経済と陰陽五行(実績編)

経営の実際


 万能の施策などないのである。施策は、手段である。手段は、状況や目的、則ち、前提条件に応じて選ぶべきであり、あらゆる病に効く万能薬がないように、万能の施策はないのである。
 競争は、原理ではない。一つの手段である。しかも、前提に基づく手段の一つである。また、競争が成り立つのは、規則があっての上である。そして、規則とは、人為的な取り決めであって、規則間にある矛盾は、誤謬は取り除いて整合性をとるべきだが、所与の自然法則のような法則とは性格が違う。それを自明な法則と同一するのは間違いである。

 企業実態や産業実態をする場合は、自他の確認から入る。自分の立ち位置によって内外の意味も、企業や産業を分析する主旨も、の目的も違ってくるからである。自己の立ち位置は、自己の行為の目的を規定する。同時に制約条件を明らかにする。そして、自己の立ち位置は、自己の置かれている前提条件に基づいて定まる。自己の立ち位置が定まれば、内外の定義と範囲の画定をすることが可能となる。

 企業を分析する者の立ち位置には、先ず企業内部の人間か、外部の人間家によって違いが生じる。その違いは、入手できる情報の質と量に差が生じ、それに応じて会計に対する見方も変え、基準にまで影響を及ぼす。その結果、内部の者が基本とする会計を管理会計、外部の人間が基本とする会計を財務会計と区分する場合すらある。

 会計には、開閉の問題がある。つまり、外に向かって開かれている企業か、閉ざされた企業かである。株式会社は基本的に外部に向かって開かれた体制を前提としている。しかし、同じ株式会社でも未上場企業は、基本的に閉鎖的である。是非の問題ではなく。開放的経済主体と閉鎖的な経済主体が混在しているという事を前提とせざるを得ないのである。

 前提に基づいて自分の立ち位置を確認し、内外の定義と範囲を定め、開閉を明らかにしたら、いよいよ目的を定めて分析にかかる。

 企業分析の目的は、第一に、融資の為の判断材料(支払い能力)、第二に、投資のための判断材料(安全性や成長性)、第三に、取引のための与信調査、第四に、企業買収のための事前調査、第五に、企業経営(予算、原価計算、事業継承、設備投資等)のための基礎調査、第六に、労使交渉のための基礎資料、第七に、経済政策を立てるための指針、第八納税額を算出するための基盤等である。

 企業分析の項目は、一般に、第一に、安全性であり、第二に、収益性であり、第三に、採算性であり、第五に生産性であり、第六に成長性である。
 一般には、これらの調査項目は、共通しているが、目的や自分の立ち位置によってその内容や得られる情報、更に、入手できる情報等に差がでる。ただ、根本にあるのは、継続性である。

 分析に用いる指標は、第一に構成比、第二に、相関比、第三に、推移、第四に、回転率、第五に他社比較である。基準は、相対的なものであり、前提条件や状況に応じて選択されるべき尺度である。

 企業分析をする上で重要な要素として人、物、金がある。企業が社会に果たすべき役割にも人、物、金がある。人でいえば、雇用の創出や収入の定収入化がある。物でいえば、財の生産や設備等の投資がある。金でいえば、資金の調達と運用による供給とと循環である。そして、会計的に見ると利益の確保と事業の継続である。

 企業分析の根本的目的は、継続性である。企業には、形、相がある。事業の継続性は、企業の形と相に現れる。故に、企業分析は、この形、相が重要となる。企業の形と相には、人的形相、物的形相、貨幣的形相があり、各々違った次元に現れてくる。それを統合しているのが会計的形相である。企業分析では、有無の確認が重要となる。それは、有形、無形として現れる。また、表されて資源が有限を前提としているか、無限を前提としているか、つまり、時間的基準が重要となる。時間の作用は、時間価値が陰に働いているのか、陽に働いているのかによって違ってくる。時間が陰に作用しているのが静的形であり、時間が陽に作用しているのが動的相である。また、静的形は、固定的な相を持ち、動的相は、流動的な形を持つ。貸借は時間が陰に作用している形であり、損益は、時間が陽に作用している相である。
 固定と変動の区分の基準は、長期、短期に基づく。長期、短期は単位期間で区分けられ、通常は一年を単位とする。
 資金収支と期間損益は、表裏の関係にある。資金収支を決定するのは収入、支出である。期間損益の基準は、収益、費用である。事業の継続を決定付けるのは資金である。故に、実質的に企業の存亡を決定するのは資金収支である。しかし、資金収支は、資金調達の是非によって決まる。資金調達の是非に決定的な影響を与えるのが期間損益である。

 資金収支を基盤とした社会と期間損益を基盤とした社会は、異質な社会である。
 物を仕入れて売り切ればいいというわけにはいかない。仕入れに使う金は例え自分が出した金でも予め決められた手続や規則によって処理しなければならないのである。支出ではなく費用だからである。
 質素、節約、倹約して極力出費を抑える、入るを計って出るを抑えるといった発想は、資金収支の時代であり、期間損益の時代になると通用しなくなる。その代わりに、費用対効果が基準となり、比率と回転が重視されるようになる。

 債務の返済は、利益から履行される点も見落としてはならない。現金主義と期間損益の整合性が忘れられると企業経営は、成り立たなくなり、わけの解らないうちに破綻へと追いやられてしまう。

 例えば、2007年から2008年にかけて原油価格の高騰があったが、その時、キャッシュフローに注意するよう通達があり、その通達が原因で貸し渋りが起こり、多くの中小企業が資金的に行き詰まった。
 石油価格が高騰したり、自国の通貨が上昇している時、物価が上昇している時、市場が縮小均衡から拡大均衡に転換する時は、必然的に資金繰りは厳しくなる。この様に、キャッシュフローを問題にする時は、どの様な現象がキャッシュフローにどの様な影響、働きをするのかを事前に見極めておく必要がある。

 現在でも資金収支を基盤とした主体がなくなったわけではなく、混在していることを忘れてはならない。資金収支を基盤とした主体は、財政であり、家計であり、一部の個人事業者、そして個人である。

 収益と費用、利益は、会計的な概念によって要件定義されている。資産、負債、資本(純資産)も、収益と費用に準じて要件定義される。則ち、資本主義とは、会計的な概念によって確立されている思想なのである。

