近代という時代は、信を基礎として成り立っている。
近代科学は、実証という手続によって信を確立した。
近代民主主義は、国民に信を置くことによって成り立っている。
近代経済は、市場や貨幣に信を置くことで成り立つ。
近代国家は、法に信を置くことで保たれている。
信が失われれば、近代という仕組みは土台から崩壊するのである。
その信が、政治、経済から失われつつある。
それが現代の危機の原因である。
現代人は、何を信じて良いのか解らなく成りつつあるのである。それが人々に厭世感、疎外感をもたらす原因となる。
今、人は確信が持てないでいる。人は、何かを信じなければ生きていくことができない。人は一人では生きていけないのである。故に、信じられる何ものかがなければ人は憂鬱になる。
信を基盤にした社会で信が失われることは、何の手がかりもなく深い奈落の底に突き落とされるようなものである。
信が滅すれば、人の心は、底知れない闇に包まれる。そして、耐えられなくなった人々は、強い力に引き付けられる。それが独裁、強権の始まり。
なぜ、信が失われつつあるのか。それは、信の本質が忘れられているからである。
信の本質は、知である。知の根本は真(まこと)である。
真を明らかにすることで信は保たれている。
その真が偽となり、信が疑へと変質しつつあることが原因なのである。
真が偽になるのは、人間が真を懼れなくなったからである。
平然と嘘をつくようになったからである。
それは、人間から義が失われたからである。
信は義を根本とし、理によって裏付けられる。
理は知からなり、知は実をもって形成される。
信を実現するのは、礼である。
故に、礼は信の体、形である。
真を懼れ、敬い、無条件に信じる心こそ信仰心である。
今の世から信が失われたのは、信仰心がなくなったからである。
聖(ひじり)を懼れることなく。己を絶対化した時、人間は確かな信を見失ったのである。
己(おのれ)を絶対化するというのは、己(おのれ)のみを認めて、己以外の他を認めないことである。
自己の存在は、絶対である。つまり、自己の存在は、他の存在の前提である。本来自己の絶対は、他の存在の前提として有効なのである。
ただでさえ絶対的主体である自己のみを認めて、他を認めなくなれば、他の存在が失せ、結局は己の存在をも否定してしまう結果を招く。
自己を超越し、自己を存在させる何者かの存在を無条件に受け容れた時、自己の主体性は発揚されるのである。無私の境地こそ、実は、己(おのれ)を生かす境地なのである。それこそが信の究極の姿である。
無私の境地は自己否定ではない。究極の信によって己(おのれ)をこの世に丸ごと投げ出すことである。
現代人は、自分に囚われ信仰を失うことで、かえって自信を失い。あげく何もかも信じられなくなりつつあるのである。
自分を生かし、存在させる何者かに、自分の全てを投げ出した時、確かな自分が見えてくる。それが信の素である。
信の素は、人としての義であり、真である。
それが唯一絶対的主体である自分を信じさせるのである。それが真の自信である。
知は、実証されることによって信を得る。
知は信によって確定する。
信は、知を保証する。
近代科学は、実に信を置いて真(まこと)を知るのである。
信は、実にあり、知は、真(まこと)にある。
実に知をおいて真を忘れれば、信は成り立たない。それが科学である。
人は、象(かたち)、現象、情を信じる事で知を確立する。しかし、象(かたち)は、実であって真(まこと)ではない。知は、真(まこと)を懼れることによって良知に保てる。それが信仰である。
我々は、肉体を通して生命を知る。しかし、肉体は、肉体は実体を持つが生命自体ではない。生命を尊ぶことで肉体を保つことができる。生命を軽んずれば肉体を健全さは保てない。生命のない肉体は、屍に過ぎない。それは物体である。信じるべきは人の生命力である。生命が力の源であるように、真は、あらゆる力の源なのである。
国体は、象(かたち)である。国民国家を生かすのは民の真である。民の真は、民の信として現れる。民の信を正しい方向に向けるのは良知である。良知は、民の義がもたらす。民の義は、忠心によって実現する。民から義がなくなれば国民国家は滅びる。
国民の信がなければ国民国家は成り立たない。
指導者に信がなければ組織は保てない。
法に信がなければ国は乱れる。
仁は、礼によって象(かたち)を持つ。義は、忠によって行われる。
