自由主義国では、民主主義は絶対であるかの如く思い込みがある。
民主主義革命が起これば、必ず、それは、成就し成功すると決め付けている。
しかし、歴史的に見て、民主主義体制とは、成立させるのが、極めて困難であり、民主主義を確立するためには、多くの試練を乗り越えなければならないという事を忘れてはならない。
革命は、群集心理によって起こる。
民主主義は革命に端を発する。民主主義は、群集心理によって作られる。
群衆は、米をよこせと言って叛逆した群衆が、国の為にと言って命を投げ出す。
その差はどこから生じるのだろうか。
いずれにしても、民主主義は革命と言えば聞こえが良いが暴動によって始まる。
一揆とか、群衆の暴動が引き金になって民主主義体制は産声を上げるのである。
それが革命の本質であり、民主主義体制は、群集心理によって作られると言っていい。
だからこそ、制御が難しく無秩序、無統制に陥りやすい。
革命は計画的に起こせる事ではない。
革命的状況は作れてもそれが単なる暴動で終わるか、革命に結びつくかは、計算できないのである。
又、一度、暴動が起こり、革命的状況になったとしても群衆を民主主義的な方向に誘導で杵かどうかも未知数である。革命的状況は、人を残忍にもする。
多くの大量虐殺が革命的な状況、熱狂の中で起こった事を忘れてはならない。
革命は人を狂わせるのである。人を狂わせるからこそ、革命は成就するのである。
その革命的熱狂が暴力的なものに変質すると、理性や知性を押しのけ、報復や猜疑心によって残忍なものに変質してしまう。
革命的な熱狂は、それまでの秩序をことごとく破壊し、国家を滅亡へと導く事にもなりかねない力を秘めているのである。
統制を失った群衆は恐怖によってしか支配できなくなる。
群衆とは何か。群衆は、状況によって暴徒と化し、状況によって改革の原動力になる。
群衆とは何か。
人民、大衆、民衆、集団、庶民、団体、徒党、烏合の衆。群衆は味方、見る立場によって違って見える。
群衆は、人の集まりである事には間違いはない。
群衆は、組織化される以前の人間ま集まりである。
革命は、警察の力を無力化し、軍の力を台頭させる。
革命とは、非日常的な出来事であり、革命的状態は非常事態なのである。
民主主義はある種の熱狂がなければ成就しない。それは常軌を逸した陶酔のような状態の中で、形成された非日常的な出来事、事件なのである。
そこでは、通常の法が効力を失い、無政府的な状況を一時的にも現出させる。そこでは、無法と暴力が支配し、無頼な輩が闊歩する事になる。
その点を前提としていない民主主義革命は、ただの暴挙で終わってしまう。
そして、近年、インターネットには、群集心理を増幅させる。
だから尚更厄介なのである。
民主主義を万能とみるのは危険な事である。民主主義は万能ではないし、いろいろな短所、欠点、弱点がある
民主主義を成立する要件は、数多く存在するのである。
数多く存在する要件を一々満たすことによってはじめて民主主義は成立する。
民主主義が成立したのは、近年なのである。
そして、民主主義は混乱と伴にやってくることを忘れてはならない。
しかも、民主主義を成立させるために、幾多の人民の血が流されたのである。
民主主義と無政府主義は紙一重である。
民主主義は、一歩、間違えば、無政府的状況を引き起こす。
無政府的状況は、暴力に支配される凄惨な状態なのである。
無政府的状態というのは、決して、理性や知性によって支配されている状態ではない。
無政府というのは、暴力を抑止するための公の仕組みがない事を意味するのである。
無政府的状況に飽いた時、人々は統制を求め、強力な指導者の出現を期待するようになる。そこに暴君や独裁者がつけいる余地が生まれるのである。
だから革命的状況による混乱の中から多くの独裁者や全体主義が生まれたのである。
多くの独裁主義や全体主義は、民主主義的状況から生まれる事を見落としてはならない。
その事を鑑みると民主主義は、独裁主義や全体主義の呼び水となることもある。
民主主義が成就するか否かは、無政府的状況を如何に収束し、民主主義的枠組みを構築してその中で新しい秩序を回復できるか、否かに掛かっているのである。
民主主義を確立するためには、可及的速やかに、民主主義を実現するための制度を成立させなければならない。
民主主義は、制度によって護られている思想なのである。
民主主義というのは体制である。
民主主義という思想は、体制を実現する事によって表現される。民主主義というのは現実であって観念や概念ではない。
独裁と言う思想というのも、考え方ではなく、仕組みにある。
同様に、民主主義というのも考え方ではなく、仕組みにある。
一つは、独裁主義というのは、意思決定の主体が独裁者に集中している仕組みであり、民主主義は意思決定の主体が合議体におかれている言う違いがある。
又、独裁主義と民主義の間には、個人の権利と義務、権限と責任にも違いがある。
現代の日本人は、自由な状態をあたかも当たり前で所与の事として捉えている。
そして、マスコミの人間は、金儲けや猥褻等、意味もない事で権力を挑発し、言論の自由を弄ぶような事をしている。
しかし、自由は、今でも当たり前でも所与の事でもなかったし、今でも抑圧された人々が多くいる事を忘れてはならない。
昔は、どんな国にも奴隷制度があった。奴隷制度を知らなければ、自由の意味は理解できない。
しかし、奴隷が奴隷状態を抜け出し、自由を勝ち取る事は並大抵の事ではない。
自由や独立というのは、所与の事でも当たり前な事でもない。多くの時代は、隷属や植民地的状態が常態だったのである。恐怖による支配が当たり前で所与の事なのである。
自由を勝ち取る為には、奴隷が人間として目覚め、人としての権利と義務を自らの手で勝ち取ろうとする意志がなければ成就されない。自由は与えられるものではなく。勝ち取る事なのである。
民主主義を実現しようと志す者は、民主主義に対して幻想を抱いてはならない。民主主義は万能ではない。民主主義は、制度、仕組みによって表現される思想なのである。
民主主義に敵対する者にとって民主主義は過激で危険な思想なのである。
民主主義は、その基盤が確立されるまで混乱状態が続く事を宿命付けられているのである。
逆に言えば成熟した民主主義国というのは、希有な存在だと言う事を忘れてはならない。自由主義国、民主主義国に生まれた者は、そのありがたみをともすると忘れてしまいがちである。言論の自由、思想信条の自由、集会の自由、結社の自由というのを所与の事、自明な事として当たり前に受け止めるが、これらの自由を確立し、維持するために、どれほどの血が流されたかを自覚しなければならない。又、自由ほど繊細な事はなく。簡単に失われてしまうという事も忘れてはならない。
民主主義は群集心理によって出現する。
民衆は、本来保守的な存在である。現状を普遍化しやすい。しかし、現状は移ろいやすい。その民衆の思いと現実の歪みが、社会に緊張をもたらす。その緊張に耐えられなくなった時、革命は起こる。
民主主義は、群集心理によって引き起こされる。
群衆の無軌道な感情が民主主義を成就させる原動力となっている。
しかし、民主的体制というのは、合理的、合法的な仕組みによって成り立っているのである。
民主主義は最初から矛盾しているのである。
だから、民主主義運動を制御するのし難しい。
指導者の心理に対する、信仰のみが混乱を収束する事が出来るのである。
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