自由について
自己の定義
自己とは、何か。まず、自己とは、すべての存在の前提だと言うことである。次に、自己は、存在それ自体である。そして、自己は、独立し完結した存在だと言う事。つまり、自己は、それ自体で存在している。また、自己は、自己の唯一の体現体だと言う事。つまり、自己を、体現できるのは、自己だけなのである。そして、自己は、主体であるという事。また、自己は、今しか存在しない。そして、自己は、霊的な存在である。最後に、自己は、間接的、認識対象だと言う事である。
自分のいない世界は、自分にとって存在しなのに等しい。自分の存在は、この世のすべても存在の前提なのだ。自分を失うというのは、ある意味で、人類の滅亡と変わらないのである。だからこそ、人は、死を恐れる。しかし、ほんとうは、死以上に恐ろしいのは、自己を失うことなのである。
自己とは、自己の存在を意味するのであり、価値観や肉体を意味するのではない。自己の価値観や肉体は属性にすぎない。自己の根本、自己の存在にしかない。つまりは、私は生きている。私は、ここにいる。この点につきる。
考える故に、我ありは、存在証明にすぎない。我ありに重心があるのであり、考えると言うところは、他の言葉に置き換えても成立する。食べる故に、我ありでも良いし、恋をする故に。我ありでも言い。要は、我ありが、重要なのである。
愛は、形式ではない。愛の背後にある自己の意志が、問題なのだ。目の前の現象に目を奪われ、その背後にある本質を見失ってはいけない。重要なのは、相手を愛しているかいないかだ。
なぜ、世のため人のために働くのか。それは、自分が、この世に生きているからに、他ならない。生きているという事実こそが、自己の存在の本質なのである。生きている、そして、生かされているという真実を抜きに、自己の存在意義を問うのは、愚かなことである。
自分は、生かされているというのに、なぜ、そのことで悩む必要があるのであろうか。なぜ、それを否定する必要があるのであろうか。自分は生きている、まず、そこから始めなければ、何も始まらない。
最後は、自分しか頼りならない。結局、誰も助けてはくれない。最後は、自分で、決めて、自分で、やるしかない。自分の始末は、自分でつけろ。
我々は、そういわれて育ってきた。そして、それは、真実だ。
何事も、最後は自分に返ってくる。自分でやったことは、最後は、自分が責任をとらなければならない。結局、つまるところは自分しかいないんだ。これもまた、真実である。
しかし、同時に、自分を生きているという根本がなければ、これらの言葉は、無意味である。
自分さえよければいいという言葉と、他人は、どうなってもという言葉がよく対に使われる。自分さえよければという事と、他人は、どうなってもという言葉は、イコールではない。自分は、生かされているのである。自分さえと言う言葉の裏には、自分と伴に他人を生かそうとする意志が、最初から、潜在的に働いているのである。だからこそ、自分を生かそうとすればするほど、献身的に他人に尽くさざるを得ないのである。それは、人を、愛することを知った人間にとって、自明なことである。
自分しか頼りにならないとして、他を受け入れないのは、自分が、生かされているという事を、忘れているからである。自分を頼ることは、間違いではない。しかし、それを口実にして、他を受け入れないのは、間違いである。
肉体もモラルも自己の属性にすぎない。自己の本質は、その存在にある。それ故に、究極の自己否定である、自殺は、絶対に許されない。しかし、自己は、主体的存在である。故に、主体性を喪失し、自己の存在を自覚し得なくなった時、肉体は、ただの骸にすぎない。故に、事故や病によって主体的判断力を喪失した場合は、そこに、自己は存在しない。自己にとって大切なのは、主体であることなのである。
そして、自己は、今しか存在しない。つまり、自己は、今の存在そのものなのである。
自己は、自己にとって今は、普遍的であり、永遠なのである。この一種一瞬のきらめきの中に自己は、存在している。だからこそ、自己にとって、今が、大切なのである。
このような存在は、この世に唯一しか存在しない。つまり、広い世界にたった一つしか自己は、存在しないのである。そして、その自己は、自分の世界の主人なのである。
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