故に、不仁にして礼なし。不義にして忠なし。
仁は、象にしなければ表されず。
義は、行われなければ忠にならない。
一神教徒は、神を懼れ、信を保ち、唯物論者は力を恐れて信を保つ。
東洋人は、義に従って信を保つ。
一神教徒は、神を懼れなくなり、唯物論者は、力を侮り、東洋の義は廃れた。
今や、信に基づく世の仕組みは風前の灯火である。
今こそ信が問われているのである。
日本人は義を怖れて信を保つのである。
義を保つのは、廉恥の情である。
義は自らを律する道。
即ち、日本人は、自分の心正しさを畏れるのである。
自らが恥じる行いを畏れるのである。
廉恥の情が廃れれば信は失われる。
一度、信を失えば後は坂道を転げ落ちいるように落ちていく。
後戻りはできない。
失われた信用は取り戻せないのである。
そして、道義心も失われる。後は、堕落するだけである。
信の礎は、正である。正は直によって保たれる。
義は信を保証する。
信は、人間関係の要にあって人間関係を支えている。
信がなければ人間関係は保てない。
信は、人間観に基づく仕組み、即ち、法や制度、組織の土台となる。
法や制度は、信を土台とすると伴に、信を維持する働きがある。
政治家も経済人も信用を旨とする。
信なくば立たず。
信は、社会の礎である。
市場経済は、市場に対する信がなければ成り立たない。
貨幣経済は、貨幣に対する信がなければ成り立たない。
市場や貨幣に対する信は、国家への信を本とする。
故に、国家への信がなければ、市場経済や貨幣経済は成り立たない。
自由は、国家が保障する。
国家への信がなければ自由は成り立たない。
国家への信は、国家の主権と独立に基づく信である。
国家の主権と独立が保てなければ、国家への信は成り立たない。
友情は、友への信が本である。
信がなければ友との絆は成り立たない。
確固たる信が確立された時、友誼は揺るぎない関係になる。
男女の絆は、愛によって結ばれ信によって保たれる。
信が失われれば愛も崩れる。
愛と信とは、不離不可分である。
信の底には、共鳴共感があった。
人生意気にかんず。
志や如何。
しかし、今の世は、契約書が全てを支配する。
夫婦、親子の間でも契約書が必要とされる。
契約書で結ばれた絆も信がなければ、真がない。
真のない絆は偽である。
契約書ばかりに頼る社会は、実のない社会である。
信がなければ、実は失われる。
実が失われれば、経済は、虚となる。
信のない経済は虚偽の経済である。
裏切り者や卑怯者は、どの社会でも受け容れられない。
信に背く行為だからである。
信に背けば、人と人との関係が瓦解する。
信に背く行為を許せば人間関係が土台から崩されてしまうからである。
人間関係が土台から崩れれば、法も、制度も、組織も機能しなくなる。
信は、人間関係の礎なのである。
親を信じ、子を信じ、夫を信じ、妻を信じる。友を信じ、師を信じ、国を信じた。しかし、今では、学校で何も信じるなと教える。
親を信じるな。子を信じるな。夫を信じるな。友を信じるな、師を信じるな、国を信じるなと子供達に教える。
これも植民地教育の一環である。
現代の教育は、人を見たら泥棒と思えという事が道徳だと教える。
信じる事を教える前に、疑ることを教える。
愛を教える前に性を教える。
助け合うことを教える前に、争うことを教える。
規律を教える前に、放縦を教える。
正直を教える前に、嘘を教える。
誇りを教える前に屈辱を与える。
故に、人々は、懐疑心に支配されている。
疑ることばかり教えて信じる事を教えなければ、人と人との関係は結ばれない。
人を信じる事ができなければ、内に引き込むしかない。
人を信じるからこそ人と人との絆ができるのである。
信は、全ての人間関係の要である。
全ての信は、自信に基づく。自分が信じられなければ、何も信じられなくなる。例え、誰かを信じていると言ったところで、信じている自分が信じられないのでは意味がない。
そして、自信の根底にあるのは、信仰である。
人間は生かされているのである。自分を生かしている何ものかに対する信、それが信仰である。この揺るがない存在に対する信に基づいてはじめて自信が出る。
現代人の不幸は、信を失った時から始まる。
なぜ、信が失われたか。それは徳がないからである。
例えば、金融業者に道徳がない。金さえ儲かれば何をやってもいい。法にさえ触れなければと言うよりも違法行為ギリギリの事でも何の良心仮借もなく行える。だから、誰も信じない。法律さえも信じなくなった。
