情けない話である。

 今、老人介護が問題となっている。少子高齢化が進むと少数の若者が多数の高齢者の世話をしなければならなくなる。その負担に耐えられるかという問題である。
 その解決策として、色々な施設を作り、介護保険制度を充実しようとしている。
 実に情けない話である。
 年老いた親の面倒を子供家族が見るべきだという発想はどこにもない。また、隣近所、地域住民が一体になって高齢者の面倒を見るべきだという考えもない。要は、何でもかんでも金ですまそうとしているだけである。
 心が貧しいのである。それで財政が破綻すると騒いでいる。財政が破綻したらどうだというのである。家族や隣近所で年寄りの面倒を見ればいいのである。金を払わなければ、年寄りの面倒をみないと言うから問題になるのである。なんて事はない。以前の状態に戻ればいいだけである。
 問題なのは、一度、金を出すと、人々の心が貧しくなって何でもかんでも金を要求するようになる。その為に、金を出さなければ何もしなくなることである。要は、金の問題ではなく。道徳の問題である。現代人は、徳を失ったのである。

 その証拠に、現代人は、箱物を作ってその中に年寄りを放り込めば、自分達の責務は果たせると勘違いをしている。だから、財政も破綻する。

 考えても見よう、年老いた親をいくら設備が整っているとはいえ、施設に置き去りにするなんて忍びない。それは現代の姥捨て山に過ぎない。大切なのは、人と人の繋がりであるはずである。温もりである。人の情けである。

 最近、テレビ番組で無縁社会が取り上げられた。番組で問題にされたのは都会の孤独死である。誰にも知られず、誰にも看取られずに、死んでいく人達が急増していることである。しかし、これは都会に限ったことではない。田舎でも同様の現象が起こっている。
 人と人との絆が断ちきられている。人情がうち捨てられているのである。そして、子供達は引き籠もる。

 年寄りにとって必要なのは生き甲斐なのである。年老いた者が、一番、絶望に追いやられるのは、自分が誰からも世の中からも必要とされていないと言う思いである。自分が必要だとされている思いである。今の福祉政策は、年寄りの生き甲斐や希望を断つやり方である。
 若くて盛んなときだけが人生ではない。又、世の中は、若者だけに支えられているわけではない。人は、年相応に必要とされる場所があるのである。

 利己主義的、拝金主義的な思想に汚染される以前は、孝も忠も人間として備える当然の徳目であった。故に、誰に言われなくとも孝養を尽くすことを自分の本分と心得ていた。今日、孝も忠も廃れた。故に、力尽く、金ずくで強要しないと親の面倒すら見なくなったのである。
 幼児虐待や子供の育児放棄は、その裏側の現象として起こっている。
 年寄りは、施設に入れられ、社会と没交渉になれば施設の内部でどの様な行為が行われても伺い知ることはできないのである。
 孝養の根本は愛情である。愛情がなければ、年老いた者の面倒などみれない。中には、使命感よって献身的に働く者がいるか、全てに期待をすることはできない。第一に、使命感で働く者の徳目は忠と恕である。忠と恕は誠と愛である。その忠と恕を一方で否定しているのであるから献身的な働きを期待しようがないのである。

 道徳が失われれば、福祉という名の非道がまかり通ることになる。

 金だけで片付けようとするから財政も破綻する。肝心のなのは、家族の役割であり、人と人との絆なのである。それを援護するところに財政は成り立つ。建物ではなくて、世話をする人の問題である。
 人間の問題であって金の問題ではない。金は、補助的手段である。金は補助的手段として大切なのである。金が全てであるように錯覚すれば、金の効能はその時失われ弊害でしかない。

 お金は、補助的手段に過ぎない。かつては、大切な物は、皆で分かち合った。例えば、お米である。扶持は、米で支給されたのである。米とは生きていく上で必要な主たる物である。現物で支給できない物を金で手に入れたのである。金が全てではない。

 お金に支配されるようになって人は、精神を病んでしまった。心の病気にかかりやすくなったのである。肝心の心さえ、虚しくなり、消えてなくなりそうである。心を失ったら人間は抜け殻になる。

 人間は、生き物である。この生き物である人間から生を奪い物として捉えるのが、唯物主義である。
 近代は、この唯物主義の上に乗っかっている。社会主義も資本主義も基本的には同じである。
 相対主義も、客観主義も、科学万能主義も、この唯物論の延長線上にある。
 要するに、命がない。魂がないのである。人の情け、心を認めないのである。目に見えない物、解らないものは、存在しないと頭から否定している。

 言っておくが、相対論や、客観主義が悪いと言っているのではない。偏った思想が危険だというのである。人間は、主体的存在である。主体的な存在であることを前提とするから客観性が成り立つのである。
 同様に絶対的存在を前提とした時、認識の相対性が是認されるのである。
 相対論は、絶対性と一体になって成り立つ。客観と主体は、一体である。

