自由について


そして、自由の実現に向けて


 何の拘束も制限もなく、自分の好き勝手な事ができる事を、自由だと錯覚している者が多くいる。それは、勝手気ままなだけであり、自由ではない。拘束や制約のない社会などない。また、自由は、拘束や制約によって成り立ってもいるのである。言いたいことを言いたい放題言える事が、言論の自由だと思いこんでいる人間がいる。しかし、実際の社会には、言いたいことを、言おうとしても、言えないような拘束や制約が。現実には、存在する。その拘束や制限の妥当性である。
 自由は、努力なくしてもたらされるものではない。そのことは、スポーツに、端的に表れている。自由を考える時、スポーツを見ればいい。スポーツ選手は、実に活き活きと自由にスポーツを楽しんでいる。俺は、ルールに縛られるのは、嫌だと言ってルールを無視したら、スポーツは成り立つであろうか。それは、自由ではなく、放縦である。スポーツ選手の自由な運動は、ルール自体の持つ整合性と、スポーツ選手達のルールへの習熟、そして、スポーツ選手の各人の技能によってもたらされる。
 つまり、自由とは外界の法と内面の規範、そして、自己の主体性の三つが一体になった時、発現するのである。
 外界の自由と内面の自由が一致した時、自己は、真の自由を享受することができる。自由は、外界と自己とをつなぐ肉体を鍛え、内面の規律を強化することによってもたらされる。その為には、鍛え抜かれたな強壮な肉体と強靱な意志が、なければならない。
 このような自由は、身体に障害があろうとも、達成することができる。なぜならば、自己が全てだからである。自己に与えられたものが、全てだからである。能力や技能は、属性にすぎない。与えられた肉体や、修得した技能を、最大限生かして、自由を、成就しようとする意志だ。自由になるために、最も必要なのは、強い意志の力である。それこそが、神の意志であり、神の力なのである。
 スポーツ選手は、スポーツに夢中になると我を忘れてしまう。その恍惚とした、忘我の境地こそが、自由の境地なのである。
 このような自由な境地を成立させるためには、矛盾のないルールと統一性のとれた内面の規範が必要であり、それらを形成していくのが自己の主体的な行動なのである。
 つまり、自己は、外界と内面に自己の言動を通して働きかけ、両者の整合性を取るようにしていくのである。
 外界の法と内面の価値観が、引き裂かれ、整合性を取ることが、できなくなった時、自己は、自己の主体性を、保つことが、できなくなる。その時、自己が、取るべき道は、自己の主体性を、自己以外のものに委ねてしまうか、外界と戦って、外界を、自己の価値観に従えるしかなくなる。
 前者は隷属であり、後者は、支配である。
 隷属や支配は、自己否定である。なぜならば、主体的存在である自己において、自己の主体性の否定は、自己否定だからである。隷属や支配は、主体の否定であり、故に、隷属や支配は、自己否定なのである。このような自己否定は、自己の属性である肉体を、否定される以上の否定である。
 自由を保証し、尚、奴隷も支配者もない世界を築こうとするいうが、自由主義世界の根本理念なのである。そして、その為に、自由主義国は、制度や手続きを重視するのである。
 自分の内面を規律し、外界を変革する。それが自由を求める者に課せられた使命である。そして、自由は、望まない限り、手に入れることはできない。それ故に、自由には、強い意志と愛の裏付けが必要である。
 人類の未来社会の在り方を解き起こす鍵は、自由を産みだし、発揚できる仕組みである。そのような仕組みを、築き上げられるか、どうかによって、人類の未来は、決するのである。未来へ。自由へ。これからの時代は、意志の時代である。

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