Since 2001.1.6
本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures
belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout
permission of the author.Thanks.
Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano
日本には、無為自然という思想が根強くある。道教的な思想と仏教思想が混じり合い、さらに日本固有の自然観が混じり合って形成された。
日本庭園に代表される思想、自然にあるがままにある姿を愛でる。それが、自由なのだと。しかし、この考え方は、多分に日本的である事を意識しておく必要がある。それは、西洋の庭園を見ればわかる。自由は、多分に人工的と言うより、強い自己の意志に基づく思想である。
自由という思想が日本に入ってきた時、この無為自然を自由主義に結びついけて考える傾向が生まれた。
そして、自由主義的なあらゆるものを、無為自然によって説明しようとする。
たとえば、民主主義と結びついて、公正や中立、つまりは、自分の意見を持たない、無思想こそ、民主主義なのだとか。無為自然が、無作為となり、自由というのは、何もしない事という解釈がされる。そこから、無私、無支配、無管理へと発展し、最後には、民主主義が無政府主義に変質する。
言論界の人間がこれを言い出したら大変である。それは、自分の言論に責任を持たないと言っているようなものだ。
言論の自由とは、一切の人為的な働きを認めないと言う解釈になりかねない。言論とは、人の意志の働きである。根本にあるのは、その人の意志、詰まるところ、その人間の意志の根源にある価値観を、認めるか否かの問題だ。無条件に認めることを意味しているわけではない。だから、合意が必要であり、合意に至る手続きが必要なのである。その手続きを無視して、どんな表現でも無条件に認めろと言うのは、暴論である。
また、何もしないという事は、自己主張をしないという事である。自己主張をせずに、周囲の環境に適合する事によって、自分の意志を通そうとする。相手に合わせることによって自分実現をしようとする。しかし、それは、自由ではない。
この様な思想が、極端に反対に振れると、自己を超越した存在である、天や公の前に、無私や滅私であるべきだという思想を生み出した。それが高じて、私的なものの否定へとなるのである。
無為自然という発想は、さらに進んで、自然科学へのある種の信仰、自然科学に対する間違った認識をうみだす。たとえば、主観の排除、又は、客観性への無意味な依存。自然科学というのは、本来が、主観的なものだ。自然科学を志す人間は、積極的に自然や社会に関わっていかなければならない。
しかし、この様な自然科学絵の信仰は、科学万能主義を生み出し、無神論へとつながる。
気をつけなければならないのは、無為自然と、自由とは違うと言う事だ。決定的な違いは、無為自然には、自己がない。それに対し、自由とは、あくまでも、自己中心の思想である
自由とは、いかに自然と、自分が関わっていくかの問題なのである。無為であっては、自由は成り立たない。
無為自然というのは、ある種の境地をさして言うのであって、自由や民主主義と絡めて考えるべきではない。
自由を確立した時、他人から見ればそれは、無為自然な振る舞いに見える。ただ、それだけのことである。
自由主義
H 自由主義と無為自然