 収益−費用=利益という方程式を我々は、当たり前のように受け容れている。しかし、この様な方程式が成り立ったのは、近代会計が確立されたい後のことである。それ以前は、残高−支出+収入=残高である。つまり、利益ではなく、残高が問題だったのである。そして、儲けは、利益ではなく、残高−元金という式から導き出されたのである。つまり、収益や費用という概念はきわめて新しい概念なのである。

 残高を基本とした時代では、兎に角、お金が残っていれば何とかなったのである。元手を使い切ってしまえばお終いである。期間損益の時代になるとそう言うわけにはいかない。期間損益の基盤は、貸借対照表と損益計算書だが、資金は、全て外部調達が原則となる。つまり、資金は、外部から調達して、内部で運用し、そこで生じた利益を山分けするのである。不思議に思うかも知れないが、企業内部には、極力資金を残さないようにするのが原則である。残高とあってもそれは必ずしも現金の裏付けがあるわけではなく。帳簿上にそれだけの価値があると記載されているに過ぎない。だから、企業は清算されるとなにも残らないし、残さないのが原則である。つまり、企業というのは、生活実態のない金儲けのための機関なのである。

 つまり、期間損益を基本とした事業経営では、常に資金の調達と運用を前提としている。調達と運用による資金の循環がなくなれば、企業は存続できなくなるのである。何等かの残高があれば存続することが可能なのではない。資金調達のための指標が利益である。増収増益が一つの目安とされる。その為に、利益を平準化しようという動機が生じるのである。

 もう一つ重要なのは、貸し借りの関係である。期間損益は、損益という思想と貸借という二つの思想からなるのである。

 貸借と言う関係の成立は、使用権と所有権の分離を意味する。決算書の構成が、損益と貸借からできていることは象徴的である。期間損益の基本は、利益と損失であるのに対し貸借対照表の基本は貸し借りなのである。
 使用権と所有権の分離は、所有権と経営権の分離と合わせて企業を所有権なき主体にしてしまう危険性がある。それは、経営主体の機関化を招く。
 所有権から時間的価値を派生させる。財産は、ただ所有するだけでは利益は生まない。貸し借りという関係が生じて、損得関係が成立する。損得関係が損益関係に転じることによって時間的価値が形成するのである。

 所有と経営が分離されると経営組織は機関化される。つまり、経営組織は、何等かの運命共同体ではなく。何等かの経済的目的によって組織化された機関であり、目的を達成したら清算されるべき対象である。経営組織を構成する構成員は、単に一定期間、所得を得る目的だけで勤めているのに過ぎない。所得は、単価×時間か単価×数量によって計測されるのが原則である。それが株式会社の基本である。株式会社は基本的に人間関係を求めないし、組織の構成員は、人間関係を期待しない。会社という空間は、非人間的な空間である。

 企業は機関化すると経営地盤が脆弱化し、収益が悪化すると経営危機に陥りやすい。その為に、企業は、常に増収増益を至上命令とせざるを得なくなる。
 なぜ、機関化すると経営地盤が脆弱化するのかというと、第一に、機関化すると組織から生命力が失われるからである。即ち、生命力とは、自律的働きである。自律的働きとは、組織を構成する個人や個々の部分が組織を存続するために独自の判断や行動をとる事であるが、機関化すると企業は、ただ、報酬を得るだけの意味しか持たなくなり、金儲け以外、組織を存続するための動機が失われるからである。
 また、第二に、全体と部分の利害が一致しにくくなり、組織としての統一が保てなくなるからである。ただでさえ、組織が肥大化すると収益が悪化してもその原因を共有することができなくなる。全体と部分、部分と部分が、統一した認識を前提にできにくくなるのである。運命を共有できないのである。それが組織の分裂を加速する。官僚機関がその典型である。個々の個人は善良でも集団化すると暴走し、制御する事ができなくなる。
 第三に、実体を喪失するからである。自律しようとする意志は内部にある。しかし、所有権が外部にあれば、自律しようとする意志が組織全体の意志として反映するのが困難になるからである。自律しようとする意志は、即ち、主体性である。その結果、組織が組織としての自律性、主体性を保てなくなるのである。組織を維持存続しようとする力は、組織内部になければ組織は存立できない。

 機関化すると苦楽を共にする。集団から喜び、哀しみといった人間性が失われる。それは、組織の成功と自分の成功とが結びつかなくなる。仕事仲間の現実と自分の置かれている現実とは無縁なのである。それが、疎外である。

 期間損益は、何等かの実体があるわけではない。基本的に会計制度に基づく概念である。資金収支は、少なくとも残高という実体を元としている。その点を良く注意しないと経済も経営も真の実体を見失い、虚構の世界に落ち込んでしまう。それを回避するために、近年キャッシュフローが重視されるようになってきたのである。ただし、キャッシュフローも資金の実際的な動きを理解していないと単なる観念的なもので終わる。

 資産、負債、資本、収益、費用の中で実体があるのは資産だけである。負債、資本、収益、費用は、取引の記録と痕跡だけである。

 例えば受取手形は、手形という証書を保有していることを意味するが、支払手形というのは、支払手形を発行したという記録を意味する。

 資産だけが実質的価値を形成し、他は名目的価値しか持たない。

 経済指標の元となる経営指標は、名目的価値によって表される。

 経済には、固定的な部分と変動的な部分がある。資産にも、負債にも、資本にも、企業にも、収益にも、費用にも固定的な部分と変動的な部分がある。
 固定的というのは、長期的、静態的、普遍的な部分であり、変動的というのは、短期的、動的、刹那的部分である。ただし、固定的、変動的といっても、相互に関連した事象である。相互の関連や前提条件を確認しないと一概に固定的、変動的と決め付けることはできない。即ち、固定的か、変動的かの基準は、相対的なものである。

 収益で問題になるのは、収益の変動要因である。収益は基本的に市場に依存している。則ち、収益は、市場的概念なのである。市場は、需要と供給によって成り立っている。則ち、収益には、需要要因と供給要因がある。

 又、費用では固定的な部分が問題となる。固定費を構成するのは、第一に、人件費、第二に、設備関連費用(償却費、リース料、賃貸料等)第三に、販売費、管理費、第四に、金融費用、支払利息、第五に、その他固定費がある。

