一をもって貫く。
一生、一家、一国、一世界、一つの宇宙。
自分は一人、地球は一つである。
修身、斎家、治国、平天下。それを貫くのは己の意志である。
一つの精神である。自分の自立、家族の幸せ、国の繁栄、世界の平和を願う一念である。
国際社会の秩序が乱れれば、一国の平和は保てない。国の安全が保障されなければ、国民の生命・財産を安全は保障されない。国民の生命・財産が保障されないという事は、地域社会、企業経営の基盤は危うくなる。地域社会や企業経営が安定しなければ、一家の生活は不安定となる。一家の生活が不安定ならば、自分の幸せも望めない。
自由に生きたいと志すならば、自分を正し、鍛えることである。そして、一家を幸せにしたいと思ったら、己の節操を守ることである。一家の生活を安定したいと思ったら、地域社会や職場を活性化することである。地域社会や職場を繁栄させたいと思ったら、国家の主権と独立を守り、安全を維持することである。国家の安全を維持したいと思ったら、世界の秩序を護ることである。
根本を貫くのは、自分を愛し、家族を愛し、仕事を愛し、仲間を愛し、友を愛し、郷土を愛し、国を愛し、人を愛する、即ち、愛である。
先ず、我が身を謹んで、家族を慈しみ、養い、育み、国を治めて、世界を平和に保つ。それこそが志すところである。
修身、斎家、治国、平天下を貫くのは、忠と恕である。
自己とは、唯一で、絶対的な主体である。
自分は、一人である。自分の人生は一つしかない。人生は一回限りなのである。自分の一生は、自分でしか決められない。過ぎ去った日々は取り返せない。人生には、二度とやりなおせないことが多くある。あの時、ああしておけばと悔やんでも遅いのである。
自分が、生きていると言うことは、全ての前提である。自分の肉体には、命が宿っているのである。
命のない肉体は、屍である。ただ朽ち果てるのを待つだけである。
日本人は、欧米思想の外形だけを取り入れた。
故に、日本人の近代思想には、魂がない。心がない、精神がない。
故に、日本人の取り入れた欧米思想に従えば、自己と、家と、国と、天下とを背かせる。自己を喪失し、家族を離反させ、国を分裂させ、天下を乱す。
何を信じていいのか解らず。誠を尽くす相手を知らず。忠誠を誓う対象が見出せない。これらは現代人の病である。
愛だ、恋だと歌いながら、真実の愛を知らないから、愛と性欲を混同する。
今の学校は、愛を教える前に性を教える。それが日本の現状である。
あなたは、何ものですか。
先ず、あなたは、自分が何ものなのかを問えばいい。
思想や哲学に徳がないから、人を人として思わない。つまり、現代日本の思想、哲学には、人間の息吹がない。人の情がない。故に、義理もない。
人の情がないからである。思想や哲学の根本精神を忘れて、上面ばかりを導入しても真の理解にはほど遠い。心がないのである。
現代の日本人の思想や哲学には主体がない。全て借り物である。
自分がないのである。自分のない思想は、魂のない肉体と変わりがない。
根本精神のない思想は、屍の同然、ただ醜悪なだけである。
自由も、平等も自分があってはじめて成り立つ。主体性のない者が自由だ、平等だと言ってもはじまらない。
自由と、平等だけでは、自分を律することができない。
自分に克って始めて自由になれる。怖れるべきは、自分の強欲、怠惰である。
先ず、自分に克て。
人は、生まれながらに自由なのではない。生きて、活きて、自由になるのである。それが生活である。
生まれた時、人間は不自由な存在である。自分一人では何もできない。何も決められない。自分以外の人の世話を受けなければ生きていけない。生まれてすぐ人は、受容、忍従を学ぶ。それが自由の始まり。人は、耐えて、耐えて自由になる。
生きるとは、自由になるための修業である。結局、自由になるというのは、自分との戦いである。
自我、欲望というのは荒馬である。乗りこなせれば、自分を自由にしてくれる。しかし、囚われれば逆に不自由にされる。己(おのれ)は、欲望の奴隷となるのである。それが我執である。
自由か、自由でないかは、己の有り様によって定まる。
科学を絶対視し、科学的基準は客観性に基づいていると吹聴している者がいるが、滑稽なことに、科学とは、相対的認識を前提として成り立っているのである。科学者は、客観的基準が絶対だなどと言ってはいない。
