対しても批判的になりやすい。
又、当初は、改革者も間違いを犯していない。しかも、改革には、絶対の自信と見通しがなければ着手できない。変革をはじめて途中で投げ出すという事は許されないからである。それが昂じると独善的になって孤立しやすい。改革にとって最も大切なのは、当事者との共感共鳴である。変革の推進役は、間違いを犯した張本人である場合かが多いのである。だから、過去を無闇に穿り返して責任ばかりを追及するのは、かえって変革の障害にすらなる。間違いを指摘するのは、相手が間違いを間違いとして認識していない場合に限る。その場合でも必要最小限にとどめるべきなのである。
改革者は謙虚であるべきである。改革者の最大の敵は、自分の傲慢さである。
自分が絶対正しいと信じ込んでいる、残酷になれるものである。
エリートの多くは、どんなに頑張ってもできない人間の気持ちがわからない者がいる。多くのエリートは、頑張ればできると思い込んでいるからてある。自分にできることは、誰でもできると思い込んでいて、できない者を無能扱いをする。それでいて、自分の傲慢さに気がついていない。逆に、自分が解らないこと、できないことを認めない。そして、自分は絶対に間違いを犯していないと信じている。だから、自分の間違いを言われると火がついたように怒る。
ても、人間というのは弱い者なのである。
人は、弱点や失敗によって共鳴し共感する。人は、不幸によって共感する。
私は百点を取れたのに、あなたはなぜ、百点を取れないのと言っても共感はしないのです。それで九十点を取って褒めても相手は褒められた気がしない。常に、百点を取ることを求められていることが解っているからです。僕は一点でも多く取ると褒めるようにしています。そして、次を一緒に目指そうと言うのである。
僕は、失敗して落ち込んでいる者に、おまえは今いい経験をしているのだと言います。人の心の痛みを理解した時、相手と共鳴共感することができるようになるのだからと・・・。人の心の痛みを理解できない者は、人の共感を得ることはできない。
学校の優等生は、何かというと答えばかりだそうと焦る。しかし、求められているのは、学校で求められるような正解ばかりとはかぎらない。問題の解き方であったり、考え方で当たり、ヒントだったりもするのである。又、正解があるとは限らないし、一つとも限らない。世の中の問題というのは学校の問題のように決められたように解けるとは限らないのである。
何かのきっかけで急速に成長する者もいる。
教育は、相手が受け入れた時に実効力を発揮する。いくら教えたくても相手が指導者を認め受け入れてくれないかぎり無理なのである。
何かのきっかけで良くなると者もいる。なぜ、なにが悪いのかを一緒になって探すことが肝心なのである。怠けているからとか、できないと責めても勉強が嫌いになるだけで、成績が良くなるわけではない。本当に認めるとか、信じるというのは、表に現れてこないその人の本当の実力や人格を認める事である。そして、それをどう引き出すかが教育なのである。
変革は気付きより始まる。気付きは学習である。即ち、勉強である。変革をしようとする人間が自分から勉強しようとしたら、その時、変革は始まるのである。
教育は、相手を受け入れることから始まる。
やっていないと言えばやっていると言い。できないと言えば、できるよと反発する。
やる気がないからやらないのだと決めつけるのは、短絡的は過ぎる。
肝心なのはできない理由、やらない原因なのである。それがわかれば改善点、為すべき事も見いだせる。
やっていないとしたら、なぜ、やっていないのかを考え、できないとしたら、なぜ、できないのかを考えます。その時、自分の失敗や欠点が役に立つのである。苦労した人間は、それだけ人を導き時にいい経験をしているのである。
最高の指導は、指導を受けることだと思います。つまり、教育しようとする相手から指導を受けることである。
話をすることは大変な学習である。人に教える為には、三倍勉強した上、自分が理解していなければできない。だから教わるというのは、教えるという事なのである。良き師は、弟子の話をよく聞いて、弟子からよく学ぶ。改革者は、指導者であり、良き師でなければならない。指導者とは、教育者である。改革者は教育者である。
誰もがその時点、その時点では、最善の決定や選択をしていると考えるべきなのである。しかし、時間の経過と伴に環境や状況が変化し、結果的に間違った判断になってしまったという事を前提とすべきなのである。そうしないと改革者は変革相手の共感を得られなくなる。そして、怠けたとか、何もしていないとか、間違っていたとか、無能だといった言動は避けるべきなのである。先ず相手の決定や選択を尊重した上で環境や状況の変化を理解する必要がある。その上で、当事者当人が変革の推進者に変身させる必要があるからである。
変革は、時として外部の力を借りる必要がある場合も生じる。内部の人間だけでは、技術や知識に限界がある場合が多い、また、組織は人間関係ででてきている。いろいろな人間関係や思惑が錯綜して、客観的、冷静な判断が下せなくなる場合が多々ある。そのような時には、必要に応じて外部の力を借りるべきなのである。
ただ考え違いをしてはならないのは、外部の力を借りるにしても目的を明らかにして、部分、範囲を特定して依頼する必要がある。所詮、外部の人間は、変革の当事者にはなれないのである。変革をするのは、変革をする当事者でなければならない。外部の人間がいくら変わっても、内部の人間が変わらなければ、元の木阿弥なのである。況や、変革の主体を丸投げするのは魂を投げ出すのと同じ事である。外部の人間は、変革が成就した暁には、速やかに退去しなければならない。組織の主体は組織内部にあるのであって外部の人間がいつまでも関わっていたら、組織の独立は保てなくなるからである。
以前、カリスマと言われるコンサルタントがいた。依頼者は彼を神のように崇め、彼は、神の如く信奉者に君臨した。これは変革ではなく信仰の一種である。結局単に独裁者に魂を売り渡したにすぎない。
変革は薄皮を剥ぐようにして進む。
人は、日々成長している。今日できないことも明日できるようになることがある。
最初は何も表には現れてこない。最初に、現れてくるのは反発と抵抗だけである。
しかし、世の中は、ものすごい勢いで変化している。
だからといって焦っても結果はついてこないのである。
落ち着いて急げ、変革は最初から矛盾しており、間違いは必然なのである。故に、変革は結果によって判断される。改革者は覚悟せよ。
変革というのは加速度がつく。組織が起動する時は、ゆっくりと動き出し、徐々に速度が上がり、ある一定の時点で加速度がつく。改革者は最初自分が先頭を走っているつまりでも、あっという間に追いつかれ、最後は、追いつけなくなる。そうなると変革は、制御不能の状態に陥る危険性もあるのである。
変革を軌道に乗せる為には、基本がしっかりできていないとならない。足下がぐらついたら、変革どころの騒ぎではない。
先ずしっかりと足下を固めておくことが肝要なのである。足下を固めておけば、ちょっとやそっとの変化にもびくともしない。だからこそ、大規模な変革にも対応することがでるのである。そのためには、変えるべきところ、変えていいところと、変えてはいけないところ、変わらないところを予め見極める事が鍵を握っているのである。
変化、変化と変化する部分ばかりを注目し、問題とするから、変革を成就することができないのである。変化する部分に軸足をおいたら自分の均衡を保つことはできない。大切なのは均衡なのである。
変化ばかりに目を奪われると足下をすくわれる結果を招くことになる。
変革は破壊ではなく。創造です。しかし、創造には破壊が伴います。だから、創造の神は、破壊の神でもあるのです。変革は、いかにして破壊による苦しみを少なくし、創造による喜びを高めるかによって成否が分かれるのだと思います。
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