 費用には各々性格がある。例えば人件費は、下方硬直的であり、物価上昇率+α、年々上昇する傾向がある。また、人件費は、所得であり、生活のための原資である。継続的な定収入は、長期的資金、借入の原資となり、借入は、継続的雇用によって保障されるという性格がある。
 又、償却費は資金流失のない費用だと言う事である。ただし、償却費の裏には長期借入金元本の返済費が隠されていることを見落としてはならない。償却費と長期借入金の元本の返済は、表裏を為すものであり、資金計画の骨格を為すものである。

 収益では、変動要因、費用では固定要因が問題になったが、収益と費用は表裏の関係にあることを忘れてはならない。即ち、固定要因、変動要因、いずれが重要かではなく。相互にどの様に関連し、どの様な相乗的な働きをしているかが重要なのである。

 資金は、借入金、資本、収益によって調達される。資金は、生産手段か、金融資産か、原材料、仕入れ商品に投資として運用されるか、消費される。生産手段、金融資産、原材料、仕入れ商品に投資された部分を資産といい、消費された部分を費用という。調達は、会計上貸方に集計され、運用は、借方に計上される。投資と借金は権利でもある。資産は、再建を構成し、負債と資本は、債務を形成する。資産は、実体に依存し、実質的価値を形成する。負債と資本は、金融に依存し名目的価値を形成する。実質的価値は、収入の裏付けとなり、名目的価値は支出の根拠となる。
 期間損益は、総資本と総資産、収益と費用からなる。総資本と総資産は、貸借勘定を構成し、収益と費用は損益構造を構成する。

 企業の実績は、正負によって表現される。正は黒字、負は赤字である。正と負は、虚の部分と実の部分に判別される。虚の部分とは、例えば、未実現利益や減価償却のように資金的な裏付けを持たない部分である。
 これらを解析することによって経営の実態を解明することができる。

 現代企業の最大の前提は継続である。則ち、企業は継続することで社会的役割を果たすことができるからである。ある意味で企業経営の目的は、継続にあるとも言える。利益は、企業経営を継続していく上で不可欠な要素といえる。逆に言えば、利益は、継続的な企業経営を前提とした上に成り立つ二義的な要素だと言える。その証拠に、企業は利益がなくても継続することは可能なのである。利益や損失というのは一つの兆(きざ)しである。
 ならば、継続することで果たすべき役割とは何か。そこに経済の本質が隠されている。そして、経営の目的の秘密もあるのである。ここで言う経営の秘密は、経営の本質をも意味する。

 企業が経済に果たす役割の一つに所得の定収入化がある。定収入というのは、収入を固定的で、一定した所得を一定期間継続的に支払うことを保証する制度によって成り立っている。これによって家計の収支が平準化されることを意味する。家計が平準化することは、消費が平準化することを意味し、経済を安定させる要素となる。
 そして、収入が保証されることによって、長期的な借入が可能となる。それが経済の需要予測を容易にすることが可能となったのである。又、長期的資金の調達が可能となったことによって、企業経営に計画性を持ち込むことができるようになった。そして、それは投資の裏付けにもなったのである。

 この定収入を裏付けるのが、企業の収益と金融である。この点を突き詰めてみれば、企業や金融の本来の役割が見えてくる。
 企業収益は、事業の継続を保つために必要な要素であり、金融は、資金が不足して事業の継続が危うくなった時に、資金を供給するのが本来の役割である。問題は、企業が事業を継続できなくなる理由が、恒久的な原因に基づくのか、一時的な原因に基づくのか、則ち、継続が困難になった時、再生、再建が可能か否かである。それを判断するために経営を分析するのである。その為には、先ず収益構造が問題となる。

 企業の事業を継続し、継続することによって使命を果たすためには、安定した収益構造が大前提となるのである。経営分析も安定性、収益性、生産性、成長性から分析される。雇用を維持し、一定の所得を継続的に支払続けるためには、企業収益が一定の水準で確保されていなければならない。しかも、今日のように拡大均衡を前提とした経済下では、一定の水準で人件費も上昇し続けることが前提となる。この様な経済体制下では、停滞は悪なのである。
 しかし、収益には、波がある。その為に、収支に過不足が生じる。収支の過不足を補うのが金融の最大の役割なのである。

 この様なことを前提に企業経営や金融を考えると、長期的展望に立った事業観が必要であることは自明である。一番、企業経営や金融においてその能力を発揮することが要求されるのが、資金が不足した時だからである。
 資金が不足する状況というのは、収益が落ち込んだ時である。重要なのは、収益が落ち込んだという結果ではなく。収益が落ち込んだ、原因である。それが経営者の不可抗力に要因によるのか、又、一過性の原因なのか、構造的な原因なのかが重要になる。原因によって採るべき施策が違ってくるからである。

 2008年以降続く経済危機は、企業収益が収縮していることが一因である。適正な企業収益を取り戻さない限り、抜本的な解決は望めない。

 なぜ、適正な価格を維持する行為を全て認めようとしないのか。それは、根底に人間不信があるからである。
 暴利を貪ることは、許されない行為である。しかし、適正な価格を維持しようと言うのは、企業経営を継続する上で、不可避な行為である。
 経済環境の僅かな変化でも企業経営には、深刻な影響をもたらすことがある。例えば為替の変動である。問題なのは、その影響が一時的なものなのか、経営責任に帰すべき原因なのか、それとも構造的な問題なのかである。

 経済体制を維持するためには、適正な収益が不可欠な要素である。適正な収益は、適正な価格を維持することが前提となる。

 現代経済というのは、人間不信の経済なのである。それは、人を人として見ずに、貨幣価値に換算してみようとするからである。
 例えば、書籍の価値を売れ行きだけで判断するような事である。書籍の価値は、本来、書籍の内容によって判断されるべき事である。書籍の内容をどう考えるかは、読み手の主観に左右される。きわめて、人間的な行為である。経済が、人間を主として形成された事象である以上、主観的な行為からのがれられないのである。人間が信じられなくなったら、経済は成り立たなくなる。

 経済は、人間同士の信頼関係の上に成り立っている。近代以前には、信頼の根底に神が存在した。契約も神を介した契約である。だから、結婚式も神前で行うのが習いなのである。現代社会の病巣は、神の不在にある。現代は、神なき世界なのである。

 企業経営には、誤解がある。則ち、企業経営は、ひたすらに利益を追求することだという誤解である。しかし、経営主体本来の機能は、社会に有用な財を生み出し、生活の糧を得るための所得を配分することである。則ち、労働と分配にある。企業の本質は、雇用にあると言っていい。利益というのは、その為の手段に過ぎない。それに、経営を継続するために実際に必要なのは、利益ではなく、資金である。