公平とか、公正とか、中立とかを客観的基準だと勘違いしている者が多くいる。しかし、公平や、公正、中立という基準は主観的基準である。
重要なことは、自分が何を公平とし、何を公正とし、何を中立としているかである。そこにあるのは、自分である。
自分が善ければと言う言葉の響きには、自分さえよければという風な響きがある。しかし、されは曲解である。自分が善いというのは、あくまでも、自己の善に基づいたという意味である。その根本は善である。
他人(ひと)に悪をなすことを善とする者はいない。善は善である。つまり、自分に善ければは、他人にも良いことを意味する。
自己に善を成すことは、他人に善を成すことである。実(まこと)にこの世は、自分の鏡。人の振り見て我が振りを直すのである。
個人とは、自己を客体化した言葉である。個人主義とは、言い換えると自己主義である。
自己は、主体である。又、自己は、間接的認識主体である。自己は、他者を通して知る事ができる。自分以外の者の顔を直接見ることはできても、自分の顔を直接見ることはできない。鏡を通してしか知る事ができない。鏡を通して見る顔と実像とが同じであるか否かは、結局解らないのである。それ故に、人は、自分を象徴する物、地位や富、権威や権力に執着するのである。
自分以外のものに対する執着心を立ち、己をただひたすらに信じる時、光明は見えてくる。その時、はじめて他者を受容できるのである。
人は、自分以外の何ものか、他に、尽くして、尽くして、尽くしきった時、自分の命を見出すことができる。それが忠である。
人は、自分以外の何ものかの全てを許し、受け容れた時、自分の存在を知る。それが恕である。
忠と恕の根源にあるのが仁である。仁の本質は愛である。
故に、自分を活かすことは、他人を活かすことであり。
他人を活かすことは、自分を活かすことである。
人は、愛するものに、自分の全てを投げ出した時、己(おのれ)の持てる一切合切、命までも放擲した時、自由になれる。
愛するもののために生きることこそ人生の本懐、誉れである。愛する者のために生きることこそ喜びなのである。明日るもののために全てを失うことは、自己実現の最高の境地である。それこそが至上の愛である。
惚れなさい。惚れて馬鹿になりなさい。そうすれば真実の己の姿が浮かび上がってくる。
生きることに臆病になってはならない。失うことを怖れて生きることに臆病になることは、生きる喜びを知る事はできない。勇気をもって自分を直視せよ。それが生きる真実である。愛する事を怖れていては、自分らしく生きることはできない。活き活きと生きよ。
問題は、何を愛するかである。
金を愛する者は、金にしか、自分を見出せないであろう。地位を愛する者は、地位に固執し、自分を見失う。富を愛する者は、富を失った時に、全てを失う。力を愛する者は、年と伴に危うくなる。虚栄を愛する者は破滅する定めにある。
愛するとは、自己愛、家族愛、夫婦愛、郷土愛、友愛、愛国心、人類愛である。
そこに真(まこと)がある。義がある。
自らを愛し、自らを活かす道を探せ。
仕事、学業を愛せよ。仕事は、自己実現の道。栄光の源である。
人生は修業である。向上心は、常に自らの進むべき道を照らす。故に、良き師を求め、師を愛せよ。
親、子供、兄弟、姉妹を愛し、その絆をより確かなものにせよ。
汝、恋せよ。
夫を、妻を愛し、生きる喜びを知れ。
友は、人生を豊かにする。同志は、夢を実現する。友を信じ、友を愛せよ。
故郷を愛し、故郷のよりよき姿を求めよ。
国を愛し、国を富まし、人々の暮らしをよりよくせよ。
人類を愛し、世界の平和を実現せよ。それこそが真実の愛。生きる道である。
自己が自立し、確立した時、他人を受け容れ、認めることができるようになる。その時、自と他は一体となる。
自他一体とは、自己が他者に隷従することでもなく。かといって無闇に逆らうことを意味するわけではない。
自己が起立する時、自己と他者との位置が定まるのである。
故に、民主主義とは、多数決のみを潔しとはしない。ただ多数を尊重し、従うのみである。もし、明らかに自分の志に多数が反する時は、例え、一人となろうとも自らの信ずるところを貫く事こそ、真(まこと)の個人主義者である。
