幸か、不幸か



人間は、幸か、不幸か考える力がある。
何も考えないで生きていけるのならばそれも楽なのかもしれない。しかし、人間は、考える。何のために生きているのか、誰のために生きているのか。結局得体のしれないところで悩み、答えのない事を追求し続けているのかもしれない。
空疎と言われようが虚しいと言われようが問わずにはいられないのである。
そして、自分なりの答えを見つけて自分なりに生きていくしかない。
なぜ、生きて、そして、死んだらどこへ行くのか。
我々は、なぜ、誰のために仕事をしているのか。生きているのか。生きようとしているのか。
いくら金を儲けても、いくら大事業を成し遂げたとしても、喜びを分かち合う者がいなければ虚しい。

現代人の空虚さはそこにある。
我々の親たちの定年退職と、これからの定年退職とは本質が違う。何が違うかと言うと、我々の親たちには、仕事以前に生活があった。つまりは、定年退職しても戻る場所があったのである。つまりは、生きる為に働いていたのである。
これから定年を迎える者にとって、仕事は、学校の延長線上でしかない。今の学校教育は、とにかく学校へ行っていれば一定の期間があれば卒業ができる。決められた時間割に従って試験を受け、そこそこの点数が取れれば卒業できる。家事の手伝いや仕事を手助けをするわけではない。かつては、農家の子供は野良仕事を手伝わされたし、商売人の子供は、商売を手伝わされた。
生きる為に自分なりの努力をする必要もない。生活感がないのである。
学校の勉強だって生きる為に役立つ事でない。なぜ、何のためにと聞いたところで納得のいく話をしてもらえるわけではない。目的がわからないし、目的も持てない。そんなことを延々とされて会社に入り、同じように生きていく。人生そのものが空疎となる。
会社も仕事も学校の延長線上でしかない。一定期間会社に行っていれば、何とか生きていける。仕事があって生きているのである。生きる目的がなくても働くために生きているのである。生活がかかっている。仕事がなくなれば路頭に迷う。そんな自覚もないままに、仕事をしてきて定年を迎えるのである。
結局、定年退職を迎えた時、人生の全てがリセットされてしまう。それまでのキャリアも、経験も、知識も、技術も、地位も、収入も、人間関係も、遊びも全てが白紙に戻ってしまう。
定年退職したら週に一度のゴルフでもして悠々自適の余生をなんて、考えてみればゴルフ仲間もと仲間でしかなく。

そこで人は考える。俺の人生は何なったんだと。しかし、その問いは虚しい。なぜなら、人生の過半は過ぎ去っているからである。
その恐怖を人は知るべきなのである。定年退職の日、仕事を終えて自分の家に帰り、家族からご苦労様でしたとか何とか言われて…。それも言ってくるれる人さえいなくて。暗い部屋の中で寝そべり、天井を見ながら、しみじみ俺の人生は何だったんだ。これからどうやって生きていこう。明日からは、行くあてもなくなってしまう。
自分の力で生きていく術が見つからない。
自由に生きてきたつもりでも、結局、家畜の自由でしかなかった。籠の鳥は、籠から放たれたら生きていけない。自分で餌さえ見つけられない。それでも何羽かは、たくましく生きていくかもしれないけれど…。多くの鳥は、行くあてもないままに彷徨うのである。
自分の力で生きてこなかったつけが人生がリセットされた瞬間に押し寄せてくる。

定年退職と言うのは、それまでの人生を生きながらすべてリセットする事。

生きる過程で、それまで生きてきた足跡を断ち切られ、何の価値もない者にされてしまうのなら、何を生き甲斐としたらいいのか。仕事しか取り柄がないと言われる者たちが、仕事も生き甲斐にならず。ただ、何も考えないで生きて行けというのか。

今更、自分の意志で自分の考えに従って生きてきたかと問われても…。
ただ何となく、学校や親が決めた事に従い、会社では言われた事を要領よくこなせばなんとなく生きてこれたとしか言いようがないではないか他にどんな生き方ができるというのか。

そんな人生を是とするくらいなら生きる事に何の価値があるのか。ただ、一人部屋に取り残されれば、頭が狂いそうになる。
こんなバカな事を容認していたら鬱にもなるし、錯乱もする。今の世の中、頭がいかれた人間を大量生産しているだけではないのか。

誰のための会社かだって…。株主か、社員か、経営者か、そんなことは何の意味もない。会社人間、仕事中毒と言われ様とも自分たちの人生は、この会社にしかないし、しっかりと生きてきたというのは紛れもない事実なのである。それだけで充分だし、それだけわかればいいではないか。

人は、幸か、不幸か考える事が出来る。自分の人生を振り返って、なぜ、何のための人生なのか、何のためにと考えざるをえない。

誰の為か、何のためにかそれは自分の意志で決める事だ。
人は、考えずにはいられない。考えずにいられないなら、人は人らしく、自分らしく生きる以外にないではないか。
自分の意志で…。

人は考える。生きるという事はどういう事だろう。自分の人生はこれでよかったのか。自分なぜ、生まれ、そして、どこへ行くのだろう。自分が生きたという記憶は失われてしまうのだろうかと…。
でも、結局、自分の納得のいく生き方ができるかどうかに過ぎない。
死ぬまで一途に仕事に打ち込めて何にも考えずに、迷わずに生きていけたら。
一人の人を愛し続ける事が出来たら、そんな人に巡り合えたら、そんな仕事を見つけられたら最高なのに…。

定年退職は、どうしようもない時に、どうしようもなく考えさせる。



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