 現代人は、商人や資本家をどうしても悪役にしなければ気が済まないようである。時代劇の悪役も悪徳役人と悪徳商人に相場が決まっている。士農工商の身分の名残なのだろうけれど、誰もそれを差別だとはいはない。しかし、一種の差別であることには変わりない。
 その証拠は、公益事業は利益をあげる必要がないという事である。あたかも、利益を目的とした事業は、賤しいことであり、利益に囚われない事業は、貴いと言っているようなものである。だから、公益事業は、経営が破綻する。
 公益事業に携われ者には、利益を目的としなくとも事業は成功させることができるという奢りがある。結局、武士の商法、殿様商売になる。又、事業に失敗しても罪悪感はないし、罪に問われることも稀である。

 御上のやることには間違いがないという意識がどこかで働いている。経済の建て直しも、その意識が先行する。うまくいかなくなると結局、運が悪いか、無知な国民が悪いのである。年金問題が好例である。

 日頃商売人を目の仇にしている癖に、財政が破綻すると、やれ民営、民活と囃し立てる。こんどは、民営化が万能の施策のようになる。その前に、なぜ、公共事業が上手く機能しなかったのかを考えるべきなのである。
 一方は、潤沢な資金があって人材も豊富であり、規制にも守られているというのに、経営破綻した。何がそうさせるのかは、経済を考える上での決定的な要素であるはずである。

 貨幣経済を構成する要素には、人的経済、物的経済、貨幣的経済、そして、会計的経済がある。貨幣経済が発達する以前は、人的経済、物的経済だけで成り立ってきた。この人的経済、物的経済を補う形で貨幣制度が発達し、現在では、貨幣経済は、不可欠な要素にまでなった。貨幣制度がここまで浸透することができた背景には、近代会計制度の発達がある。現代貨幣制度は、会計的制度と貨幣制度に支えられて成立している。
 これが大前提である。

 しかし、会計制度や貨幣制度の発達は、人的、物的経済の存在感を薄れさせてしまった。その為に、あたかも貨幣的経済が貨幣経済の全てであるような錯覚を引き起こしている。その錯覚が、現代社会の病巣である。

 経済に人的経済、物的経済、貨幣的経済があるならば、経営には、人的機能、物的機能、貨幣的機能がある。そして、その機能は、各々独立した目的、要素を持っている。人的目的から言うと、企業は、一種の運命共同体だと言う事である。又、物的経済から言うと、企業は、製造や流通という職能集団、生産機関だと言う事である。貨幣的機能から見ると貨幣の流通、分配を担っている機関だと言える。

 企業が継続を前提とするのは、主として人的経済からの要請である。この点を忘れては成らない。あくまでも、企業の主は、人だと言う事である。

 経済は、金が全てではない。又、経済は金のためにあるわけではない。金は手段であり、道具である。ただ、金が上手く循環しなくなり、本来の機能を発揮しなくなった時、経済は混乱するのである。
 金は生命ではない。しかし、生命を維持するために必要な、いわば血液のようなものである。金を軽んずるべきではないが、金を過信することも。必要以上に高く評価することも、又、危険なことである。

 経済は、常に、人が主である。経済は、人々が生きていく為の活動なのである。人の経済の基礎は、人の一生にある。人の一生とは、生きる為の過程である。人の生き様である。則ち、生まれて、成人し、家庭を持ち、子供を育て、やがて老い、死んでいく。その家庭にこそ、人の経済は、成立する。
 企業の主たる目的、使命は、人に生きる為の場を提供することにある。

 つまり、労働の場を提供し、そこから、生活に必要な糧、貨幣経済では、現金を分配し、社会に必要な財を生産することが企業の主要な役割、機能である。これが前提である。その為に、企業は継続を前提とする。

 継続を前提とする経営活動の基盤は過程にある。経営とは、物を現金化するプロセスだとも言える。そして、そのプロセスを明らかにすることが経営の実態を解明する手がかりとなる。

 又、企業の重要な役割の一つに、定収入化がある。定収入化というのは、固定的というのと、一定という二つの要素がある。安定した定収入を保証することは、生活設計をしやすくすると言う効果と、生活設計に基づいた借金を可能にすると言う効果がある。この二つの効果が、経済に重要な役割を果たすのである。

 故に、企業の社会的役割において重要なのは、定収入の確保と保証、その為の経営の継続なのである。
 この点を前提として経済政策は立てられなければならない。

 企業経営というのは、先ず人の問題であるという事が前提である。困った時に助け合うことを目的として企業というのは形成された。企業は、本来経済的な共同体なのである。それが金銭的利益を追求する過程で不経済な機関になりつつある。つまり、経済の本質である人々の生きる活動が失われつつあるのである。企業は一つの社会なのである。困ったからといって働く者から労働の場を奪うのでは、企業本来の経済的目的を放擲することになる。企業は、自身が、利益を上げる為にあるのではなく。関係する人々に利益をもたらすためにあるのである。そこに企業の存在意義がある。無人で利益を独占するような企業は、経済的に存在価値がないのである。

 資本主義というのは、近代会計制度上において成立した思想である。故に、近代会計制度が理解できないと資本主義は理解できない。

 会計的に人の経済を見ると人件費という事になる。しかし、人件費を他の費用と同じ様な性格の費用だと思うと大きな間違いである。人を雇うという行為は、その人の一生を面倒見るという事を意味している。つまり、根源は、生涯賃金の在り方である。つまり、人件費とは、人を人として遇することを前提として成り立っている。ところが、会計的な利益ばかりを前提とするとこの点が見落とされがちとなる。しかも、人件費は、下方硬直的な上、年々上昇するという性格がある。そうなると、企業収益が圧迫された場合、どうしても人員削減と言う事に陥る。行き着くところ、なるべく固定的社員は、雇用しない方が合理的だという結論に達する。そうなると企業は本来の機能を果たせなくなる。ただ、それを経営責任と責めたところで、人件費を単なる費用だとしてみている限りは解決できないことになる。つまり、人間性を削ぎ落とさない限り、現在の経済体制では解決できなくなるのである。
 ただ単に競争を促し、費用を小さくするかだけで経済を評価しているだけでは、経済の均衡は保てないのである。それは、かえって不経済な行為である。