こうなったら、信用なんて土台からなくなってしまう。
政治家は、その言葉をもって信を問われる。
国民は、政治家の言葉に共感、共鳴するから政治を信じるのである。
言動に信なくば政治は成り立たない。
その政治家の言動が軽くなってきた。朝令暮改など朝飯前である。
まるで実がない。責任を負うだけの気概もない。
政治家が嘘をつくのは当たり前だとすら公言する政治家すらいる。
かつて、銀行は、信用に依って成っていた。信用を生業にしていた。
以前は、銀行員というと謹厳実直という印象があった。しかし、今はまったく様変わりをした。博打打ち顔負けの所業が目立つ。
2008年のリーマンショックが起きると忽ちの内に金融危機が世界を覆った。
金融機関の信用も地に堕ちたのである。金融機関が信用を失うと今度は銀行員の高額の給与が問題となった。同時に、銀行員の道徳にも疑問が投げかけられたのである。
銀行や社会の秩序がどうなっても関係ない。
銀行業から義が失われていたのである。
昔は、商人にとって信用は命だった。永いことかかって培ってきた信用も一瞬の不行跡で失うと戒めてきた。しかし、今の信用は掛け捨てである。市場の規律などお構いなしである。違法行為でなければ、どんな非道な行為も平然とやってのける。
国防に関する品を、書類を誤魔化してまで敵対国に売ろうとする。核兵器や化学兵器、生物兵器の技術を金のために横流ししたり、そこには何の義もない。ただ私利私欲に過ぎない。
その為に信が失われる。
人と人との信を土台にするのではなく。金や契約書を土台とした信用でしかないからである。要するに、人間が信頼できなくなった証である。
現代社会は、契約社会である。契約とは、何を信じて成り立っているのが、それが重要なのである。契約を成り立たせているのは、義なのか、法の力なのか。いずれにしても怖れるものがなければ契約は成り立たない。
今の友情は、紙のように薄っぺらい。仲間は、信ずるに足らぬ者でしかない。裏切り、背信は世の常である。親子、兄弟でも信頼できない。
人と人との絆に金銭が関わってきたからである。平気で金のために、親を売り、子を売り飛ばす。
その一方で、相続問題において、骨肉の争いが繰り返される。哀しむべき事である。
革命勢力称する大多数の組織は、ただ、世に拗ねて争乱を起こそうとしているに過ぎない。その証拠に明確な構想、展望を持たない。破壊的で創造的な部分がないのである。
かつて、学園紛争によって学校が荒廃した。しかし、学園紛争の当事者は何ら自分達の構想を持ち合わせてなかった。
ただ反対するだけでは状況は悪くなるだけなのである。
世の中の矛盾に反撥するのは、悪い事ではない。しかし、それは、世の中を糾す義があってはじめて許される。ただ、矛盾に反撥して暴力的な破壊活動を繰り返すのは犯罪以外の何ものでもない。
かつて、劉備、関羽、張飛は桃園の誓いによって生涯を伴にした。それが信である。
信の根源は義である。
信の本となる義は、信義である。
親友は信義によって結ばれている。
友との間にあるのは信義である。
篤い友誼である。
信義があるから、友は困った時に助け合えるのである。
友がいるから、友を信じて難局にも立ち向かえるのである。
友が苦難にあった時に見捨てるのは信義にもとる行為である。
人として見なされない。軽蔑されるのである。それが信義である。
組織や社会は信頼がなければ一日も保てない。
信頼関係があるから、家族も、友情も、夫婦も、会社も、国も成り立つのである。
義を共有すると信はより強固な絆となる。
義によって結束し、義によって伴に生き、義に基づいて伴に戦うのである。
義から同胞や同志が生まれる。
義を取り戻さないかぎり、早晩、信は成り立たなくなる。
信を支えるのは、揺るぎない存在である。
目に見えぬ絶対的な存在を受け容れる素直な心である。
神を信じられなくなったことである。
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures
belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout
permission of the author.Thanks.
Copyright(C) 2010 6.24Keiichirou Koyano