若者達に


 父が逝って半年たちます。この半年間でいろいろなことを考えさせられました。

 誰もが、このままの状態で十年、二十年といけるはずがないと思っています。だとしたらこのまま手を拱いて見ていることは、自滅的行為である。なのに、多くの人は、まるで何事も起こらないかの如く生活しています。
 いつか、この会社も業界も一度ぶち壊し、新しく作り直さなければならない時が必ず来る。だからこそ、今、若者達の力を結集させる必要があるのです。
 その時の為にも会社の枠組みを越えて若手が手を結んでいく事は、有意義なことだと思います。
 ざっくばらんな話をすればいいよと助言しておきました。究極的には、互いをどこまで信じられるかの問題です。信じあえないのならば、最初から手を組むなどと言わない方がいい。

 最近、絵をかける者、計算ができる者がめっきり少なくなってきたと私は感じます。
 絵を描くというのは、しっかりとした構想を立てるという事であり、計算というのは、ちゃんとした見通しに基づいて計画をするという事です。絵をかけない、計算ができないと言うのは、しっかりとした構想が持てない、見通しが立てられないという事を意味します。
 構想も見識もないままに場当たり的な行動しかとれない。そう言う人間が増えたと言いたいのです。
 しかし、それは、我々が後輩達に決断をするチャンスを与えず、指導してこなかったからだと私は思うのです。
 若者達が助け合って互いに切磋琢磨し、未来に向かって壮大な絵が描けるようになったら、素敵なことです。
 若者が、夢中になって事業の取り組む姿は、本当に輝いています。私は、その輝きを見るのが一番楽しい。その為に、自分の人生を擲っても惜しくはありません。

 社員の面倒をみるのは、憐憫によるものではありません。社員だからです。自分の部下だからです。それを勘違いしてはならないといつも肝に銘じています。
 会社というのは、運命共同体です。人間関係の塊です。
 それを忘れたら企業は正常に機能しなくなると思うのです。
 それは、組織としての自律機能を失うからです。会社というのは、求心力があるから、組織に対する忠誠心を期待することが出来、又、統制をとることも出来るのです。
 組織や仲間に対する忠誠心を失えば、組織は制御できなくなります。そうなるとただの烏合の衆にすぎません。
 社員が守ろうとしない会社は、護り切れません。国民が護ろうとしない国は保てません。

 社員が自分達の未来を信じられなくなれば、会社は、会社に対する社員一人一人の忠誠心を期待することは出来なくなります。
 社員が自分達の手で、自分達の未来を変えられると信じた時、社員は、自分達の未来に期待することが出来ると私は思うのです。
 自分達の未来に希望が失われれば、残されているのは、絶望しかないありません。それでどうして困難に立ち向かえと言えるでしょう。
 会社に対する求心力がなくなれば、会社を存続する意義が失われ、会社を存続する意義を見失えば、組織の規律を保つ必然性が自覚できなくなります。
 その時、社員達から道徳心が喪失するのです。これは国家でも同じです。

 私は、人々の生死を分けてものは何か、ずっと考えてきました。
 指導的立場にあるものは、その一瞬に自分の全てを擲たなければならない時がいつ来るか解らない。
 その瞬間のために生きていたと言われるような時がいつ来るか解らないのです。そして、その時は、一瞬の迷いも未練も許されないのです。
 その場に居合わせた指導者、責任者は、その瞬間瞬間の全身全霊を籠めた決断を要求されるのです。どの様な決断でも悔いは残るし、批判することは出来ます。しかし、一番問題なのは、何の覚悟もないままに、優柔不断の態度をとり続けることです。不決断こそ、最大の誤判断です。

 東日本大震災で一瞬にして全てを失った人々がいます。
 あの大地震の後の津波にあって決死で、避難を誘導したり、放送し続けた人達がいます。
 その間、ほんの数分です。その数分で正しい決断をしなければならない。その数分が生死を分けてのです。その一瞬に永遠が隠されているのです。

 原発事故に際しては、一瞬の迷いが危機の始まりとなったのです。東電の指導者があのとき、躊躇なく、原子炉の廃棄を決断できたならば、事態は大分違ったでしょう。しかし、それはあくまでも結果論です。廃炉にしたらしたで何も言われないという事はないでしょう。どっちらにしても指導者は責められたでしょう。
 後で、又、当事者以外の人間は何とでも言えます。
 しかし、当事者達は、必死に最善の策を模索したのだと思います。それでも結果は、結果です。
 要は、指導者の心持ち様なのだと思います。指導的立場にある者の心の有り様、覚悟が問題となるのです。どんな結果になろうと、また、どんなに非難されようと甘んじて受ける覚悟が求められるのです。そして、その瞬間瞬間に己の全てを賭けて決断し、実行する。要は気迫です。
 だからこそ、武士道が必要とされるのです。最後は、人としての生き様が問われるのだと思います。

 一定の年齢に達したらリセットされてしまう、そんな人生は、虚しい。
 仕事に生き甲斐を見出せない人生なんて空疎です。
 六十を過ぎていきなり人生を振り出しに戻されて社会に放り出すなんて残酷な話です。六十過ぎの人間と二十歳そこそこの人間とがまったく同じ土俵で争えば、結果は、最初から決まっています。
 みすみす、それが解っていながら、何の手立てもしない。そんな不人情な社会が現代社会なのです。
 よしんば金があったところで、施設に入れなれてしまえばお終いです。
 立派な建物や制度を作ることを老人問題の対策だとしている。それが今日の日本の貧しさです。
 そんな社会に若者達は希望を見出せるというのでしょうか。会社や国家に希望が見出せなくなれば、国民が堕落するのは必然的結果です。

 これから年金は、七十才にならなければもらえなくなる。七十才でもらえるならばまだましです。ひょっとしたら年金制度そのものが成り立たなくなるかもしれない。退職金も保証されているわけではないし、退職後も借金は残る可能性が高い。さらに、増税は必至です。医療費の負担も増えるでしょうし、反対に、保険料は上がる可能性が高いのです。
 負担は増えて、受け取れるものは減るばかりです。まるで我々が飲み食いしたツケを子供達が払わされるようなものです。

 これは会社の問題だけでなく。日本の問題でもあります。
 多くの若者は、日本の未来に希望が持てなくなりつつあります。
 一人一人が自分達ができるところから改めていかなければ、早晩この国は建ち行かなくなります。

 私は、無名でいい。否、無名がいい。無名であればいい。名利を求めて我を忘れるくらいなら野垂れ死んだ方がましだと思う。
 最後は天涯孤独で死んでいけばいい。そう覚悟を決めています。自分の為に涙を流すものなど少なくていい。
 誰にも認められることなく、自分が生きたというなんの痕跡すら残さず。ただ純粋に己の信じたことのみを追求できたらこんなに幸せな一生はないと思います。
 例え、自分は志半ばで倒れたとしても悔いはありません。しかし、今の自分には、妻子がいます。老いた母もいます。だからこそ、私は人なのだと思うのです。
 自分が倒れた時、妻子や母を委せられる人々を信じられるが故に、己の志を貫けるのだと思います。
 義理人情などと言うと笑われてしまうかもしれませんが、義理と人情が信じられるそんな世の中、会社にしたいと私は、心から思うのです。そして、それが日本人の本性だと思います。

 私は、血の一滴まで日本男児なのです。





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