 又、人の経済は組織の経済でもある。どの様な組織的活動をするのかによって経済の有り様も変化する。

 次ぎに物の経済がある。物の経済といっても、権利やサービスといった無形な物まで含まれる。故に、物と言うより財の経済である。ただ、ここでは便宜的に物の経済とする。
 物の経済は、物の生産と供給、流通、貯蔵、分配、消費に関わる経済である。そして、物の経済では、生産性や効率が重要な要素となる。

 取引には物の受払とお金の支払という二つの側面がある。そして、この二つの取引が同時に完結するとは限らないのである。物と金の取引に時間的なズレがある場合が多い。

 最後に「お金」の経済である。

 「お金」の経済で、注意しなければならないのは、現金収支に基づく経済と期間損益に基づく経済とは異質な経済だと言う事である。現代の資本主義は、企業は、期間損益を基に、家計と財政は、現金収支を基礎とした混合経済である。

 そして、期間損益に基づく経済というのは、会計制度の上になれ成り立っている。そして、資本主義は、期間損益を基礎とした思想なのである。則ち、資本主義を理解するためには、会計の理念を理解する必要がある。

 会計制度は、通貨によって動いている仕組みである。資金は、会計制度の動力、エネルギーだといえる。エネルギーは力であって無形な働きである。
 通貨の力、即ち、資金力は、電力と言うよりも水力に似ている。水力発電機は、水の流れによって水力が生じ、発生した水力によって発電機を動かす機械である。
 水力によって動く機械や仕組みは、水の流れによる力によって動くのである。仕組みや機械の中に水がなかったり、水が静止している時は、水力は生じない。
 財務情報を視る時に注意しなければならないのは、財務諸表に表示されている数値は、実在する通貨の量を表してた数値ではないと言う点である。財務諸表に表示されている数値は、通貨が流れた痕跡に過ぎない。表示された数値だけの現金が用意されているわけではない。数値が指し示した対象の貨幣価値の水準を示した値に過ぎないのである。

 自由主義経済は、会計的に表現された数値を元にして成り立っている。そして、会計上に表れた数値を実体的な数値として認識するが、実際は、会計的な数値は、実体的な数値ではない。

 期間損益を考える上で基本となる概念は、一つは、利益の概念である。則ち、利益を算出する為の基本的理念である。第二に、貸借勘定と損益勘定の分離である。

 利益の概念の基盤を知るためには、第一に、誰の為に、第二に、何のために利益を計算するのかを明らかにすることである。その前提は、利益は会計的概念だと言う事である。つまり、利益は、合目的的な概念であり、任意な事象だと言う事である。
 利益を計算する目的が明らかになれば、利益を計算する上で前提となる要素、費用を構成する要素の成立要件が明らかになる。例えば、なぜ、減価償却があるのか、減価償却の計算式の根拠などが判明する。又、時価会計の是非もである。これにはきわめいて思想的な問題である。

 利益処分の内訳は、株主取り分、報酬、税、そして、内部留保である。これは、企業経営の主体を考える上で重要な示唆を含んでいる。つまり、利益の分配先とは、最終責任と、利権の所有者を指し示しているからである。つまり、資本家と経営者と国家と会社の関係先である。関係者とは、債権者を意味し、金融、取引業者、従業員である。ただし、関係者といってもそれは債権者と言うことであって利益の分配に与(あずか)る立場にはない。

 利益は、国に納めるか、株主に配当するか、債務者に返済するか、経営者に報酬として出すか、内部に蓄積するかの選択である。内部に蓄積するといってもその持ち分は、株主に帰す。

 利益処分を見ると明らかなことは、利益を分配する相手は、企業組織を構成する者の外にいるという事である。つまり、利益処分の対象としては、従業員は、対象外だと言う事である。ここに資本主義の思想が隠されている。企業は内的動機ではなく、外的動機に動かされていることを意味する。つまり、所有権の外在である。それが疎外の原因となる。企業経営が苦しくなると平然と人員削減が行われるのは、この様な資本の論理に基づく。

 配当、役員報酬、納税は、利益処分から分配されるという事である。利益処分と言う事は、これらの項目は、費用とは見なされないという事である。
 又、フリーキャッシュフローは、簡易的計算によると税引き後利益と減価償却費を加算した値として計算される。そして、借入金の元本の返済資金は、このフリーキャッシュフローの範囲内から支払われる。
 いくら売上が上がり、収入が増えても決められた以上の償却は認められない。借り金の返済は、最初から費用として認知されていないのである。つまり、いくら借金を返済しても金利以外は、収益に反映されない。

 購入した物が、資産計上され減価償却が適用されると償却費は、限定され、たとえ利益が上がったとしても予め決められた額しか費用計上できない。費用計上されなかった収益は、利益に計上される。その様にして算出された利益から税額が計算される。つまり、儲ければ儲けるほど納税額だけが増える仕組みになっているのである。
 会計上、利益が上がっても長期借入金の返済に向かわず、税金の支払いに廻ることになる。故に、企業は、利益が上がっている時は、なるべく早く償却が終わるように画策し、又、将来の借入金の返済に備えて 含み資産の中に溜め込もうとする。逆に、収益が見込めないときは、償却を先送りしようとする。金融機関は、利益が上がって資金が余っている時は、融資に応じ、利益が低下し、資金が不足している時は、融資に応じないどころか、資金を引き揚げようとするのである。晴れたときに傘を貸して、雨が降ったら、傘を取り上げるといわれる由縁である。
 結局、利益は、恣意的なものになるのである。この様にして算出される利益は、あくまでも作為的なものであり、作られた値である。作られた値であることが問題なのではなく。当事者が利益の意味を理解していないことが問題なのである。

 経済を考える上で重要な要素は、人の心である。利益をどう定義するかは、本来、人の心の問題なのである。しかし、現在は、利益は会計上の問題でしかない。故に、現代では利益は、会計上の目的でしかないし、会計上の動機しか想定できないのである。

 多くの富裕層は、給与所得者である。本来、富裕層は、資本家か、経営者である場合が多い。つまり、有産階級である。所得を給与にするのは、確かに、節税対策による動機が大きい。それ以上に大きいのは、所有と経営を分離する事が認められた結果、有産階級が一方でリスクを分散し、他方、収入の平準化という動機による事である。
 所有権と経営権を分離しておいた方が、収入を定収入化できる上に、収入を確実に確保でき。さらに、事業継承の時に有利だからである。
 また、単に私腹を肥やすというだけでなく。いざという時の為に、私有財産として蓄え、企業が縮小均衡せざるを得ない状況や資金不足に陥ったときに備えているからである。また、自分が関わっている企業が倒産しても一定の被害に留めようという動機からである。

