私は、存在を唯一で絶対なものとします。
存在そのものは、唯一で、絶対なものですから、無分別で不可分、完全で無欠なものです。故に、その認識は、直感に依ります。しかし、唯一で絶対的存在は、識別する事が出来ません。それで人は、対象を識別する必要から対象を分割します。対象を分割した時点で、対象は、相対的なものに変化し、存在の絶対性が損なわれます。対象を識別した以後の世界は、全て、相対的、不完全な対象になります。しかし、その根源にある存在の唯一性や絶対性は、毀損する事はありません。存在の絶対性に変わりません。あくまでも、相対性とか、不完全性は、認識の問題であって存在の問題ではありません。
存在には、主体的な存在と客観的な実在があるとします。
主体的存在を自己と名付けます。客観的実在を神と名付けます。
客観的実在である神は、超越的存在です。超越的存在である神は、無分別な存在です。つまり、正否善悪を超えた存在です。善悪は、認識者側、即ち、主体にあります。
主体的存在を自己と名付けます。自己は、唯一で、主体的な存在です。自己は、物的存在ではなく。あくまでも主体という事です。自己の肉体も客観的実在です。もう一つ重要なのは、自己は間接的認識対象だという事です。
自己は、自己だけでは自己を認識できない存在なのです。この自己の存在形態が世界の始まりです。人は、自分の顔を直接見る事はできません。
即ち、自己は、自己を知るために外的実在を必要としていまする。
主体的存在である自己は外の世界客観実在に自己を投影する事で自己の存在を認識します。この事が認識の作用反作用の関係を構成します。
善悪は、自己善でしかありません。自己は、外的実在、世界とのかかわりの中で善悪を構築します。そして、自己善によって人は裁かれます。
故に、人の罪は人の罪、神の責任ではありません。人は、自らの価値観によって裁かれます。
故に、人と神との関係は、一対一の関係でしか成り立ちません。
あらゆる、法も、科学も、社会も自己と客観的実在との関係によって構築されます。
科学は、相対的なもので、人の都合によって構築されたものでしかありません。
どの様な科学も科学技術も人が自分たちの都合で作り上げたものです。
神の意志は不可知であり、ただ、信じ受け入れる以外ありません。それが信仰です。
人は神を越えられないのです。
人が裁かれるとしたら、それは自らが犯した罪によってです。

全ての存在は、神の祝福の下に生まれます。神は、全てを許します。
ただ、自分が自分の罪を認め悔い改めれなければなりません。
自分の罪を認め悔い改めれば神は全てを許しません。
許せないのは自分自身なのです。

人は、幸せな時、神を侮り。
不幸になると神を罵る。

しかし、神は、神だ。
神を、必要としているのは、人間であり、
神は、人間を必要としていない。

これが私が二十歳の時に到達した境地です。
そこから私にとってすべてが始まりました。

人は、他人の過ちを赦す事が難しい。しかし、それ以上に難しい自分の罪を受け入れ赦す事だ。しかし、自分の過ちを認め、許す事が出来なければ、この世の救済はあり得ない。

以後、私と神との間には、何ものも介さず。一対一の関係であり続けています。



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