 真の個人主義は、人々の絆、関わりを切り捨てはしない。人と人との、絆、関わりの上に成り立つのが個人主義社会である。

 外見ばかり問題にするから内面の世界が失われた。その結果、肉体ばかりが問題とされ、命の問題がないがしろにされているのである。
 確かに、人間はどうすれば死ぬかは解ったが、どうすれば生きられるかは解ってはいない。死んだらどうなるのかも明らかにされていない。命の神秘、謎は、まったく解き明かされていないのである。
 内面の世界を否定すれば、必然的に内容を伴わないのである。皮相な世界である。
 上っ面ばかり内容が伴っていない。ただ、外見だけを整えれば何とかなると錯覚している。だから、世の中は、ガサガサになってしまう。
 外へ外へと人は稼ぎにでる。しかし、その為に内が貧困になっていることに気が付かない。気が付いてみたら、家内は、空洞である。空洞な内の中で一人年老いていく。それに気が付いたときは手遅れなのである。そして、人は、心を失いただの物になる。
 幸せは、身の内にこそある。
 なぜ、家族を守れずに、幸せになれるというのであろう。何でもかんでも均等にしようとする欧米人の考え方が、私には、理解できない。それは平等とは違う。
 物事には、裏と表がある。男と女は違う。その違いを認め、前提とすれば平等は成り立つ。違いを認めなければ、既に差別をしている。
 親は親、子は子である。仕事は外にばかりあるのではない。親の務めは家内にこそある。

 今の学校では、迷惑をかけなければ何をしても良いと教える。
 違う。
 間違いてはいけない。親に迷惑をかけない子はいない。子に迷惑をかけない親はいない。
 迷惑をかけなければ良いというのは、迷惑を掛けないでいられると言うことを前提としているように錯覚させる。俺は誰にも迷惑を掛けてこなかったと嘯(うそぶ)く人間になる。迷惑だからと親を捨て、子を捨てる人間にしてしまう。
 だから、何をしても良いという事だけが残る。

 人は、生まれた時、一人では生きていけない。又、老いた時、病の時、人の情けや助けを必要とする。多くの人の支えの中で生きているのである。その人間の繋がりを意識しなければ人間は生きていけない。人間は、社会的な生き物なのである。引き籠もってばかりは居られない。ところが、その常識が通用しない。
 砂のように、バラバラの人間関係しかなくなってしまう。その挙げ句が孤独死である。
 何のために生まれてきて、誰のために死んでいくのか。闇に世界は包まれていく。

 だから、迷惑を掛けるなとは言わない、迷惑を掛けるのは当然である。親は、このために、迷惑するのは喜びなのである。苦労するのは生き甲斐なのである。子は、親が自分の為に苦労している事を自覚するから感謝する。感謝するところに孝が成り立つ。だからこそ、年老いた両親の世話をすることは喜びとなる。生き甲斐になる。それが孝行である。
 誰が言ったか、子供に向かって、おまえの世話にはならない。だから、自分の好きな生き方をしろ。これも情けない。
 本当に、情けがない。愛情を感じない。

 なぜ、おまえが必要なんだと言ってやろうとしないのか。人は、必要とされるから生きていける。自分の居場所ができるのである。

 日本人、お互い様、お陰様、お世話様と感謝しながら生きてきた。それが人情である。義理である。

 孝は行いである。行いとは、業である。人生とは修業である。
 行いとは、実践である。実行である。行動である。
 百万言費やしても孝を実現する事はできない。ただ、ひたすらに行動する以外にない。行動に表さない限り相手には伝わらない。不言実行するしかない。それは日々の不断の行いでしかない。

 孝は、一方通行の情ではない。親に孝、子に孝。双方向の交情である。
 孝をただ、ただ、親に隷従する事だと思い込むのは間違いである。親には、親の子には、子の人格がある。
 その人格を無視してまで親に従えと言う間は間違いである。それは、忠と同じである。又、孝の根源は、仁である。

 結婚とは、苦労をすることを前提にするものである。結婚は現実である。幻想ではない。生まれも育った環境も考え方もまったく違う人間同士が一つの家に同居することである。そして、家を形成することである。それが神の意志なのである。
 今のように経済的に自立した生活を女性がおくっていれば、結婚によって失う物、捨てる物も数多くある。それを自覚し、互いに慰め、励まし合えなければ、愛は成就しない。結婚は、結婚をした時が始まりなのである。そして、長い、長い時間を掛けて愛を育んでいくのである。
 苦労は、幸せになるために必要なのである。否、愛する人の為にする苦労こそ幸せなのである。幸福とは、愛する人と伴に生きることに相違ない。
 楽したいからと結婚しないのは、本当の幸せを知らないからである。楽するだけの人生なんて、ただ怠惰なだけだ。
 愛は、一時の激情ではない。それは錯覚である。愛が成就した時、恒心が養われる。
 そして、男と女の愛は、孝の源となる。両親がお互いに慈しみ、労り、思いやる心が孝心を育む。
 愛は仁である。孝の根源も又愛である。
双方の両親を労り、慈しむことによって真の孝は生まれる。孝は、生み育む憐情なのである。






                       



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