 派遣のことをとやかく言うが、資本主義的合理性を追求すれば、人件費は、単価×時間、或いは、単価×成果に要約される。そして、この事を強く要求しているのは、組合である。つまり、資本主義も平等主義も向かっている方向は同じなのである。
 それに対し、企業を一個の共同体と捉えれば、人中心の思想になる。つまり、共同で働く者が生きていける環境作りが企業本来の目的となる。それが人中心の経済である。その根本は家族主義である。経済を考える上で忘れてはならないのは、人の心である。

 現行の会計制度では、儲かった時に、借金を返して不況に備えると言う事ができない。故に、不況になると一機に危機が表面化するのである。この点が従来の現金主義と決定的に違う点である。

 業績が悪化し、資金繰りにつまれば企業は清算される。それ故に、極力利益を企業内部に蓄えておこうという動機が経営者には働く。また、どうせ社外へ流出してしまうならば、企業経営に直接役立つことに消費しようとする傾向がでる。

 それが節税という行為である。節税という行為には道義はない。あるのは利益に対する考え方だけである。故に、節税という観点から、無駄に出費を省いて節約するとか、浪費、冗費を抑えて倹約する事が必ずしも美徳だとは限らなくなる。
 一方において、限りなく利益をあげるよう努力をし、他方において利益を少なく見せるように画策せざるを得ない。そこに資本主義の矛盾が潜んでいる。それが企業経営に影を落としているのである。同時に企業の金融政策の基幹部分にも節税という意識が働いている。問題は、企業の永続性、継続性という目的を企業経営者も債権者も公も見失っているからである。

 実際的に経営者が頭を悩ませているのは、税金と資金繰りの問題である。資金繰りというのは、資金調達、中でも、中小企業の経営者にとっては、借入、つまり、借金は、絶えず頭を悩ます切実、かつ、深刻な問題である。

 企業にかかる税金は、法人税だけではない。消費税や固定資産税、又、個人の所得税も間接的ではあるがかかる。そして、これらの税金が企業収益のどの部分を対象として課せられるかが、企業の行動に重大な影響を与えている。
 税制で重要なのは、税が企業経営に対してどの様な働きをし、それが経済全体にどの様な効果があるかである。

 国に税金を納めている企業が三割を切っているという事実をどう受け止めるべきなのか。
 従来の金融政策だけでは、税の問題も資金繰りの問題も片付かないのは自明な事である。少なくとも、資金繰りの問題を片付けるためには、金利を上下させたり、通貨の流量を加減するだけでなく。通貨の通り道を造ることも必要な政策である。

 現代の市場経済は、借金を前提として成り立っている。より厳密にいうと負債を土台にして成り立っている。市場経済が負債を前提として成り立っているのは、市場経済における経済主体の中核を担う民間企業が期間損益を基礎としているからである。
 なぜ、借金を前提として成り立っている。或いは、借金を前提とせざるを得ないのかというと、第一に、期間損益計算に資本主義経済は基づいているからである。二つ目には、負債の概念の確立がある。三つ目には、資産の概念が成立したことである。四つ目は、それに関連して、償却という概念が確立したことによる。五つ目は、利益の概念が成立したことによる。そして、企業経営は、これら五つの要素を基礎として資本の概念が成り立っているのである。

 期間損益は、貸借と損益の二つの部分から成り立っている。なぜ、期間損益において損益と貸借を区分したのかというと長期変動と短期変動とを区別するためである。

 なぜ、長期変動と短期変動を区別したのかというと、一つは、当座型経営から継続的経営に移行したことがある。次ぎ、多額の資金を一時的に必要とした点にある。つまり、貸借と損益の区分を明らかにしたのは、資金を調達するのにあたって費用対効果を事前に明らかにする必要性が生じたことである。時間軸を加えることで費用対効果を測定するに際、費用を平準化することが可能となったのである。しかし、その事によってそれまでの現金収支の考え方から利益を中核とした期間損益に基づく体制に一部移行したのである。結果的に、それまでの現金収支中心の会計、財政と期間損益に基づく企業経営とが分離したのである。

 資本主義というのは、近代会計制度上において成立した思想である。故に、近代会計制度が理解できないと資本主義は理解できない。

 また、資本主義の根底にあるのは、株式会社という思想である。つまり、株式会社というのは、一つの思想である。株式会社は思想であり、株式会社の有り様そのものが資本主義を体現しているのである。その意味で株式会社というのは、特異な存在である。株式会社を所与のものとして捉えると株式会社の本質は見えてこない。

 株式会社の特異な点とは何かというと資本の概念と償却の概念に要約される。資本の概念は、その裏側に資本家を前提としなければ成立しない概念である。

 会計制度が社会的制度として確立される以前の企業経営と、以後の企業経営との決定的な違いは、負債との関係にある。
 経営は、借金の上に成り立っているといって過言ではない。資本は、返済する必要がない資金というのは、間違っている。資本の提供者である資本家に対する返済は、企業が清算された時になされる。故に、企業が経営を継続している限り、返済を、前提としなくていい資金だと言う事である。実質的に返済をする必要がないという意味であり、資本は、負債の変形であると見なしていい。しかし、負債である事に違いはない。故に、経費がかかる。
 又、近代会計制度下では、負債や資本の働き、在り方は、対極にある資産の働き、在り方との関係を見ないと判然としない。則ち、負債や資本は、資産との関係によって成り立っている。
 この点が従来の財産と資産との違いである。財産は、それ自身が独立した価値を持つが、資産価値は、負債と資本との関係の上で成り立つ概念なのである。
 この違いは、実体経済にも影響を及ぼす。

 期間損益の基本は、収益−費用に基づいている。収益の在り方や費用の構造は、必然的に経済に影響を与える。

 又、税制度も重大な影響を持つ。税が何に対し、何を基準にして課せられるかは、実体経済の有り様に重大な影響を与える。

 収益と収入とは違う。収入は、収益に借入金と投資を加算したものである。支出は、資産に費用を加算したものである。キャッシュフローの原形は、この収入と支出から割り出される。則ち、キャッシュフロー計算書とは、試算表をいうのである。こう考えると試算表と精算表の役割は、現金収支から期間損益への変換にあるといえる。