ただ、ただ、自分の信ずるところに従って生きるのみである。
和して同ぜず。
浩然の気をこそ養うべきなのである。
己(おのれ)は己である。己の信じる道を受け容れ。ただひたすらに、その道を極める以外に術(すべ)はない。一心不乱。一意専心である。
自らに恥じる事をするなかれ。自分に対して清廉潔白であれ。自分の言行は自らの心の鏡。他人は騙せても、自分は騙せたりはしない。
心の籠もらない言葉は、相手の心に響かない。魂のない思想が、自分の主体性を虚しくする。自分がない者は虚ろである。他人を受け容れるゆとりもない。他人を許せなくなる。虚ろな者には、妬みや猜疑心、虚栄心、劣等感が忍び込み、人を傲慢にする。主体性のない者は、何ものも受け容れず、信じられなくなる。礼もなく、節度もない。
現代人の不幸は、信を失ったことである。他人を受け容れ信じる事ができなくなったことである。親子、兄弟すら信じる事ができない。国を信じる事もできない。何かを教わろうにも師を信じられない。
なぜ、信じる事ができなくなったか。それは自分を信じる事ができなくなったからである。自信を失ったのである。
自信を失って他を受け容れる事ができないのである。
自分の主体性を取り戻し、自信を持って他を受け容れる事である。先ず信じる事である。天をそして、神を信じることである。
他人を許すことはできても、自分を許すことはなかなかできない。だからこそ、自分を超えた存在を人は必要とするのである。それが天である。そして、自らの姿勢を正すのは、天命であり、志である。生き生きと生きよ。
一人立ちて家を作る。自立して家族をなす。家族を作るとは、他人を受け容れる事である。その根本は仁愛である。愛は、愛によって育まれ、愛によって生まれる。その根源は家族である。家族の絆である。
近代人の不幸は、個人主義の名の下に、家族の絆を否定し、家族への愛に背かせたことである。
子が親を密告し、親が子を捨てる。その果てに、子が親を、親が子を殺す。これ程酷い話しはない。
しかし、真の個人主義は、自己を生かす道である。自己を活かす道は、人の道である。活き活きと生きよ。
重んじるべきは人の情である。情理が通じなくて、何の道理か。人の愛に背いてまでなさなければならない義理はない。
志の素は、国家、国民、家族に対する愛である。愛は自然の情である。
民主主義の基盤は、国民国家である。国民国家は、国民を基として建設される。国民国家の礎は国民の意志である。ならば、国民国家への忠は、民に対する忠である。国民国家においては、国民は、国家に対してその義務と責任を果たさなければならない。それが、国民国家における忠義である。誠心誠意国家に尽くす事、それが忠である。国家にひたすらに服従することではない。権力に媚びへつらうことでもない。専らに、専らに、自分の義を貫き通すことが忠なのである。
国家国民が自ら見て誤った方向に進もうとした時、身を挺して諫め、糾すことこそ忠なのである。それこそが天下、世界平和への道でもある。
家や故郷、祖国は、戻るべき場所なのである。自己の存在の原点なのである。
家や故郷への思いは忠に凝集する。忠とは、誠である。誠心誠意、尽くす事である。無条件の服従を指すわけではない。時には、命懸けで糾し事である。忠がない反抗は、ただの叛逆、裏切りに過ぎない。それこそ、人と人との絆を断ちきることである。
個人主義は、人と人との絆を断ちきるような思想ではない。むしろ、人と人との絆を活かし強固にする思想である。
だからこそ、礼節が重要なのである。
自己と家族と国と世界は、一をもって貫く。
志は、自己と、家と、故郷と、国と、世界との進むべき方向、ベクトルを正す。
故に、志は、人生の帥なのである。
天道をこそ歩め。
死のうは一定。
忍び草。
忍び草には何をしよぞ。
一定。
語り起こすよの。
人はいつかは死ぬ。
それがいつかは解らない。
平等というならば、人間は死の前に平等である。
どの様な栄耀栄華も又、一夜の夢に過ぎない。
結局、生き甲斐とは死に甲斐でもある。
大切なのは、どの様に生き。
どの様に死んでいくかである。
ならば真一文字に自己を貫徹することこそ、己(おの)が自由を実現する事である。
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