経済と陰陽五行(実績編)

認識と陰陽


 主体は、対象を認識すると、対象を他の対象と識別する。それが分別の始まりである。主体は、対象を識別するにあたって自と他の関係を設定する。
 そして、自他の関係を元にして。内外、主客と置き換えていく。この様な置換の過程で空間が生じる。空間が成立する事によって位置が定まる。更に、それに時間軸が加わることによって運動が成立する。

 位置とは、差であり、運動は、変化。関係は結びつきである。言い換えると、位置は不易、運動は変易、関係は易簡である。

 出発点は自己にある。自他の関係にある。
 そして、自他の関係に対する認識の前提は、自己は、主体的存在であると、同時に、間接的認識対象だと言う点である。

 現代社会の最大の欠点は、自己否定にある。それは、科学を絶対化することによって客観主義や相対主義を絶対視することに原因がある。客観主義や相対主義を絶対視することは、資本主義にも、共産主義にも、社会主義にも、共通している。そして、自己否定は、物質主義、唯物主義に発展し、利己主義を育む。
 自己の否定は、自他の関係の否定であり、主体、主観の否定である。主体、主観の否定は、主体性の否定に繋がる。主体性の否定は、個性の否定でもある。個性の否定は、個としての人間の精神や魂の否定に発展する。それが唯物主義である。唯物主義は、科学主義の宿痾である。

 また、資本主義も社会主義も世襲を原則的に認めていないと言う点では共通している。特に、社会主義は、世襲を否定する事によって成り立っていると言える。その社会主義国において、世襲が行われている。これは、皮肉なことであり、且つ、象徴的なことである。思想上において世襲は問題は、あまり議論されたことがない。しかし、現実には、一番生々しい問題である。なぜならば、世襲問題の背後には、家族問題や民族問題が隠されているからである。現に、民主主義を標榜する国々でも世襲議員の問題は片付いていない。
 経済や経営において世襲はどの様な問題を引き起こすのか。それは、私的所有権の制限を意味する点である。経営問題では、事業継承と相続税の問題の根底をなす。
 また、事業に携わる者にとって人生観の根幹を形成するものであり、また、働く者にとって忠誠心の拠り所でもある。則ち、何のために働くのかの対象なのである。人生観や忠誠心は、自己実現の動機であり、頭から否定できるものではない。そこに、自他の問題がある。

 自己の存在は、認識の前提である。自己存在を認識する事は自他の関係を認識する事でもある。故に、自他の関係を否定する事は、認識の前提を見失う結果を招く。自己というのは、主体的存在であり、客観的対象が他である。自他の関係は、主客の関係を成立させる観念である。そして、相対的観念の原点でもある。
 客観性や相対性というのは、対象の全てを物とする事を意味するわけではない。

 取引には、立場がある。その立場によって取引の働きは変わってくる。則ち、一つの取引にも順逆が生じる。商品の売買では、売り手の立場に立てば、売りであり。買い手の立場では買いになる。貸し借りならば、借り手か貸し手かの立場に従って取引の働きも逆になる。これは自他の関係が基本にある。

 科学は、本来、認識の相対性を前提している。則ち、科学と言うのは、主観によって定まるのである。その科学から、主観性を徹底的に排除し、客観性のみに依拠すると、科学の相対性は損なわれる。
 その結果、科学を絶対視することによって、科学は、現代の神話となったのである。その時から科学の法則は、仮説ではなく、普遍的真理に変質したのである。そして、科学以外の理を神秘主義として現代人は、排斥したのである。その結果が、人心の荒廃と自然環境の悪化である。
 神を否定する者は、自らを神とする。

 経済的価値とは、本来、主観的な価値である。

 位置とは、差である。差は距離で測られる。当初の位置は、自分と対象との距離によって導き出される。距離がなければ位置が定まらず、関係は成立しない。又、距離がありすぎても対象間に働く力が効かなくなり、関係は生じない。
 故に、適度な距離を保つこと、則ち、中庸が大切になる。

 有無を確認し、対象認識、自己認識と進み、そして、自他の関係を元として、内外、主客、個体と全体と置き換え、対象認識は、更に、有形無形、表裏、主従、前後、順逆、虚実、質量、長短、上下、高低と変換を繰り返し、個別から一般、一般から普遍、普遍から特定へと発展する。最後に陰陽に至る。
 置換と変換を繰り返すことによって対象に働く力の方向と質と量が決まる。