 近年、時価会計の必要性がいわれている。しかし、時価会計の採用は慎重にされる必要がある。時価会計とは、長期的変動を短期的変動に置き換え、収益以外の収入を前提としようとする点にある。
 そして、収益以外の収入は、未実現利益を裏付けとして架空の収益と損失を前提とする事によって測られる。つまり、未実現、不確定な取引を前提としているのである。
 未実現利益とは、例えば、在庫を売り上げたことにして損益を計算することと同じである。 

 現金収支を基礎とした場合、未実現利益は問題にならない。なぜならば、現金収支上あるのは、残高であり、現金収支上には、利益という概念そのものが存在しないからである。

 現代の経済危機は、市場の収縮によってもたらされている。市場を収縮している原因を取り除かない限り、問題の解決には至らない。問題を解決するどころか、悪化させるだけである。

 市場を収縮させている原因は、収益の収縮である。つまり、収益構造が市場の圧力によって圧縮されていることが第一の原因なのである。実業が健全な収益構造を回復しない限り、縮小均衡に向かう市場の流れは止められない。

 収益が収縮することによって経済が経済危機の元凶であるならば、収益の健全性を取り戻す必要がある。収益を向上する手立てには、回転率を高めるか、利益率を向上させるかである。
 回転率を高める為には、需要を喚起し、消費を拡大する必要がある。しかし、市場が飽和状態な状況において重要を喚起するのはむずかしい。要するに、満腹状態で食欲が起こるようにするような行為だからである。現実に、食べた物を吐き出させるような施策が横行しているが、その様な施策は、かえって健全性を損ねることである。
 残された手立ては、利益率の向上である。回転率を高めるためには、競争心を煽ることである。それに対し、利益率を高めるためには、過度の競争を抑制することである。収益を向上させるといっても採るべき施策はまったく反対の施策である。万能の施策はない。重要なのは、前提条件である。
 市場が拡大均衡に向かっているときは、規制を緩和し、競争を促進すべきであるが、縮小均衡に向かう時は、規制を強化し、競争を抑制すべきなのである。

 原則として金利の上昇は、回収側に資金を向かわせ、金利の下降は、投資の側に向かわせる。ただし、金利による効果は、前提条件に左右される。

 補助金のような施策は、一時的に企業の収益を改善する効果は期待できる。しかし、あくまでも一時的な効果である。
 企業自体が収益を改善できる様な仕組みを作ることが重要なのである。

 多くの人は、資金の量ばかり問題にするが、重要なのは、資金の流れる方向なのである。資金をいくら投入してもそれが、返済の側に流れ、投資の側に向かわない限り、市場には資金は循環しない。更に、回収された資金が実業に流れず。金融市場や資本市場に流れれば、バブルを再発するだけである。

 総資産、則ち、総資本が収縮すれば、回収側、つまり、返済の方向に資金は流れる。逆に、総資産が拡大すれば投資の方向に資金は流れる。自己資本規制は、資金の流れを回収の側に向かわせる。実施する際は、慎重に行うべきである。

 重要なのは、市場に投下される資金の量でなく。資金が流れる方向である。現在の経済現象は、資金の偏在によって引き起こされている。一方において、資金が流れない部分があれば、他方に過剰に資金が流れている部分がある。流れなければならない部分に資金が流れず。流れては成らない部分に資金が多量に流入している。それが過剰流動性の本質である。つまり、過剰流動性の問題は、過剰に流れている箇所だけを取り上げても意味がなく。むしろ資金が流れない部分、滞留している部分の方が深刻なのである。

 金融政策を立案する際は、金利や通貨の供給量を加減することだけでなく。通貨の通り道を造ることも必要なのである。

 資金が実体経済、実体市場の方向に流れず、返済側、或いは、金融市場や資本市場に向かって流れる事が問題を引き起こしているのである。
 実業に資金が流れないのは、収益構造と不良債権問題の問題である。特に、収益構造、企業が市場で適正な価格を維持できないことにある。収益が確保できない中で不良債権処理に追われれば、経済は縮小均衡に向かわざるをえない。
 まず、過度の競争を抑制し、適正な価格を維持できる体制を採ることが重要なのである。過当競争を放置すれば、いずれ市場は寡占独占状態に向かうであろう。しかし、それは市場の機能の劣化を招く。

 収入が借入と投資と収益を加算するものとすると支出は、返済と利益処分と支払を加算したものである。費用と支出が同一でないのは、費用の中に支出を伴わないもの、そして、支出の中に費用化できない部分が、含まれるからである。
 また、費用と資産の違いは、費用には、支出がそのまま反映されるが、資産は、支出された結果が残っているだけである。つまり、費用とは、実質的な支出であるのに対し、資産は名目的な価値である。、

 期間損益は、単位期間の費用対効果の測定にある。故に、収益と同じくらい費用の構造が重要となる。収益と収入が別の概念であるように、費用と支出も別の概念である。

 経営の最終的目的は、収入と支出の長期的均衡にある。長期的均衡の計算は、本来、収益と費用の時間軸を無限大に設定することによって求められる。単純に考えれば、微分、積分によって求められる。しかし、収益と費用を決定する要因は、単純に確定できる要素ばかりではない。費用に関して言えば、長期的な費用を単位期間の費用として按分し、短期的な費用を加算すればいいのだが、そうすると必ずしも単位期間に発生する支出と一致しなくなるのである。それが償却資産と借入金の元本の返済である。
 そして、市場の変動によってもっとも影響を受けるのがこの償却資産の償却費と元本の返済なのである。

 企業には、人の形と相、物の形と相、金の形と相、そして会計の形と相がある。
 企業経営における長期的な均衡を見る時、重要なのは、物の形、キャッシュフローの形、人の形、会計の形である。物の形とは、設備更新の形である。キャッシュフローの形とは、資金計画の形である。人の形とは組織の形である。会計の形とは、償却の形である。
 企業収益は、人、物、金の長期的均衡の上に成り立っている。そして、収益という概念は会計的な概念である。つまり、人、物、金の調和を測る手段が会計なのである。故に、自由主義例財は、会計的均衡の上に成り立っている。

 初期投資は、資金を運用側に流し、以後は返済方向に流す。

 資金は、流体である。産業には、長期的資金と短期的資金の流れがある。長期的資金は、固定的働きを短期的資金は、変動的働きを形成する。

 損益を分けるのは、固定費と変動率の比率である。産業の性格を決定付けるのは、固定比率である。

 また、貸借増減運動が資金の流れる方向を定める。
故に、重要なのは、フリーキャッシュフローの構成とその使い道、運用先である。新規投資や設備更新に、フリーキャッシュフローが使われれば、運用側に資金は流れ、借入金の元本の返済に使われれば、調達側に資金は流れる。

 この根本には、株式会社という思想がある。
 株式会社という思想の前提には、所有と経営の分離がある。資本主義の根本思想は、株式という仕組みによって私的所有権と経営主体とを切り離し、私的所有権は一代限りとするという暗黙の前提である。つまり、世襲と同族支配の否定である。
 確かに、世襲や同族経営には問題が多い。一番の問題点は、身分制や階級制に繋がる危険性があることである。しかし、安易に企業の主体性を損ねることにも弊害がある。企業組織の機関化をもたらす。
 所有権と経営権の分離は、経営主体の主体性の分割、分裂に結びつく可能性がある。会社を経営すると言う事と会社を所有すると言う事は、どちらも主体性に関わることである。この主体性を分割することで、会社を機関化するそれが株式会社という思想である。会社が機関化されると、会社は人間の集合というよりも経済行為のための手段、道具と言う事になる。会社の目的は、金銭的な目的に限定されることになる。それは、唯物主義に繋がる思想であり、もっとあからさまにいえば、唯金主義、拝金主義である。会社は生き物である。人間の集合体である。会社を成り立たせている人々には、各々の生活や家族、人生がある。それを量的な側面だけで捕捉しきることはできない。

 また、私的所有権の問題になるのは、私的所有権は一代限りでありながら、事業継承をする際、評価は時価でして、支払いは現金で要求するという在り方である。こうなると一部の財産の所有権を放棄して現金化せざるを得ないという状況が派生する。この場合、負の遺産を相続することになりかねないのである。

 事業の継続というのは、所有者や経営者だけの問題ではない。働いている者や取引業者、金融といった多くの関係者の連鎖の上に企業経営は、成り立っている。円滑な事業の継承は、社会的問題の一つである。

 企業の支出は、他の企業や個人の所得になる。所得と支出は表裏の関係にある。企業所得は、個人所得や納税の原資でもある。個人所得は、消費や貯金、則ち、家計の原資であり、税は、財政の原資である。これらの関係が経済の基礎的関係を形作る。

 企業経営が継続を大前提としているのならば、必然的に事業継承が重要な意味を持つ。人の命には限りがある。どの様に優れた経営者でも命が終わる時が来る。そして、事業は、経営者の死を乗り越えて継続していかなければならないのである。
 いかに事業を継承していくかは、一事業家だけの問題ではなく。事業に関わる人間全てにとっての大事なのである。

 企業は、世の為、人の為にある存在であることを忘れてはならない。人とは、働く者であり、客であり、投資者であり、債権者であり、取引業者であり、地域住民である。企業は、ただ、金儲けをするためにあるわけではない。金儲けは手段であり、目的ではない。現代経済の根源的病巣は、企業の目的が金儲け一辺倒になり、それが国家社会の目的、人生の目的にまで転化しようとしていることである。

 経済は、生きる為の活動であり、それを実現するのが経営である。

 経営者が、仮に、20才の人間を採用しようとしたら、最低限、40年は、その人とその人の家族を養う覚悟を必要とする。又、従業員の数を四倍にした人間の数だけの生活を支えているのだという自覚がなければならない。本来なら、終生その人ともに生きていく覚悟が必要である。それが東洋的な発想である。そして、それが人の経済の基本でもある。
 老いた人間を老いたことを理由に社会から葬り去ることほど残酷なことはない。労働は苦役ではない。労働は、自己実現の手段である。労働は生き甲斐である。人生なのである。労働は喜びなのである。プロとは、誇りである。専業主婦を侮るが、彼女たちはプロである。だから、生涯、母親でいられるのである。
 プロの集団が企業体であることを忘れてはならない。働く人々からプロとしての誇り、プロとしての自覚が失われたとき、経営は、その目的を実現することが不可能となる。

 企業も、家計も、財政も機関化するにつれて社会から人間関係を表す表現が失われつつある。例えば、世話をするとか、養うとか、面倒を見るとか、恩だ、義理だ、人情だという言葉である。秩序や規律は、使うことすら憚れる。愛だ、恋だといっても虚しい。欲望と快楽以外に信じていないからである。その欲望や快楽を充たすのも金である。愛情や性も商品価値しか持たない。それに伴って人間関係もどんどんと稀薄になり、ひきこもりやニートといった言葉が生まれる。言葉は、その背後にある社会の実態を示している。
 しかし、この様な社会を招聘したのは自分達であることを忘れてはならない。
 人間性のある経済を確立しない限り、人間が生きることのできる経済、空間は、生まれないのである。
 経済的空間というのは、人々が泣き、笑い、時には、怒り、愛し合い、歓談し、踊り、歌い、食べ、子供育み、親の面倒を見る場である。それが経済なのである。そして、それを実現するのが経営である。金だけの世界ではない。
 例えば、経営効率が悪くなった企業や産業は潰してしまえと言う意見がある。しかし、それは暴論である。そこに生き、生活している人々がいるのである。人生があるのである。
 人間という生き物は、不器用なものである。簡単にそれまでの生き方を変えられはしない。人生にも限りがある。
 会社は誰のものか。この質問も虚しい。なぜならば、その場に生きている者達にとって会社が誰のものか、家族が誰のものかとが問題だからではない。その場に生きる者、一人一人が、その場でどの様に生きていくかが最大の問題なのだからである。会社が株主ものであろうと、又、債権者のものであろうと、経営者のものであろうと、国家のものであろうとそんなことは、その場に生きる者にとって本質的な問題ではない。自分達の生きる権利が保障されているかいないかが問題なのである。そして、そこにいる人々各々の生き様が守れるかどうかが重要なのである。人間は部品ではない。役に立つかたたないかが基準ではなく。どの様に生きていくべきかが基準なのである。それこそが経営の実際である。例え企業が倒産したとしても人々は生き続けなければならない。そのことを忘れてしまった企業は、経営の実体をその時失っているのである。





                       



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