 陰陽とは、働き全体の方向と状態である。そして、陰陽は、均衡、一元を求めて変動する性質がある。

 経済や経営も、自他、内外、主客、表裏、主従、前後、順逆、質量、長短、上限、高低との変化が組合わさって陰陽、則ち、その働きの方向と質、量が決まる。

 例えば、経常収支と資本収支は、表裏の関係にある。経常収支と資本収支の働きを仲立ちしているのが為替である。そして、経常収支は経常取引の、資本収支は資本取引の、為替相場は為替取引の集合である。個々の取引は、交易市場、資本市場、為替市場を形成する。

 そして、経常取引は、自他、主客、内外と変換し、内外取引の段階で、資本取引と為替取引を派生させる。また、経常取引と資本取引、為替取引は、虚実の関係も成立させる。

 為替には、自他の別があり、主客、内外、表裏の関係を生み出し、最終的には上下という運動として現れる。上下動は、経常収支、資本収支、物価と表裏の関係にあり、又、虚実の関係にもある。そして、為替の上下動は、経常収支や資本収支、物価にも上下動を引き起こす。

 また、為替の変動は、経常収支や資本収支の働きの方向に対し、逆方向に作用をする力がある。
 例えば日本を自とし貿易相手国を他とした場合、経常収支の黒字は、円の上昇させる働きがあるが、円の上昇は、経常収支の黒字を減少させる働きがある。この順逆の働きによって経常収支を均衡させる力が常に働いている。
 
 又、経常取引は、内外の物価にも影響を及ぼす。物価は、所得と表裏の関係にある。

 この様な変換の連鎖が経済全体の方向と状態を定め。それが陰陽に収斂される。

 陰中に陽あり、陽中に陰あり。市場は、上昇圧力と下降圧力が常に存在する事によって全体の働きの均衡を保っている。一方向の圧力しか働かなくなると市場は、制御できなくなり、暴走する。この上昇圧力と下降圧力を働かす仕組みの一つが競合である。正し、競争は、絶対ではなく。過当競争は、市場の働きを過剰にして市場全を毀損してしまうこともある。

 礼は、双方向の働きがあって形骸化を防げる。双方向の働き、則ち、作用反作用の働きがなくなると礼は、硬直化し、形骸化する。
 礼が双方向の働きを前提としているのは、礼が、自他の関係を元にして成立しているからである。
 礼は、自他、主客、内外と発展し、それが主従の関係を形成する。認識上の主従の関係は、相対的な物であり、絶対的な関係ではない。則ち、何を主とするかによって、何を従とするのかが決まるのである。この場合の主従の関係はあくまでも認識上の問題であって上下関係を意味するものではない。則ち、主従の関係は、その場、その時の立ち位置によって決まる。

 お客様は神様だと言った演歌歌手がいた。顧客が市場を通じて主張することが可能だからこそ経済は形骸化を防げる。
 経済が、効果を発揮するのは、顧客が市場の主人となるからである。市場が独占され、顧客から選択肢が奪われ、顧客の主張が通用しなくなると取引は形骸化する。則ち、市場が独占されれば消費者は、供給者に隷属し、主体性が失われるのである。それが自由の喪失である。

 マニュアルが絶対化するとサービスは形骸化する。サービス本来の目的や精神は見失われる。そして、サービスの本質は失われるのである。
 それは、政治にも言える。民が主人になれば、天と民とが一体となり、礼は完成する。則ち、礼は双方向の働きを持つのである。
 人間関係というのが双方向の関係であるならば、礼は、本来双方向作用である。封建主義の礼が形骸化したのは、礼の働く方向が一方向に偏っていたからである。
 一つ一つの礼は、双方向の働きを持った行為であり、その一つ一つの所作が連結されることによって礼の働きは循環し、形骸化を防ぐ。

 人事制度は、本来、統制を目的とし、恣意的な制度である。試験制度や客観的な基準によって恣意性を排除しすぎると人間性が、人事制度から喪失する。

 一陰一陽、これを道という。

 一元にして復始まる。
 物極まれば必ず返る。

 万物は流転する。

 陰陽は巡る。陰陽は巡ることによって効力を発揮する。
 陰陽に基づく礼は、循環することによってその働きを保つことができる。

 経済には、順逆の働きがある。順逆の働きは、自他、内外、表裏、虚実の関係を元にして発生する。

 経済現象を予測する時、重要なのは、働きの方向と、その働きの虚実である。

 為替相場の動きは、内外で逆方向になる。円とドルの関係で言えば、円が上がればドルは下がる。円が下がればドルは上がる。必然的に働きも内外で逆方向になる。

 市場取引は、同量の債権と逆方向の債務、そして、現金を生じる。現金とは、貨幣価値を実現した物である。

 貨幣がどちらの方向に流れているかが重要となる。

 資金の流れには、投資の方向と回収方向の働きがある。公共投資や金融政策を有効たらしめるためには、資金が発散する方向に流れているのか、回収する方向に流れているかが重要となる。






                       



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